第十四話 体育祭の日
十月のはじめ。
今日は体育祭当日。
朝から校庭には、いつもとは違うざわめきが広がっていた。
各クラスのテント。
色とりどりの応援旗。
グラウンドを走り回る生徒たち。
放送部のアナウンス。
いつもの学校が、今日は少しだけ違って見える。
「暑い……」
綾乃は首元を手で仰いだ。
「昨日よりマシじゃない?」
隣にいたクラスメイトが笑う。
「それでも暑いよ」
「体育祭だから仕方ないって」
「分かってるけど」
綾乃は笑いながら、自分の足元を見る。
昨日、広沢にぶつかられて転んだところ。
手のひらの擦り傷はもう痛くない。
膝も普通に動く。
保健室の先生にも、
『今日は無理をしなければ大丈夫』
と言われている。
だから。
綾乃はいつも通りに動くことにした。
そのとき。
「牧」
後ろから声がした。
振り返る。
「優太」
優太が立っていた。
「足、大丈夫?」
「うん。もう平気」
「手は?」
「それも大丈夫」
「本当に?」
「本当だって」
綾乃が笑う。
「昨日からそればっかり」
「だって心配だから」
「……」
綾乃は少しだけ目を瞬かせた。
「何?」
「いや」
「何でもない」
「またそれ」
綾乃が笑う。
優太も笑った。
「でも、今日は無理するなよ」
「分かってる」
「転んだら、また保健室な」
「転ばないよ」
「広沢に気をつけて」
「それは気をつける」
二人で笑う。
昨日までと、何も変わらない会話。
綾乃はそう思っていた。
けれど。
優太のほうは。
昨日までとは少しだけ違う気持ちで、綾乃を見ていた。
*
開会式が始まる。
校長の話。
体育祭実行委員の挨拶。
選手宣誓。
そして、最初の競技へ。
グラウンドから歓声が上がる。
綾乃もクラスの応援席から声を出した。
「頑張って!」
「いけー!」
友達と一緒に笑いながら応援する。
思っていたより、体育祭は楽しかった。
昨日までは、面倒だと思っていたのに。
「綾乃!」
クラスメイトが呼ぶ。
「次、用具係だよ」
「あ、分かった」
綾乃は立ち上がった。
競技に出ない分、必要な道具を運ぶ。
運動そのものは嫌いではない。
走るのだけが、どうしようもなく苦手なのだ。
だから。
こういう仕事なら、むしろ気楽だった。
*
午前の競技が進んでいく。
綾乃が道具を片付けていると。
「牧」
優太が近づいてきた。
「何?」
「次、俺だから」
「うん」
「ちゃんと見てて」
「もちろん」
「応援してくれるって言っただろ」
「あ」
綾乃が笑う。
「覚えてたんだ」
「約束だから」
「そんな大げさな」
「俺には大事」
「……何それ」
綾乃が笑う。
優太も笑った。
「じゃ、行ってくる」
「頑張って」
「うん」
優太がグラウンドへ向かう。
綾乃はその背中を見送った。
昨日までなら。
ただ「頑張って」と言うだけだった。
でも今日は。
なぜか少しだけ、ちゃんと応援したいと思った。
*
優太が走る。
陸上部らしい、無駄のない走り。
周りから歓声が上がる。
「優太、速い!」
綾乃も思わず声を出した。
優太がゴールする。
クラスメイトたちが集まる。
綾乃も拍手をした。
少し離れた場所から。
優太がこちらを見る。
目が合った。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「……」
綾乃も笑い返す。
ただ、それだけ。
なのに。
優太はその瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。
昨日。
綾乃が怪我をしたとき。
あれだけ心配した自分。
そして今日。
自分の走りを見ていてほしいと思ったこと。
「……」
優太は、自分でも少し不思議だった。
*
昼休み。
綾乃は友達と一緒に弁当を食べていた。
「午前だけで疲れた」
「午後もあるよ」
「聞きたくない」
みんなで笑う。
そのとき。
「牧」
優太がやってきた。
「ん?」
「これ」
小さなスポーツドリンクを差し出す。
「え?」
「余ったから」
「本当に?」
「うん」
「ありがとう」
「昨日の怪我もあるし、水分取っといたほうがいいだろ」
「もう治ってるって」
「でも一応」
綾乃は少し笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
優太が戻っていく。
友達が、その背中を見ながら言った。
「松寺って、綾乃のことよく見てるよね」
「そう?」
「うん」
「よく話すからじゃない?」
「そうかなあ」
綾乃は首を傾げる。
「優太は昔からあんな感じだよ」
「ふーん」
友達はそれ以上言わなかった。
綾乃も深く考えなかった。
優太は友達。
話しやすくて。
一緒にいて楽しくて。
困ったときには助けてくれる。
それだけ。
今はまだ。
*
午後。
三年生の競技が始まった。
「次、三年生のリレーだって」
友達の声に、綾乃が顔を上げる。
「三年生?」
「うん」
「恵斗先輩、出るかな」
何気なく言った。
けれど。
自分でその名前を口にした瞬間。
胸が少しだけ騒いだ。
「……」
綾乃はグラウンドを見る。
すると。
「あ、いた」
恵斗がいた。
「先輩、出るんだ」
スタート位置につく。
歓声が大きくなる。
そして。
走り出した。
「速い……」
思わず呟く。
恵斗は前の走者を追い、バトンを受け取る。
そのまま一気に走る。
「先輩、頑張って!」
綾乃は思わず声を上げた。
恵斗がゴールする。
少しして。
恵斗がこちらを見た。
目が合う。
綾乃は小さく手を振った。
恵斗も、ほんの少しだけ笑った。
その瞬間。
綾乃の胸が、また少しだけ高鳴った。
「……何だろ」
自分でも分からない。
優太を応援したときとは。
何かが違う。
でも。
その違いを考える前に、次の競技が始まった。
*
しばらくして。
恵斗が綾乃たちの近くを通った。
「先輩、お疲れさまです」
「ありがと」
「速かったですね」
「そう?」
「はい」
「綾乃、応援してた?」
「してました」
「聞こえた」
「え?」
「ちゃんと聞こえた」
恵斗が笑う。
「ありがとな」
「……はい」
綾乃は少しだけ照れたように笑った。
その様子を。
少し離れたところから優太が見ていた。
「……」
優太は何も言わなかった。
ただ。
綾乃が恵斗と話しているときの表情が。
自分と話しているときとは、少し違うように見えた。
それが何なのか。
優太にはまだ分からない。
けれど。
昨日からずっと。
綾乃のことが気になっている。
だから。
少しだけ。
気になった。
*
その後。
「牧!」
クラスメイトが呼ぶ。
「先生が呼んでるよ」
「あ、分かった」
綾乃がその場を離れる。
残された恵斗と優太。
ほんの短い沈黙。
「……松寺」
「はい」
「昨日、ありがとな」
「え?」
「綾乃のこと」
「ああ」
優太は少しだけ笑った。
「別に」
「そう?」
「同じクラスなんで」
「そっか」
恵斗も笑う。
それ以上、何も言わない。
けれど。
優太はふと思った。
恵斗は。
綾乃のことを、やっぱり少し特別に見ているのだろうか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
*
体育祭も終盤に入った。
最後の競技が終わり。
閉会式。
結果発表。
歓声と拍手。
そして。
体育祭が終わった。
「疲れた……」
綾乃はテントを片付けながら呟いた。
「でも楽しかったね」
友達が言う。
「うん」
綾乃も笑う。
そのとき。
「牧」
優太がやってきた。
「足どう?」
「大丈夫」
「痛くない?」
「全然」
「ならよかった」
「優太、今日ずっとそれ言ってる」
「仕方ないだろ」
「何が?」
「……別に」
「またそれ」
綾乃が笑う。
優太も笑った。
「じゃあ、また明日」
「うん。またね」
優太が離れていく。
綾乃はその背中を見送った。
昨日から。
優太の態度が少しだけ違う気がする。
でも。
その理由は分からなかった。
*
帰り支度をしていると。
「綾乃」
恵斗だった。
「先輩?」
「今日、足大丈夫だったな」
「はい」
「よかった」
恵斗は安心したように笑う。
「昨日、怪我したからちょっと気になってた」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「分かってる」
少しだけ間が空く。
「でも」
「はい?」
「綾乃が痛そうにしてるの、嫌だから」
綾乃の動きが止まった。
「……え?」
「いや」
恵斗自身も、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
「とにかく、ちゃんと治せよ」
「……はい」
恵斗はそのまま歩いていった。
綾乃はしばらく動けなかった。
――綾乃が痛そうにしてるの、嫌だから。
その言葉が、頭から離れない。
「……」
胸の奥が、また少し熱くなる。
先輩は優しい。
後輩が怪我をしたから心配した。
きっと、それだけ。
そう思う。
けれど。
どうしてだろう。
その言葉だけは。
なかなか忘れられなかった。
*
帰り道。
綾乃は一人で駅へ向かっていた。
スマホが震える。
『優太:足、大丈夫?』
綾乃は少し笑った。
『綾乃:大丈夫だよ』
すぐに返信が来る。
『優太:ならよかった』
『綾乃:今日ずっと心配してたよね』
『優太:まあ』
『綾乃:ありがとう』
『優太:別に』
『綾乃:また「別に」』
『優太:うるさい』
綾乃は笑った。
少しして。
『優太:明日、痛かったら体育休めよ』
『綾乃:分かった』
『優太:絶対な』
『綾乃:はいはい』
そこで会話が終わる。
綾乃はスマホをしまった。
そして。
今日のことを思い出す。
優太も。
恵斗も。
自分のことを心配してくれた。
優太は、昨日からずっと。
恵斗は、今日も。
どちらも優しかった。
でも。
なぜか。
恵斗に言われた、
――綾乃が痛そうにしてるの、嫌だから。
という言葉だけが。
胸の奥に残っている。
「……何でだろ」
綾乃は小さく呟いた。
まだ。
その理由を考えるつもりはなかった。
考えてしまえば。
何かに気づいてしまいそうだったから。
*
一方。
優太も帰宅してから、今日のことを思い返していた。
綾乃が笑っていた。
自分を応援してくれた。
恵斗と話していた。
そして。
自分は、そのことが気になった。
「……」
優太は机に向かう。
けれど。
なかなか集中できない。
昨日。
綾乃が転んだとき。
自分でも驚くほど心配した。
今日。
綾乃が自分を応援してくれたことが、嬉しかった。
そして。
恵斗と話している綾乃を見て。
少しだけ、面白くなかった。
「……何なんだろ」
優太は小さく呟く。
まだ。
自分の気持ちに名前をつけることはできない。
ただ。
昨日までより。
綾乃が少しだけ特別に見えるようになっていた。
*
その夜。
綾乃はベッドに横になりながら、今日一日のことを思い返していた。
体育祭。
優太の走り。
恵斗の走り。
どちらも応援した。
どちらも楽しかった。
でも。
胸に残っているものは、少しずつ違う。
優太とは。
自然に笑える。
何でも話せる。
一緒にいると安心する。
恵斗とは。
名前を呼ばれるだけで、少し緊張する。
目が合うと、なぜか嬉しくなる。
そして。
言葉一つで、こんなにも心が揺れる。
「……」
綾乃は目を閉じた。
まだ。
この違いに名前をつけることはできない。
けれど。
少しずつ。
綾乃の中でも。
二人への気持ちは、同じではないことが見え始めていた。
それでも。
綾乃はまだ、そのことを認めるつもりはなかった。
体育祭が終わった。
けれど。
三人の距離は。
ここから、少しずつ変わっていく。




