第十三話 ふたりの距離
九月も半ばを過ぎた。
体育祭まで、あと少し。
校内では、競技の練習や応援の準備が始まっていた。
昼休みになると、廊下には体育祭実行委員の声が響いている。
綾乃も今日は、クラスの準備を手伝っていた。
「牧、この段ボール体育倉庫までお願い」
「分かった」
先生に頼まれた道具を抱える。
それほど重くはない。
綾乃はこういう作業なら苦にならなかった。
運動も、走ること以外ならそれなりにできる。
ただ。
走ることだけは、本当に苦手だった。
だから体育祭では、競技よりもこうした準備のほうが気楽だった。
「よいしょ……」
廊下を歩いていると。
「……あ」
向こうから広沢が走ってくるのが見えた。
「広沢、廊下走るなよ」
綾乃が声をかける。
「うるせえな」
「先生に怒られるよ」
「別にいいだろ」
「よくないでしょ」
そのまま広沢が近づいてくる。
「ちょっと、避けて――」
言い終わる前だった。
「うわっ」
肩がぶつかった。
「――っ!」
綾乃の身体が大きくよろける。
抱えていた段ボールが落ちた。
綾乃もそのまま床に手をついた。
「痛っ……」
手のひらと膝が、じんと痛む。
「……何してんの?」
広沢が振り返った。
「こっちが悪いみたいに言うなよ」
「え?」
「急に前に出てきただろ」
「は?」
綾乃の表情が変わった。
「走ってきたの広沢でしょ」
「だから?」
「だからって……」
「そんな大げさに転ぶほうが悪いだろ」
「……」
綾乃はゆっくり立ち上がった。
「広沢」
「何だよ」
「今の言い方、ほんとに最低」
「は?」
「ぶつかったなら、普通は先に謝るでしょ」
「別に怪我してないじゃん」
「してるよ」
綾乃が手のひらを見る。
少し赤くなっている。
「ほら」
「それくらいで騒ぐなよ」
「……」
綾乃の目が鋭くなる。
「広沢って、本当にそういうところ嫌い」
「は?」
「もういい」
綾乃は落ちた段ボールを拾おうとした。
そのとき。
「牧!」
後ろから声がした。
振り返る。
優太だった。
「何してんの?」
「……広沢とぶつかって」
「怪我した?」
「ちょっと」
優太が綾乃の手を見る。
「血、出てるじゃん」
「ほんと?」
「膝も」
綾乃が見る。
膝にも擦り傷ができていた。
「……大したことないよ」
「大したことあるだろ」
優太が広沢を見る。
「お前、ぶつかったなら謝れよ」
「松寺には関係ないだろ」
「関係あるとかじゃなくて」
優太の声が少し低くなる。
「怪我させたなら謝るの普通だろ」
「牧が勝手に転んだんだって」
「……広沢」
優太が一歩近づく。
「もういいから」
「何だよ」
「これ以上言ったら、余計ややこしくなる」
広沢は舌打ちした。
「知らねえよ」
そう言って、その場を離れていった。
「……何あいつ」
優太が呟く。
「いつもあんな感じだよ」
「でも」
優太は綾乃を見る。
「牧、大丈夫?」
「うん」
「ほんとに?」
「ほんと」
「じゃあ、保健室行こう」
「え?」
「そのままにするなよ」
「でも、段ボール……」
「俺が持つ」
優太が落ちた段ボールを拾い上げる。
「ほら」
「……ありがとう」
「いいから」
綾乃は少し驚いた。
いつもの優太とは、少し違って見えた。
*
保健室へ向かう廊下。
優太は、いつもより静かだった。
「……優太」
「ん?」
「怒ってる?」
「広沢に?」
「うん」
「ちょっと」
「珍しいね」
「そう?」
「いつももっと適当なのに」
「失礼だな」
優太が笑う。
けれど、すぐに真顔に戻った。
「でも」
「うん?」
「牧が怪我したのは嫌だった」
「……」
綾乃は少しだけ黙った。
「心配してくれてありがとう」
「別に」
「また『別に』」
「……」
「最近、それ多いよ」
「うるさい」
優太が笑った。
綾乃も笑う。
けれど。
その言葉だけは、なぜか胸に残った。
――牧が怪我したのは嫌だった。
ただの友達なら。
それくらい言うものなのだろうか。
綾乃には、まだ分からなかった。
*
保健室で手当てをしてもらう。
「擦り傷だから大丈夫ですよ」
先生にそう言われ、綾乃はほっとした。
「よかった」
優太も安心したように息を吐く。
「だから大丈夫って言ったのに」
「結果的に大丈夫だっただけ」
「優太、心配性」
「牧が無頓着なんだよ」
「そうかな」
「そう」
綾乃が笑う。
「じゃあ、もう戻ろう」
「うん」
*
教室へ戻る途中。
廊下の角を曲がったところで。
「あ」
恵斗がいた。
「綾乃?」
「先輩」
恵斗が綾乃の手を見る。
「どうした?」
「ちょっと転んで」
「怪我したの?」
「擦り傷だけです」
「保健室は?」
「今行ってきました」
「そっか」
恵斗は少し安心したように息を吐いた。
「よかった」
その隣で、優太が言う。
「広沢とぶつかって転んだんです」
「広沢?」
恵斗の表情が少し変わる。
「また何かやったのか」
「まあ……」
「綾乃、大丈夫?」
「大丈夫です」
「無理するなよ」
「はい」
恵斗の視線が、優太へ向く。
「松寺、ありがとな」
「いえ」
「助かった」
「……はい」
短い会話だった。
けれど。
優太は少しだけ恵斗を見る。
そして、綾乃を見る。
恵斗が綾乃を名前で呼ぶ。
それは前から知っていた。
でも。
今日、そのことがなぜか少しだけ気になった。
*
放課後。
美術室。
綾乃が入ると、すずがすぐに気づいた。
「綾乃!」
「すず」
「怪我したって聞いた」
「うん。ちょっと転んだだけ」
「見せて」
「大丈夫だよ」
「いいから」
すずが綾乃の手を見る。
「うわ……」
「そんなに?」
「思ったより擦ってる」
「でも大したことないって」
「広沢?」
「うん」
すずの顔が少し険しくなる。
「またあいつ?」
「うん」
「何て言われた?」
「……」
綾乃は少し黙る。
「別に」
「その顔、絶対何か言われたでしょ」
「……『私が悪い』みたいなこと言われた」
「最低」
「だよね」
すずがため息をつく。
「綾乃、広沢相手だと本当に怒るよね」
「だって、あいつは……」
綾乃が少しむっとする。
「……嫌い」
「知ってる」
すずが笑った。
「まあ、今日は松寺がいてよかったね」
「うん」
「保健室まで連れてってくれたんでしょ?」
「そう」
「優しいじゃん」
「いつもはもっと適当なのにね」
「そういうところあるよね」
二人で笑う。
そのとき。
美術室の扉が開いた。
「お疲れ」
「先輩」
恵斗だった。
「怪我、大丈夫?」
「大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
「ならよかった」
恵斗は綾乃の手を見る。
「無理して作業するなよ」
「分かってます」
「それならいい」
恵斗が少し笑った。
その様子を、すずは黙って見ていた。
*
恵斗が帰ったあと。
「……」
すずが口を開く。
「今日、先輩も結構心配してたね」
「そうかな?」
「うん」
「優太も心配してくれたし」
「……そうだね」
すずは少し考える。
綾乃は、まだ気づいていない。
優太が今日、綾乃を見ていた目。
恵斗が綾乃を見ていた目。
少しずつ違ってきている。
*
その夜。
グループトークが動いた。
『すず:綾乃、怪我大丈夫?』
『綾乃:大丈夫』
『琉生:広沢?』
『綾乃:うん』
『琉生:またか』
『すず:ほんと困るよね』
『杏奈:綾乃ちゃん大丈夫?』
『綾乃:大丈夫ですよ』
『恵斗:無理するなよ』
『綾乃:ありがとうございます』
『琉生:海藤先輩、心配性』
『恵斗:うるさい』
『すず:今日二回目』
『綾乃:本当だ』
綾乃は笑った。
いつものグループトーク。
少しだけ、今日のことが話題になった。
けれど。
優太は、このグループにはいない。
当然、琉生も優太とは面識がない。
それぞれ別の場所で、今日のことを知っている。
*
その頃。
優太は自分の部屋でスマホを見ていた。
今日のことを思い出す。
綾乃が転んだ瞬間。
赤くなった手。
膝の傷。
そして。
自分でも驚くくらい、心配になった。
「……」
優太はベッドに寝転ぶ。
ただのクラスメイト。
そう思っていた。
話しやすい。
一緒にいると楽しい。
くだらないことで笑える。
それだけだと思っていた。
でも。
今日、綾乃が怪我をしたとき。
胸の奥が、妙にざわついた。
広沢に腹が立った。
綾乃が「大丈夫」と言っても、全然大丈夫に見えなかった。
保健室まで付き添ってしまった。
「……何でこんなに気になるんだろ」
答えは出ない。
けれど。
今日から少しだけ。
綾乃を見る目が変わってしまった気がした。
*
一方。
綾乃も自分の部屋でスマホを見ていた。
今日のことを思い出す。
広沢にぶつかられたこと。
優太が真っ先に助けてくれたこと。
恵斗も心配してくれたこと。
二人とも、優しかった。
「……」
綾乃は少し考える。
優太は、いつもより真剣だった。
恵斗も、いつもより心配そうだった。
でも。
それは二人とも、友達や先輩として心配してくれただけ。
そう思った。
綾乃はまだ知らない。
今日の出来事が。
優太の中に、小さな変化を残したことを。
そして。
その変化が。
これから少しずつ、綾乃との距離を変えていくことを。




