第十一話 聞きたいことと、聞かれたくないこと
数日後。
昼休み。
綾乃は教室で弁当を食べていた。
「牧」
前の席から声がする。
顔を上げると、優太が立っていた。
「今日もここ借りていい?」
「どうぞ」
「ありがと」
優太が綾乃の前の席に座る。
「そういえば」
「ん?」
「そろそろ体育祭のリレー選手決めだな」
「ああ……」
綾乃は少し嫌そうな顔をした。
「まだ先じゃない?」
「そうだけど、今年は十月の初めだろ?」
「ああ、そうだった」
今年の体育祭は十月の初旬。
まだ九月に入ったばかりで体育祭までは少し先のはずなのに、選手決めだけはもう始めるらしい。
「牧、出ないの?」
「絶対出たくない」
「何で?」
「足遅いから」
「でも、牧って運動できるじゃん」
「それとこれとは別」
「そう?」
「別だよ」
綾乃は箸を置く。
「体育の種目とかは普通にできるけど、走るのだけは本当に駄目なの」
「そんなに?」
「うん。絶望的に遅い」
「絶望的って」
優太が笑う。
「笑わないでよ」
「いや、だって」
「本当に嫌なんだから」
「じゃあ、俺が出るよ」
「え?」
「リレー」
「いいの?」
「別に」
「でも、人数足りるの?」
「たぶん大丈夫」
優太は何でもないことのように言った。
「牧が嫌なら、無理に出る必要ないだろ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあ、応援する」
「それは頼む」
優太が笑った。
綾乃も笑う。
こうしていると、本当に気楽だった。
何も考えずに話せる。
それが最近の優太との時間だった。
*
放課後。
体育祭の選手決めが行われた。
教室では、リレーのメンバーを決めるために何人かの名前が挙がっていた。
「松寺、出るんだよな?」
「うん」
優太が手を挙げる。
「じゃあ、あと何人か……」
名前が決まっていく。
綾乃は自分の名前が出ないことに、少しだけ安心した。
「牧は?」
「私は応援係で」
「逃げた」
「逃げてない」
優太が笑う。
「でも、よかったじゃん」
「うん」
「本当に走るの嫌なんだな」
「嫌」
「分かった」
優太はそれ以上からかわなかった。
そのことが、綾乃には少し嬉しかった。
*
翌日。
放課後の校庭では、体育祭の練習が始まっていた。
綾乃はクラスメイトと一緒に応援の準備をしていた。
少し離れたところでは、リレーの選手たちが走っている。
「牧」
優太がこちらへ走ってくる。
「何?」
「ちょっと頼み」
「何?」
「バトン持ってきて」
「え?」
「俺、忘れた」
「もう」
綾乃は笑いながら、置いてあったバトンを拾う。
「はい」
「ありがと」
優太が受け取る。
「じゃあ、行ってくる」
「頑張って」
「うん」
優太が走っていく。
綾乃はその背中を見送った。
陸上部だからなのか。
走っているときの優太は、普段より少しだけ真剣に見えた。
*
練習が終わる。
綾乃が片付けをしていると、優太が戻ってきた。
「疲れた」
「お疲れさま」
「牧、まだいたんだ」
「片付け」
「そっか」
優太は汗を拭きながら、校庭を見る。
「本番、ちゃんと応援してくれよ」
「もちろん」
「絶対な」
「分かったって」
「じゃあ約束」
優太が笑う。
「うん」
綾乃も笑った。
そのとき。
「牧さん」
後ろから声がした。
振り返ると、環が立っていた。
「森本先輩」
「先生が、体育祭のポスターのことで確認したいって」
「あ、はい」
綾乃が返事をする。
優太が環を見る。
「じゃあ、俺先戻るわ」
「うん」
「また明日」
「またね」
優太が歩いていく。
綾乃はその背中を少しだけ見送った。
「松寺くん、体育祭楽しそうですね」
「そうね」
環が頷く。
「運動得意そうだし、こういうのは好きなんじゃない?」
「確かに」
「牧さんは?」
「私は応援専門です」
「ふふ」
環が少し笑った。
「それも大事だよ」
「ですよね」
二人は笑いながら、校舎へ戻っていった。
*
その日の夕方。
美術室では、綾乃とすずが体育祭の話をしていた。
「松寺、リレー出るんだって?」
「うん」
「やっぱり」
「陸上部だしね」
「綾乃は?」
「私は応援」
「逃げた?」
「だから逃げてないって」
すずが笑う。
「でも、綾乃って運動できるのに走るのだけ遅いよな」
「そうなの」
「不思議」
「私も不思議」
「じゃあ、体育祭は楽だな」
「応援頑張る」
「それならいい」
二人で笑う。
少し離れたところで、恵斗がその会話を聞いていた。
「綾乃って走るの遅いの?」
「そうなんです」
「意外」
「先輩まで」
綾乃が少しむっとする。
「でも、体育は普通にできるんですよ」
すずが言う。
「そうなんだ」
「はい」
「じゃあ、走るだけ苦手なのか」
「そうです」
恵斗が少し笑う。
「何か想像つかないな」
「何でですか?」
「普通に運動できそうだから」
「できるんです」
「じゃあ、リレー出ればいいのに」
「絶対嫌です」
「そんなに?」
「そんなにです」
恵斗が笑う。
「分かった」
綾乃も笑った。
少しして、恵斗は時計を見る。
「じゃあ、俺戻る」
「はい」
「勉強頑張ってください」
「うん」
恵斗が美術室を出ていく。
綾乃はその背中を見送った。
少しだけ。
いつもと違う気がした。
でも、その理由は分からなかった。
*
夜。
いつものグループトークが始まった。
『すず:今日暑かった』
『琉生:暑い』
『綾乃:体育祭の練習始まったからね』
『琉生:もうそんな時期か』
『すず:松寺、リレー出るらしい』
『綾乃:本番頑張ってほしい』
『すず:綾乃、応援するんでしょ』
『綾乃:もちろん』
『すず:なんか約束してたよね』
『綾乃:応援するって言っただけ』
『すず:それを約束って言うんじゃない?』
『綾乃:そうかな』
『琉生:まあ、頑張ってもらえ』
綾乃は少し笑った。
そのとき。
『杏奈:綾乃ちゃん』
『綾乃:ん?』
『杏奈:ちょっと聞いていい?』
綾乃の指が止まった。
『綾乃:どうぞ』
『杏奈:恵斗先輩って、最近私のことどう思ってるかな』
綾乃は画面を見つめた。
どう答えればいいのか分からない。
恵斗本人も、このグループにいる。
『綾乃:私には分からないよ』
『杏奈:でも、恵斗先輩とよく話してるでしょ?』
『綾乃:話すけど……』
『杏奈:何か言ってなかった?』
綾乃は迷った。
恵斗から相談されることはある。
けれど、それを杏奈に話すわけにはいかない。
『綾乃:ごめん。そういうことは言えない』
少し間が空く。
『杏奈:そっか』
そこで終わるかと思った。
けれど。
『杏奈:じゃあ、恵斗先輩に聞いてもいい?』
綾乃は思わず画面を見た。
すぐに恵斗から返事が来る。
『恵斗:何を?』
『杏奈:私のこと』
『恵斗:何で?』
『杏奈:気になるから』
『恵斗:……』
『杏奈:まだ怒ってる?』
しばらく返信がない。
『恵斗:怒ってるっていうか』
『杏奈:うん』
『恵斗:もう終わったことだろ』
『杏奈:でも私はまだ好きだから』
綾乃は息を止めた。
『恵斗:……水上』
『杏奈:うん』
『恵斗:その話、ここでする?』
『杏奈:だって聞きたいんだもん』
『恵斗:俺は話したくない』
『杏奈:なんで?』
『恵斗:もう終わったから』
『杏奈:やり直すのは無理?』
恵斗から返信が来ない。
少しして。
『恵斗:無理』
短い言葉だった。
『杏奈:どうして?』
『恵斗:もう好きじゃないから』
綾乃は画面から目を逸らした。
杏奈の返事が止まる。
そして。
『杏奈:じゃあ、好きな人いるの?』
綾乃の心臓が跳ねた。
知っている。
その答えを。
でも。
言えない。
『恵斗:関係ないだろ』
『杏奈:私には関係あるよ』
『恵斗:ない』
『杏奈:じゃあ誰?』
『恵斗:言わない』
『杏奈:綾乃ちゃんは知ってるんじゃない?』
綾乃の手が止まった。
『綾乃:……』
『杏奈:やっぱり知ってるんだ』
どうしよう。
そう思った瞬間。
『恵斗:綾乃に聞くな』
『杏奈:でも』
『恵斗:俺が言いたくないって言ってるだろ』
『杏奈:ごめん。でも気になる』
『恵斗:だからって綾乃を巻き込むなよ』
恵斗の言葉が、少しずつ強くなる。
『杏奈:綾乃ちゃんだけ知ってるの、ずるい』
『恵斗:ずるくない』
『杏奈:じゃあ教えてよ』
『恵斗:嫌だ』
『杏奈:先輩の好きな人って、同じ学校?』
『恵斗:水上』
『杏奈:先輩?』
『恵斗:もうやめろ』
『杏奈:綾乃ちゃんにしか相談してないの?』
『恵斗:……もういい加減にしろよ』
グループトークが止まった。
恵斗がここまで怒るのは、珍しかった。
『杏奈:ごめん』
しばらくして、杏奈から一言だけ届く。
それ以降、誰も何も言わなかった。
*
数分後。
綾乃のスマホが震えた。
恵斗からの個人メッセージだった。
『ごめん』
『何がですか?』
『グループであんな言い方して』
『大丈夫ですよ』
『水上にも言いすぎた』
『……ちょっと怒ってましたね』
『怒った』
『珍しいです』
『しつこかったから』
綾乃は少し考えてから返信する。
『でも、先輩が怒るのも分かります』
『そう?』
『はい』
『……ありがとう』
少し間が空いた。
『綾乃』
『はい?』
『森本のこと、言わないでくれて助かった』
綾乃は画面を見つめた。
『当たり前ですよ』
『でも、水上たぶん気づいてる』
『何がですか?』
『俺に好きな人がいるってこと』
『それくらいは分かると思います』
『……だよな』
『でも、誰かまでは分からないですよ』
『そうだといいけど』
綾乃は少しだけ笑った。
『私、絶対言いませんから』
しばらくして。
『恵斗:ありがとう』
それだけだった。
綾乃はスマホを伏せる。
「……疲れた」
小さく呟いた。
恋愛相談というのは。
人の話を聞いているだけなら楽しい。
でも。
その本人たちが同じ場所にいると。
聞きたいことも。
聞かれたくないことも。
どちらも簡単には答えられない。
*
一方。
恵斗も自分の部屋でスマホを置いた。
今日のグループトークを思い出す。
杏奈の質問。
自分の苛立ち。
そして。
綾乃が最後まで、環の名前を出さなかったこと。
「……綾乃、ちゃんとしてるな」
小さく呟く。
自分が困るようなことを言わない。
約束も守る。
だからなのか。
綾乃に対しては、妙に安心できる。
恵斗はその理由を考えようとして。
やめた。
今は受験勉強をしなければならない。
参考書を開く。
けれど。
なかなか集中できない。
頭に浮かぶのは。
『私、絶対言いませんから』
綾乃の言葉だった。
「……」
恵斗は小さく息を吐いた。
まだ。
自分でも、この気持ちの名前は分からない。
ただ。
少しずつ。
綾乃のことが気になるようになっていた。
*
翌朝。
綾乃が教室に入ると、すずがすぐに声をかけてきた。
「昨日のグループ、すごかったな」
「……うん」
「杏奈先輩、かなり聞いてたな」
「そうだね」
「恵斗先輩、珍しく怒ってたし」
「うん」
綾乃は鞄を机に置いた。
「でも、仕方ないと思う」
「私もそう思う」
すずは少し考える。
「綾乃、昨日困ってた?」
「まあ……」
「あれから何か聞かれた?」
「うん」
「答えた?」
綾乃は少しだけ笑った。
「答えられないことだったから」
「そっか」
すずはそれ以上聞かなかった。
綾乃も、それ以上は言わなかった。
言えない。
言ってはいけない。
それが、恵斗との間にある小さな秘密だった。
そして。
体育祭の日も、少しずつ近づいている。
優太との距離も。
恵斗との距離も。
気づかないうちに、少しずつ変わり始めていた。
今日も、たぶん。
平和じゃない。




