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探偵は死体を推理しない、爆弾の場所を当てる  作者: 早野 茂


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第34話「再び隠される前に」

深夜の旧施設裏。錆びたフェンスと頑丈な鎖で封鎖された鉄扉の前。

潮の腐った匂いを含んだ冷たい夜風が、無機質なコンクリートの壁に沿って吹き抜けていく。遠くで東京湾の黒い波が防波堤を叩く音が、重く低い地鳴りのように響いていた。

久我真尋との通話が途切れたスマートフォンを、相馬環は無言でダッシュボードに置いた。

横に立つ黒瀬透の横顔は、街灯のない暗闇の中で彫像のように凍りついていた。

彼の内側で、真尋に対する言葉にならない違和感が無視できない重みを持って沈み込んでいるはずだ。


その張り詰めた重い沈黙を唐突に破ったのは、覆面パトカーのボンネットに置かれたタブレットから響く、篠宮蒼司のひどく切迫した声だった。


『相馬さん、黒瀬さん……異常事態です!』

ダッシュボードに置かれたタブレットのスピーカーから、篠宮の激しいタイピング音が聞こえてくる。

先ほどまでの正確で規則正しいリズムは失われ、何かにひどく急き立てられるように乱れ、叩きつけるような音に変わっていた。

『警察のメインサーバーで、五年前のイベントに関する関連データのアクセス権限が、たった今、段階的に変更され始めました』

息を呑むような短い沈黙の直後、篠宮の報告が矢継ぎ早に飛び出してくる。

『特捜本部の端末に対して、緊急保全名目の閲覧制限がかかり始めています』

『共有範囲が制限され、関連ファイルに次々とロックがかけられています』

「なんだと?」

相馬が眉を鋭くひそめ、青白い光を放つ画面を覗き込む。

『先ほど復元した監視カメラの映像データも、本部のディレクトリから見えなくなりました。ログを追うと荒巻管理官の承認系統に近い権限が動いています。……資料を保全名目で閉じ、現場の捜査員が自由に触れない状態へ移そうとしているように見えます。これ以上の掘り起こしを、上層部がシステム上で制限しに来ました』


相馬の奥歯が、ギリッと強く噛み合わさる。

五年前の空白に近づく手がかりが出始めたまさにその瞬間に、巨大な組織が動いたのだ。

五年前、澪が向かった可能性のあるルートの存在を「不幸な迷子」として圧縮し、綺麗な言葉で処理したのと同じ秩序の論理。

それが今、再び見落とされた記録を厚いコンクリートの底へと沈めようとしている。

荒巻誠一は、社会の安心と秩序を守るという名目で、再び問いを処理可能な形へ押し戻そうとしている。


「篠宮」

相馬の声は、低く、しかし確かな怒りと焦燥を孕んでいた。

「今すぐお前の手元にあるデータを保全できる範囲で退避させろ。組織のメイン回線から切り離して、こちらの端末に送るんだ」

『……っ、しかし、それをやれば……』

篠宮の声が、通信の向こうで一瞬だけ詰まった。

それは明確な規定違反であり、組織の指示に反する独断を意味する。

捜査本部の片隅で端末に向かっている篠宮が一人で背負うには、重すぎる決断だ。

相馬の指示に従えば、篠宮もまた重い処分を受ける可能性がある。


相馬が「責任はこちらで持つ」と次の言葉をかけようとしたときだった。

それまで沈黙していた黒瀬がタブレットに向かって静かに口を開いた。

「篠宮。君は降りろ」

感情の起伏を削ぎ落とした平坦な声だった。

「ここから先は、盤面上の論理の遊戯ではない。組織の処理構造と、直接衝突することになる。……ここから先は、君の仕事ではない」

それは黒瀬透にしてはあまりにも不器用で、直接的な制止だった。

彼は他人を遠ざけるために、いつも冷たい皮肉や拒絶の言葉を使ってきた男だ。


黒瀬は薄い唇をきつく結び、目の前にそびえる旧施設裏の錆びた鉄扉を真っ直ぐに見据えた。

旧施設の鉄扉の向こうから湿った空気がゆっくりと漏れ出していた。

分厚い雲が月を隠し目の前にはどこまでも深い暗闇が広がっている。

五年前の夜。

彼は手元にあった図面のズレと、不自然なルート変更の報告に確かな違和感を覚えた。

だが鷹城梓や荒巻誠一が用意した巨大な正常さの前に、その違和感の先を見ようとしなかった。

その沈黙の代償が、今もなお彼の足元に重く残っている。

黒瀬の黒いコートのポケットの中で、拳が白くなるほど強く握り込まれる。

ここで組織の圧力に屈して立ち止まれば、自分は五年前と何も変わらない。

黒瀬は何も言わなかった。

ただこの暗闇の先へ自らの足で進むように、静かにその立ち姿を強張らせていた。


騒然とする捜査本部のモニターの前で、篠宮は息を呑んだ。

捜査本部の喧騒の中で彼の周囲だけが奇妙に静まり返っていた。

画面越しに見える黒瀬の瞳は、暗闇の中でかつてなく澄み切っていた。

かつての篠宮は、黒瀬を絶対的な存在として神格化していた。

だが、その虚像はすでに崩れている。

今、目の前にいるのは、決して完璧な人間ではない。

それでも今は、自らの足で、かつて見ようとしなかった問いの底へ戻ろうとしている。

その不器用で痛切な姿が、篠宮の胸の奥を激しく揺さぶった。

組織の中で安全な場所にいながら、現場で傷を負う者たちを見捨てることは、彼にはできなかった。

篠宮の脳裏に、澪のノートのページが鮮明に浮かび上がる。

そこにあったのは単なる憧れではなく、出題者の意図を最後まで理解しようとする、静かで深い執着だった。

だからこそ篠宮は、黒瀬をただの天才として見ることをやめた。

問いを作った人間と、問いを信じた人間。

その間で何が壊されたのかを、彼もまた決して見落とせなくなっていた。


(僕は……問いを見落とす側にはならない)

篠宮の指先が、キーボードの上で一瞬だけ止まり、そしてかつてない速度と力強さで動き始めた。

彼は監査ログに残ることを承知で、緊急保全用の管理手順を実行した。

閲覧制限がかかる寸前の関連ログを相馬の端末へ退避させるためだった。

画面上には無数のエラーメッセージが赤い警告色で立ち上がる。

タブレットの画面に走る赤い警告表示が、篠宮の眼鏡に細かく反射していた。

彼はそれを無視してエンターキーを叩き続け、次々と閉ざされていく階層の隙間を縫うように、データを切り出していく。

保全用コピーの作成、関連ログの退避、そして暗号化された送信経路の確保。

一秒でも遅れれば、データは暗号化の波に飲まれ、現場からは手が届かなくなる。


「……篠宮?」

ダッシュボードのタブレットの向こうから、凄まじい勢いでデータの転送プログレスバーが立ち上がる。

『……僕は、あなたたちのバックアップです』

篠宮の声は、もう震えていなかった。

『手元で確保できた復元映像と関連ログを、暗号化して相馬さんの端末へ退避させました。……証拠になり得るデータは、僕が確保します。再び閉じられる前に』


ピィ、という短い電子音が鳴り、転送完了のサインが青白く点灯する。

それと同時に、篠宮の端末にロック画面が表示された。

『僕の端末のアクセス権限も、制限されました。……ここからは、お二人だけで行ってください』

通信が切断される直前、篠宮は最後の一瞬まで、二人の端末へデータを送り続けていた。


「……馬鹿な真似を」

黒瀬が短く呟く。

だがその掠れた声には、いつもの冷たい拒絶ではなく、かすかな熱が確かに混じっていた。

「篠宮、感謝する。このデータは無駄にしない」

相馬はタブレットをコートのポケットにしまい込み、目の前の錆びた鉄扉に向き直った。


もはや背後の組織を頼ることはできない。

あるのは篠宮が繋ぎ止めてくれたデータと、目の前に広がる絶対的な暗闇だけだ。

「行くぞ、黒瀬」

相馬の硬質な声に、黒瀬は微かに顎を引いた。

冷たい潮風の吹く搬入通路の入り口――五年前、澪が向かった可能性のあるルートの先へ向けて、黒瀬は迷いなく足を踏み出す。

相馬がトランクから取り出したボルトカッターで分厚い鎖を切断する。

切断された鎖が、濡れたアスファルトの上に重く落ちた。

二人は、再び閉じられようとしていた五年前の夜の最深部へと、ついに直接その身を投じた。

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