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探偵は死体を推理しない、爆弾の場所を当てる  作者: 早野 茂


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第33話「消された映像」

深夜の旧施設裏。錆びたフェンスと頑丈な鎖で封鎖された鉄扉の前に、相馬環と黒瀬透は立っていた。

鉄扉の足元には、雨水が乾いた跡が黒く残り、錆びた鎖が風に揺れてかすかな金属音を立てていた。

周囲には街灯すらない。潮の腐った匂いを含んだ冷たい夜風が、二人のコートを容赦なく揺らしている。

分厚い雲が空を覆い、星の光さえ届かない。

かつて華やかなイベントの裏側として使われていたその場所は、今や都市の流れから取り残された廃区画だった。


五年前のあの日、久我澪が一人で向かった可能性のある暗闇の入り口。

警察組織が「不幸な迷子」という言葉で片づけ、長年見過ごしてきた空間が、冷たい沈黙のまま彼らの前に口を開けていた。


その絶対的な静寂を、覆面パトカーのボンネットに置かれたタブレットの着信音が切り裂いた。

『相馬さん、黒瀬さん。出ました』

暗号化された通信回線の向こうから、篠宮蒼司の低く掠れた声が響く。

疲労の極致にあるはずの声には、しかし、分厚い壁を打ち破った者だけが持つ確かな熱がこもっていた。


『久我さんから提供された断片と、こちらで掘り出した外部業者のキャッシュが一致しました。当時の監視カメラのデータです。公式な記録上では確認できませんでしたが、外部業者のバックアップサーバーの深層に、キャッシュの断片だけが残されていました。今、ノイズを除去してそちらに転送します』


相馬がタブレットの画面をタップする。

青白い光が、暗闇に立つ二人の顔を冷たく照らし出した。


画面の端にはノイズが走り、古い映像特有のざらつきが、五年前の時間そのものを削れたフィルムのように見せていた。

画面の右下には、五年前の事故当日の日付と時刻がタイムスタンプとして刻まれている。

映っているのは、まさに今彼らが立っている搬入通路のゲート付近。

イベントの華やかな喧騒からは完全に切り離された、裏側の空間だ。


「……澪さんだ」

相馬が短く息を呑む。

ノイズの走る画面の奥から、一人の若い女性が歩いてくる。

彼女の足取りは、ただ道に迷っている者のそれとは少し違って見えた。不安に周囲を見回すというより、手元の地図や周囲の状況を確かめながら、何かを探しているようだった。

彼女はゲートの手前でぴたりと立ち止まり、立入禁止を示すコーンの先――暗闇の奥を、真っ直ぐに覗き込んでいた。

『入ってはいけない場所に、人がいる』。

ノートに残された言葉は、この映像の中の彼女の動きと、不気味なほど重なって見えた。澪は正規ルートの外側にあった何かに気づき、その違和感を確かめようとしていたのかもしれない。


映像が動く。

暗がりの死角から、イベントの公式ジャンパーを着た人物が足早に澪に近づいてきた。

顔は帽子のつばとマスクで隠れており判別できない。

スタッフらしきその人物は澪に何かを語りかけ、正規の安全なルートではなく、さらに深い危険な廃地下区画へと続く通路を指し示した。

映像には音声がないため、何を話しているかは分からない。

だがその手振りと距離感は、彼女を特定の方向へ促しているようにも見えた。

澪は一瞬戸惑うような素振りを見せたが、最後にはスタッフの指示を信じ小さく頷いて、一人で暗闇の奥へと歩き出していった。

彼女の背中が完全に闇に呑み込まれた直後、映像は唐突にフリーズし、真っ暗な画面へと切り替わった。

暗転した画面には、相馬と黒瀬の顔だけがぼんやりと映り込んでいた。


「……これが、誘導された可能性を示す映像か」

相馬の低い声が震えていた。

一人の参加者が、誰かの誘導によって正解の外へ向かわされた可能性を示す映像だった。


捜査本部のモニター越しに、篠宮は現場の二人の様子を見つめていた。

彼の視線は、タブレットの画面に釘付けになっている黒瀬に注がれている。

黒瀬は微動だにしていなかった。

冷たい風に吹かれながら、真っ暗になった画面を瞬きすら忘れたかのように見据え続けている。

かつて篠宮が憧れていた黒瀬なら、論理の美しさだけを見て、その外側にある痛みを切り離していたのかもしれない。

だが今の黒瀬は違った。

自分が五年前、途中で手放した違和感。

その先を見ようとしなかった自分自身。

黒瀬は今、その先にあったものの断片から一歩も目を逸らそうとしていなかった。


(黒瀬さんは、今度は目を逸らしていない)

篠宮の中で、かつて神格化していた無謬の天才の虚像がまた少し崩れていく。

そこにいるのは、傷を負いながらも現実の問いから目を逸らせなくなった一人の不器用な人間だった。

その重さだけは、画面越しにも伝わってきた。


「篠宮、よくやった。このデータは絶対に手放すな」

相馬はそう告げると、スマートフォンを取り出し、短縮ダイヤルをタップした。

呼び出し音が一度鳴っただけで、通話が繋がる。


「久我さん。今、そちらの端末に確認用の映像を送った」

相馬は、旧施設の暗闇を見据えたまま、重い口調で語りかけた。

「五年前の映像だ。……妹さんが、スタッフらしき人物に促されて、偽ルートへ向かった可能性がある」


相馬は、電話の向こうから激しい嗚咽や怒号が響くことを覚悟していた。

最愛の妹の最期の姿。

それが不運な事故ではなく、誰かの誘導によって危険な場所へ向かわされた可能性を示す映像だと知れば、遺族の感情は決壊して当然だ。

だが通信の向こう側にあったのは、恐ろしいほどの静けさだった。


『……確認しました』

久我真尋の声は、ほとんど揺れなかった。

長い沈黙も、嗚咽もない。

ただ目の前に置かれた事実を一つずつ確認するような、乾いた響きだけがあった。

電話の向こうでは、紙を一枚めくるような乾いた音だけが小さく聞こえた。

『相馬さん。映像の十一秒から十三秒あたりを見てください。スタッフが立っている背後、ゲートの奥の暗がりに、大型の搬入用クレートのようなものが映り込んでいます。もし私の記録と照合できるなら、それは当時の公式な撤収スケジュール上、この時間帯にそこにあるべきではない荷物のはずです。……解像度を上げて、IDパスの形状を判別することは可能ですか』


相馬は言葉を失った。

電話を握る手が、かすかにこわばる。

いま送ったのは、妹が暗闇へ消えていく映像だ。

それを見て、真尋は悲鳴ではなく映像の隅にある荷物の位置を指摘している。


真尋は妹の姿に立ち止まるより先に、映像の隅にあるノイズを拾い上げていた。

ただ事実の断片だけを、機械のような正確さで確認している。

その態度は、悲しみに暮れる遺族のものとはどこか違っていた。

五年間誰にも届かない問いだけを見つめ続けた時間が、彼の感情の表面を凍らせてしまったのかもしれない。


「……久我さん、あんた……」

相馬が言葉を失っている横で、黒瀬の瞳が鋭く細められた。


コートのポケットの中で、黒瀬の指先がゆっくりと握り込まれる。

この感情の表面だけが凍りついたような反応。

目の前の痛みより先に、構造と痕跡を拾い上げる冷徹な思考回路。


その真尋の在り方は、かつての自分自身の冷たさとどこか重なって見えた。

そしてその奥に、見えない出題者の気配と似たものが、ほんのわずかに混じっているようにも思えた。

黒瀬の中で、久我真尋という人間に対するかすかな違和感が、消えない重さを帯び始めていた。


暗闇に包まれた旧施設の入り口で、冷たい潮風だけが、言葉にならない違和感を二人の間に残して吹き抜けていった。

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