第五話 視線からの逃走
休み時間も昼休みも、アカネはなるべく教室の隅で目立たないように過ごした。
誰かと楽しそうに話す気分にもなれなかった。
午後の授業が終わる頃には、もうヘトヘトだった。
何かをしたわけじゃない。
ただ席に座って、黒板を見て、ノートを取る振りをしていただけだ。
それなのに、ずっと落ち着かなかった。
机の横の鞄も気になるし、朝から何度か思い出してしまうルナの視線も気になる。
たった一度、見られただけだ。
本当に、それだけのはずなのに。
放課後のチャイムが鳴る。
その音に、アカネはビクッと肩を揺らした。
教室のあちこちで椅子が引かれ、話し声が広がっていく。
部活の話。
寄り道の約束。
笑い声。
いつも通りの放課後だ。
何もおかしくない。
おかしいのは、たぶん自分だけだ。
(早く帰ろう)
ここにいたくない。
今は、教室にいる事自体がしんどかった。
できれば、ルナをもう一度見てしまう前に。
いや、見てしまう前にというより、また見られる前にだ。
(何でそんな事、わたし気にしてるの)
自分でも馬鹿みたいだと思う。
ただの転校生だ。
話した事もない。
睨まれたわけでもない。
それなのに、あの冷たい視線を思い出すだけで、胸の奥がヒヤッとする。
怖い。
その一言が、どうしても消えなかった。
アカネは俯きながら鞄を持ち上げる。
ズシリとした重みに、心臓がまた嫌な音を立てた。
中の重みが、手の平へ返ってくる。
鞄の中の黒いケース。
黄金のデリンジャー。
黄金の弾丸の入った小箱。
考えたくないモノが、全部そこに入っている。
アカネは席から立ち上がる。
できるだけ目立たないように。
誰かに呼び止められる前に。
いつも通りを装って。
でもたぶん、全然うまくできていない。
(変に見えてるかも……)
そんな不安が頭に浮かぶ。
だからといって座り直す勇気もなかった。
もう無理だった。
教室の後ろの扉へ向かう。
一歩、また一歩。
それだけなのに、背中がひどく強張る。
(お願いだから、わたしを見ないで……)
誰に向けたものなのかもわからないまま、そんな事を思う。
その時、どうしようもなく気になってしまって、アカネはほんの少しだけ視線を上げた。
教室の向こう側。
また同級生の何人かに囲まれていたルナが、こちらを見ていた。
目を見開き、ヒッと小さな悲鳴を上げ息を止める。
反射的にルナから視線を逸らした。
偶然なんかじゃない。
ルナの冷たい視線は、真っ直ぐにアカネを見つめていた。
(やだ、何で? どうして?)
わからない。
全然わからない。
でも無理だ。
あの目は無理だった。
足が止まりかける。
でも止まったらだめだと思った。
止まったら、もっと見られる気がした。
何がどうなるわけでもないのに、そんな気がしてしまった。
アカネは視線を逸らしたまま、足早に教室を出た。
廊下へ出た瞬間、少しだけ呼吸がしやすくなる。
それでも安心はできなかった。
背中のどこかに、まだあの冷たい視線が刺さっているような気がする。
階段へ向かう途中、チラリと振り返ると廊下の向こうで銀色の髪が揺れた気がした。
(気のせい、絶対気のせいだよ)
自分にそう言い聞かせる。
言い聞かせても、早足になるのは止められなかった。
(逃げてる。 わたし完全に逃げてる)
そんな事、自分でもわかっていた。
情けない。
転校生ひとりに、何を怯えてるんだろう。
でも、そう思っても足は止まらない。
昇降口へ向かう。
周りの生徒の声も、下駄箱の音も、今日は妙に遠い。
とにかく早く外へ出たかった。
後ろから名前を呼ばれる気がして、何度も肩が強張った。
靴を履き替える手が、少しもたつく。
(落ち着いて、こんなの何でもない)
そう思うのに、指先がうまく動かない。
やっとの事で靴を履き替えて、外へ出る。
校門を抜けたところで、アカネはようやく息を吐いた。
(……出られた)
たったそれだけの事なのに、逃げ切ったみたいな気分になる。
本当に馬鹿みたいだ。
でも、まだ足は止められなかった。
もし、追いかけてきたらどうしよう。
そんな事、あるわけない。
あるわけないのに、頭のどこかで勝手に想像してしまう。
ルナがそんな事をする理由なんてない。
そもそも、自分なんかを気にするはずもない。
それでも怖い。
振り返った先に、銀色の髪の彼女が立っていたらどうしよう。
そう考えただけで、背中の辺りが冷たくなる。
誰にも追われていないかもしれない。
全部、ただの思い込みかもしれない。
それでも、足だけは止められなかった。
アカネは家の方向へ向きかけて、すぐにやめた。
今は帰りたくなかった。
正確には、帰るのが怖かった。
静かな部屋へ戻ったら、またあの黒いケースと向き合う事になる。
それも嫌だったし、何より今は、ただ学校からできるだけ離れたかった。
だからアカネは、そのまま街の方へ歩き出した。
行き先なんてない。
ただ、人の多い方へ。
学校の空気から逃げるみたいに。
あの氷のように冷たい視線から、少しでも遠ざかるみたいに。
アカネは逃げるように街の中へ紛れていった。
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