六話 俺は君のことが……
後頭部に鈍い痛みが残る。
「いてて……」
手でさすりながら立ち上がると、華憐が泣きそうな顔で俺を覗き込んでいた。
「ゆうちゃん! 大丈夫⁉︎」
「平気平気。ただボールが当たっただけだ」
「全然平気じゃないよ!」
華憐は俺の腕をぎゅっと抱き寄せた。
体操着越しに、むにっと柔らかな感触が腕へ押し当てられる。
華憐は細身に見えるが、しっかりと出るところは出ている。
健康的で柔らかな体つきは、モデルのようにすらりとした柚月とはまた違った魅力がある。
こんな幼馴染が毎日のように無防備にくっついてきたら、平然としていられる男がどれだけいるだろうか。
「ちょ、近いって、華憐……」
「一応、保健室で診てもらおう!」
「いや、本当に大丈夫だから」
「駄目!」
即答だった。
「頭だよ⁉︎ 何かあったらおばさんも心配するよ」
おばさん——つまり、今の俺の母さんだ。
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないもん!」
ぐいぐいと引っ張られるたび、腕に押し当てられた柔らかさが形を変え、嫌でも意識してしまう。
う……なんて無防備なんだ。
これは、わざとやっているのか?
「ほら、早く!」
「ちょ、待っ——」
俺の抵抗などお構いなしに、華憐は保健室へ向かって歩き出す。
俺は引きずられるように、その後をついていくしかなかった。
◇◇◇◇◇
華憐に引っ張られ、俺たちは保健室までやってきた。
「失礼しまーす」
華憐が引き戸を開け、中を覗き込む。
しかし、返事はない。
「あれ?」
室内を見回しても保健の先生の姿はなかった。
「巡回中かな?」
「みたいだな」
「ええと……ここに入ってるかな?」
華憐は棚から氷嚢を取り出し、冷凍庫の氷を手早く入れた。
「はい、これ」
「いいのか? 勝手に出して」
受け取った氷嚢を後頭部へ当てる。
ひんやりとした冷たさがじんわりと熱を奪っていく。
「緊急事態だもん。きっと先生も怒らないよ」
華憐は空いているベッドを指さした。
「ゆうちゃんは、あそこで寝ててね」
「いや、そこまでしなくても——」
「お願いだから、先生が来るまでは大人しくしてて?」
そう言って俺の背中をぐいっと押す。
「うん……わかった」
「ほら、横になって」
俺は観念してベッドへ腰を下ろし、そのまま横になる。
「じゃあ、私は授業に戻るね」
「ああ。悪いな」
「それと……ありがと」
「ん?」
「私の前に飛び出して、ボールから守ってくれたでしょ?」
少しだけ頬を赤く染めて、華憐は照れくさそうに笑う。
「……カッコよかったよ、ゆうちゃん」
そう言い残すと、華憐は逃げるように小走りで保健室を出ていった。
静まり返った保健室に、一人取り残される。
「別に、華憐を守ろうとしたわけじゃないんだけどな……」
なんともすっきりしない気分のまま、天井を見上げる。
俺はただ、詠子に話しかけようとしていただけだ。
それなのに華憐は、俺が自分を守ったと思い、本気で心配してくれた。
頬を赤く染めて笑う華憐の姿を思い出すと、胸の奥が少し痛んだ。
「……もう考えるのはやめよう」
目を閉じかけた、そのとき。
ふと、妙なことに気づいた。
待てよ。ボールから華憐を庇うイベントは知っている。
でも、保健室で休む展開なんてあったか……?
記憶を探ろうとしたが、氷嚢の冷たさと、静かな保健室の空気に、張り詰めていた気が緩んだ。
そして、意識はゆっくりと遠のいていった。
◇◇◇◇◇
誰かの気配がする。
俺は……寝てしまっていたのか。
ぼんやりと目を開ける。
「華憐……か?」
霞んでいた視界が、少しずつ鮮明になっていく。
そこに立っていたのは——体操着姿のポニーテールの少女だった。
「あっ……すみません。起こしちゃいましたか?」
その声を聞いた瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。
……詠子!?
どうして詠子が保健室にいるんだ!?
「え……ど、どうして」
寝起きで働かない頭を、必死に回転させる。
「私、保健委員なんです。先生に、桜庭くんの様子を見てくるように言われたので……」
詠子は遠慮がちに視線を伏せた。
「ああ……そう、なんだ」
それしか言葉が出てこなかった。
寝起きだからじゃない。
ずっと話したかった詠子が、すぐそばにいる。
ようやく二人きりになれたのに、いきなりで何を話せばいいのか分からない。
俺が何も言えずにいると、詠子はその沈黙を別の意味に受け取ったようだった。
「……ごめんなさい。私なんかが来ても、嬉しくないですよね」
「え?」
「白姫さんみたいな綺麗な女の子が来てくれたら、桜庭くんも嬉しかったと思うんですけど……」
詠子は困ったように笑った。
「いや、俺は——」
「氷、もう溶けてますね。少し横を向いてください。新しいものに替えます」
言われるまま身体を傾けると、詠子が俺の後頭部へ手を伸ばした。
氷嚢を取ろうと、詠子が俺の身体へ覆いかぶさるように手を伸ばす。
ポニーテールが肩からさらりと垂れ、詠子の顔がすぐ近くまで迫った。
詠子が、こんなにも近くにいる。
ゲームの画面越しに、何度も追いかけた少女。
どれだけ探しても、決して手の届かなかった相手が、今は目の前にいる。
離れてほしくない。もう見失いたくない。
そう思った瞬間、俺は氷嚢へ伸びた詠子の手首を、思わず掴んでいた。
「あっ、桜庭……くん?」
細い手首だった。
少し力を込めれば折れてしまいそうで、慌てて指の力を緩める。
「どうしたんですか? どこか痛みますか?」
心配そうな栗色の瞳が、俺を覗き込む。
ああ、駄目だ。
ずっと会いたかった。
ずっと話したかった。
俺は、君のことが——
「好きだ」
「……え?」




