二話 頼む。邪魔しないでくれ
どういうわけか、俺は『恋スク』の世界にいた。
「え、詠子……」
気づけば、俺は席を立っていた。
画面越しではない。
視界には、選択肢もテキストウィンドウも表示されていない。
もしゲームの世界に入り込んでしまったのなら、俺は自由に動き、話しかけられるはずだ。
これが夢だろうと幻覚だろうと何でもいい。
彼女に声をかけることができるのなら。
息を整え、一歩を踏み出した。
「あ、あの——」
「ちょっと! ゆうちゃん!」
「ふぐっ」
その瞬間。
ぐいっ、と頬を両手で挟まれ、無理やり視線を戻された。
視界いっぱいにピンク色の髪と、大きな瞳が飛び込んでくる。
ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。
愛原 華憐。
『恋スク』の主人公の家の隣に住む、元気いっぱいで距離感の近い幼馴染だ。
「ねえ? 話、聞いてる?」
「いや、ちょ、待て……ゆうちゃんって」
そう呼ばれるということは、俺は——。
いや、今はそれどころじゃない。
俺は慌てて華憐の手を外そうとする。
頼む。
俺は今、詠子に話しかけようとしているんだ。
邪魔をしないでくれ。
俺は華憐の肩越しに、さっきまで詠子がいた場所を見た。
そこに——。
「……あれ?」
いない。
さっきまで詠子が立っていた場所に、その姿はなかった。
それどころか、近くで話していた女子生徒たちまで見当たらない。
「……どこに行った?」
「ゆうちゃん?」
俺は華憐の手を振りほどき、教室の中を探し回った。
教室の後ろ。
窓際。
出入口。
廊下。
何度も視線を走らせた。
だが、見つからない。
さっきまで確かにいたはずの彼女が、どこにもいない。
「どうしてだよ……!
さっきまで、ここにいたのに!」
思わず声が大きくなる。
教室のざわめきが、ほんの少しだけ静まった。
華憐が俺を追いかけてきて、顔を覗き込みながらきょとんと首を傾げた。
「もう、変なゆうちゃん」
「変って……俺は——」
「それよりさ」
華憐は、さっきまでの話題に戻すように、にぱっと笑った。
「今日、帰りにどこか寄っていかない?」
「それよりって……俺にとっては何より大事な——」
「もう、ゆうちゃんってば。さっきから何言ってるの?
ねえ、帰りにどこか寄っていこうよ」
華憐は、俺から視線を外そうとしない。
大きな瞳が、答えを促すようにこちらを覗き込んでいる。
会話が元の流れへ戻されている?
まるで、決められた答えを返すまで、この場面から抜け出せないかのように。
これは、『恋スク』の共通ルート冒頭で発生する、華憐との何気ない会話だ。
ここで主人公は、華憐と寄り道をするか、用事があると断るかの選択を迫られる。
華憐に付き合うと答えれば、放課後は寄り道イベントへ進む。
断れば、放課後に他のヒロインイベントへ進む余地が生まれる。
何度も見た、序盤のやりとりだ。
しかし、今は違う。
選択肢はどこにも表示されていない。
ただ、華憐は俺の答えを待つように、じっとこちらを見つめていた。
長いまつ毛。
緩く波打つ、少し癖のあるピンク色の髪。
不安そうに揺れる、潤んだ瞳。
悔しいが、画面で見るよりもずっと可愛い。
駄目だ。俺が好きなのは詠子だけなんだ。
誘惑に負けるわけには——。
「きょ、今日はちょっと用があるんだ。
だから……また今度な」
俺は、記憶にある通りの返事をした。
すると華憐は、ぷくっと頬を膨らませる。
「そっかー。
じゃあ、また今度ね! 約束だよ?」
台詞も、表情も、その後の流れも。
ゲームで何度も見たものと、まったく同じだった。
華憐は何もなかったかのように自分の席へ戻り、前を向いた。
その直後だった。
さっきまでなぜか見えなかったクラスメイトたちの姿が次々と視界に浮かび上がってくる。
「どういうことだ……
人が湧いて出てきたぞ」
そして、その中には詠子の姿もあった。
「……詠子」
名前が、勝手に口からこぼれた。
「……え?」
詠子と目が合う。
画面の中では、一度も俺を見なかった栗色の瞳が、今は確かに俺を映していた。
詠子は驚いたように目を見開き、戸惑った様子でこちらを見返した。
「いや……その、俺は——」
ガラッ。
教室の扉が開き、担任の教師が入ってきた。
「ほら、お前ら、席につけ。ホームルームを始めるぞ」
ざわついていた教室が、少しずつ静かになっていく。
詠子は俺の視線から逃げるように目をそらし、自分の席へちょこんと座った。
「おい! 桜庭、早く席に戻れ」
「……」
「おい! 聞いてるのか?」
担任が苛立ったように俺を睨む。
「もう、ゆうちゃん!
さっきから少し変だよ!」
華憐が俺の手を引き、席へと連れ戻した。
「あ……」
桜庭。そして、ゆうちゃん。
『恋スク』で、その二つの呼び名を持つ人物は一人しかいない。
俺は——。
『恋スク』の主人公、桜庭優一になっていた。
そして、この流れを俺は知っている。
このあと先生が何と言うのかも。
『今日は、お前たちに紹介する生徒がいる』
と言うはずだ。
そして、その言葉に続いて教室へ入ってくる少女のことも——。




