十九話 わたくしのパートナーに!
誰かの泣き声が聞こえる。
「うっ……ひっく……」
幼い少女の、息を詰まらせるような声。
俺は重たいまぶたをゆっくりと開いた。
目の前に広がっていたのは、ライブ会場でも、学園の保健室でもない。
夕暮れに染まった小さな公園。
赤く錆びたブランコが風に揺れ、きい、きい、と寂しげな音を立てている。
見覚えがあった。
いや、実際にここへ来たことがあるわけじゃない。
ゲームで見たことがある。
蘭子ルートで、主人公が意識を失ったときに流れる幼少期の回想。
どうなっているんだ?
俺は気を失ってしまったのか。
そう思ったのに、口から声は出なかった。
身体も自由に動かせない。
俺の意思とは関係なく、視線だけが泣き声の方へ向けられていく。
これが……記憶の世界。
知らない体験が、あたかも自分自身の記憶だったかのように塗り替えられていく感覚だ。
公園の隅にある、大きな木の下。
そこに、ひとりの女の子が座り込んでいた。
肩まで伸びた美しい金髪。
上等そうな白いワンピースは土で汚れ、膝には小さな擦り傷ができている。
女の子は両手で顔を覆い、声を押し殺すこともできずに泣きじゃくっていた。
「うぅ……うぇん……」
俺は、この子を知っている。
幼い頃の蘭子だ。
ここで幼い主人公が、泣いている蘭子に声をかけるんだ。
それが二人の最初の出会いだった。
少女の前で足が止まる。
そして、俺の意思とは関係なく、幼い声が口からこぼれた。
「どうして泣いてるの?」
少女がゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた大きな瞳が、まっすぐ俺を見つめた。
「……あなたは、誰ですの?
あっち行ってくださいまし!」
そう。幼い頃から蘭子はこんな感じだった。
屋敷を抜け出し、迷子になっているにもかかわらず、この態度。
「泣いてないで、一緒に遊ぼうよ」
この状況で遊びに誘うのだから、恐るべし幼い主人公。
けれど、同情するでもなく、ただ純粋に蘭子と遊びたかった。
その無邪気さが、幼い蘭子の心を動かした。
「仕方ありませんわね。
あなたに付き合ってあげますわ」
そして別れ際に、ある約束を交わすんだ。
全部、知っている。
ゲームの画面越しに見た、蘭子ルートの思い出。
けれど今は、画面の向こう側ではない。
少女の泣き声も。
夕暮れの冷たい風も。
握り締めた小さな手の温もりさえも。
まるで、本当に俺自身が経験した記憶のように流れ込んでくる。
やめろ。
これは、俺の思い出じゃない。
それなのに、胸の奥には、泣いている少女を放っておけないという感情が膨らんでいく。
これも、俺の感情じゃない。
意地っ張りで、わがままで。
それでも放っておけなくて、ずっと隣にいてやりたいと思った。
ああ、そうだ。
俺は、ランちゃんのことが好きだったんだ。
ランちゃんが泣いているときは、いつだって俺が駆けつける。
そう、約束したんだった。
◇◇◇◇◇
ゆっくりと目を開ける。
ぼやけた視界の中に、涙を浮かべた蘭子の姿があった。
「わたくしのせいで……」
「ランちゃん……泣かないで」
口にしてから、自分の言葉に違和感を覚えた。
あれ? ……俺は、今なんて言った?
けれど、考えるよりも先に手が伸びていた。
俺は泣きじゃくる子どもをあやすように、蘭子の頭を優しく撫でる。
「優一さん……その呼び名……」
蘭子は大きく目を見開き、震える唇で言葉を続けた。
「もしかして、わたくしのことを覚えて……?」
「ランちゃんが泣いているときは、いつだって俺が駆けつけるって……約束しましたから」
まただ。
考えてもいない言葉が、昔から知っていた合言葉のように口からこぼれていく。
「優一さん……ごめんなさい」
蘭子の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「わたくしを庇って、こんな怪我を……」
蘭子はベッドに横たわる俺へ身を寄せ、その身体を壊れ物に触れるように優しく抱きしめた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
蘭子に抱きしめられると、不思議と心が安らぐ。
幼い頃に、好きになったランちゃん。
そして、何事にも全力で、放っておけない頑張り屋の生徒会長。
その二人が、同じ女の子だったなんて。
……そうだ。
蘭子は、頼れる優一という存在を得て、これから一歩ずつ前へ進んでいく。
これが、蘭子ルート。
事故をきっかけに幼い頃の約束を思い出し、二人の距離は一気に縮まる。
ここまで来れば、ルート突入は間違いない。
これで晴れて、俺は蘭子ルートに——。
……あれ?
待て。
なんで俺は、そんなことを当然のように受け入れているんだ。
というか、何だこの状況。
詠子は?
詠子は、どうした?
「あ、あはは……会長」
俺は蘭子の腕の中で、引きつった笑みを浮かべる。
「俺、さっき何か言いましたっけ?」
「優一さん……」
蘭子は頬を赤らめ、俺の手をそっと握った。
「これからは、わたくしのパートナーとして——」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
まずい。
その先は聞いたら駄目なやつだ。
うまく誤魔化さないと。
「まだ頭が混乱していて……うっ! 何も思い出せない!」
「優一さん! 大丈夫ですの⁉︎」
「思ったより大丈夫じゃないかもしれません! 誰か! 誰か呼んできてもらえませんか⁉︎」
「わ、分かりましたわ! すぐに先生を呼んでまいります!」
蘭子は慌てて立ち上がると、保健室を飛び出していった。
扉が閉まったのを確認し、俺は大きく息を吐く。
「……危なかった」
これ以上、ここにいるのはまずい。
このままでは、本当に蘭子ルートが確定してしまう。




