十三話 でも、それだけです
凪は人数分に切り分けたキャロットケーキを、皿へ丁寧に並べていく。
「はい、どうぞ」
少し緊張した声でそう言うと、一人ひとりへ皿を手渡した。
「いただきまーす!」
華憐が真っ先にフォークを手に取る。
一口食べた瞬間、その表情がぱっと明るくなった。
「んんっ! おいしい!」
その一言に、凪の肩がぴくりと震える。
「さっすが凪ちゃん!」
「本当ですね」
柚月も上品に一口食べ、小さく頷いた。
「こんな美味しいキャロットケーキは初めてです」
周りのクラスメイトたちからも、次々と感想が飛び出す。
「これ、お店で売ってそう」
「文化祭のレベルじゃないぞ」
そんな感想が次々と聞こえてくる。
凪は何も言わなかった。
けれど、ほんの少しだけ口元は緩んでいた。
そして——。
俺は一番気になっていた少女へ視線を向ける。
「いただきます」
詠子は胸の前でしっかりと手を合わせ、ぺこりと頭を下げた。
そんな何気ない仕草さえ、どこか詠子らしくて可愛らしいと思ってしまう。
フォークで一口分を切り分け、おそるおそる口へ運ぶ。
「……!」
次の瞬間、詠子の瞳がぱっと輝いた。
「す、すごく美味しいです!」
弾んだ声を上げると、すぐにもう一口。
さらにもう一口と、幸せそうにケーキを頬張っていく。
「ああ……幸せです」
その姿を見ていると、俺の頬も自然と緩んだ。
……今なら話せるかもしれない。
この前の保健室でのこと。
ちゃんと誤解を解くなら、今が絶好の機会だ。
けれど、俺は開きかけた口を閉じた。
詠子は本当に幸せそうに、凪の作ったケーキを味わっている。
こんなときに、自分の都合で気まずい話を持ち出すのは、あまりにも無粋。
夢中で食べている詠子にも、一生懸命ケーキを作ってくれた凪にもなんだか悪い気がした。
……まあ、食べ終わってから話しかければいいか。
俺はそう決めると、詠子が幸せそうにケーキを頬張る姿を、静かに見守ることにした。
「では、メイド喫茶のケーキは手作りに決定だ。みんなも異論はないな?」
しかし、先生の一声で試食会はあっという間に締めくくられてしまった。
賛成の声が上がり、クラスメイトたちはぞろぞろと教室へ戻っていく。
まさか、詠子が完食する前にイベントが終わるなんて……。
詠子へ話しかけられないまま、試食会は終わってしまった。
そう思った、そのときだった。
「桜庭くん」
最後の一口を食べ終えた詠子が、こちらへ歩いてくる。
「この前のことなんですけど……」
「さ、佐藤さん」
「すみません。なかなか桜庭くんと話すタイミングがなくて……」
詠子は申し訳なさそうに目を伏せた。
「いや、こっちこそ。いきなり腕を掴んだりして、ごめん」
「いえ、私は気にしてません」
詠子は小さく首を横に振る。
「それで……私、勘違いなんてしてませんから」
「……え?」
「あのときは桜庭くん、頭を打ったばかりでしたし……その、普段あまり下の名前で呼ばれることもないので、びっくりはしましたけど……」
少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら、詠子は続ける。
「でも、それだけです」
そう言い残すと、詠子は小走りでクラスメイトたちの後を追いかけ、そのまま背景に紛れてしまった。
俺はしばらく、その背中を呆然と見つめていた。
保健室での一件を、一応謝ることができた。
詠子の方から俺に話しかけに来てくれた。
そこは、素直に嬉しい。
……けれど、俺の気持ちは詠子に何一つ伝わっていない。
わかってはいたが、面と向かって言われると少し胸が痛んだ。
「……優一」
すぐ近くから声をかけられ、我に返る。
振り向くと、片付けを終えた凪が、心配そうにこちらを見上げていた。
「ああ、凪か」
「なんか……悲しそうな顔してる」
「してないぞ」
「うそ」
凪は俺の顔をじっと見つめる。
「困ってることがあるなら……相談して」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
笑って答えると、凪は少しだけ眉を寄せた。
「……無理、しないで」
そう言って、凪はちょこんと俺の隣に並んだ。
それ以上何かを言うわけでもなく、ただ黙ってそこにいてくれた。
その凪らしい静かな優しさが、心地よかった。
さっきまで胸を締めつけていた焦りが、ほんの少しずつ和らいでいく。
けれど、いつまでも凪に甘えているわけにはいかない。
「よし!」
俺は自分を奮い立たせるように、両頬を軽く叩いた。
詠子が登場する文化祭準備のイベントは、まだ残っている。
今回だって、ほんの少しではあるが前に進めたはず。
だったら、次はもっと詠子との距離を縮めてみせる。
まだ始まったばかりだ。




