十二話 ここからが俺の本番だ
にんじんをすりおろす音が、静かな家庭科室に心地よく響いていた。
シャッ、シャッ、と一定のリズムを刻みながら、凪の手は迷いなく動いていく。
「すごいな。見ていて気持ちいいくらいだ」
「……普通」
そう言いながらも、凪の手は止まらない。
すりおろしたにんじんをボウルへ移し、粉類をふるい、溶かしたバターを量る。
一つ一つの動きに無駄がなく、まるで手順が身体に染みついているようだった。
「これなら、試作も心配いらなそうだな」
「……そうでもない」
「そうなのか?」
「……誰かに食べてもらうこと、あまりないから」
凪は手元を見つめたまま、小さく呟いた。
その横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
「……そっか」
凪が自分から話していないことを、無理に聞く必要はない。
「だったら、みんなに食べてもらう前に、俺が先に試食してやるよ」
「……優一が?」
「ああ。それなら少しは自信を持てるだろ? こう見えて、舌には自信があるんだ」
「そうは見えない」
「失礼な。近所でも美食家として有名なんだぞ」
「ふっ……なにそれ」
凪が柔らかく微笑んだ。
いつも無表情な凪が見せた笑顔には、年相応の可愛らしさがあった。
「凪は笑ってる方が可愛いな」
「…………っ!」
気づけば、思ったことがそのまま口からこぼれていた。
凪はぴたりと手を止め、驚いたようにこちらを見つめている。
「いや、その……変な意味じゃないぞ。普段はあまり笑わないから、珍しいというか……」
「優一。そういうところ直したほうがいい」
「どういうとこだよ」
「……そのくらいは自分で考えて」
凪は俺から顔を背けると、再び手元の作業へ戻った。
けれど、横を向いた耳はほんのりと赤く染まっていた。
生地が出来ると、凪は慣れた手つきで型へ流し込み、オーブンへ入れる。
しばらくすると、家庭科室には甘い香りが少しずつ広がり始めた。
焼き上がるまでの時間、俺たちは他愛もない話をしながら待つ。
文化祭のこと。
ケーキ作りのこと。
そして、凪が最近見つけた可愛いうさぎの動画のこと。
いつもより機嫌がいいのか、凪は普段よりもよく話してくれた。
やがて——
「……焼けた」
オーブンを開けると、ふわりと甘い香りが家庭科室いっぱいに広がる。
きつね色に焼き上がったキャロットケーキは、見るからに美味しそうだった。
「おお……」
焼き上がったケーキをしばらく置き、粗熱を取る。
その間に凪は、クリームチーズへ砂糖とレモン汁を加え、手際よく混ぜ始めた。
真っ白なクリームが、少しずつなめらかな艶を帯びていく。
「最後はこれ」
ケーキが冷めたのを確かめると、凪はパレットナイフでクリームを薄く広げていく。
何度か表面を撫でるだけで、なめらかなクリームの層が驚くほど綺麗に整った。
「……できた」
凪が小さく息をつく。
目の前には、白いクリームと砕いたくるみで飾られたキャロットケーキが完成していた。
文化祭の試作品とは思えないほど、本格的な出来栄えだ。
凪はケーキを小さく一切れ切り分け、皿に載せると、俺の前へそっと差し出した。
「……どうぞ」
凪は平静を装っていたが、その表情にはわずかな緊張が滲んでいる。
「それでは、いただきます」
フォークで一口分を切り取り、口へ運ぶ。
しっとりした生地から、優しい甘みとスパイスの香りが広がった。
「うむ!」
俺は評論家よろしく、大げさに頷いた。
「にんじんの優しい甘みと、クリームチーズの爽やかな酸味が見事なハーモニーを奏でている!
そこへ、くるみの食感が絶妙なアクセントを加える……これは至高の一品だ!」
完璧な食レポを披露したつもりだったが、凪は呆れたように小さく息を吐いた。
「……普通に言って」
「めちゃくちゃうまい」
「ほんと?」
凪は念を押すように、俺の顔をじっと見つめた。
「ああ。これなら絶対に売れる」
「……よかった」
ようやく緊張が解けたのか、凪はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「せっかくだし、クラスの何人かにも試食してもらおう」
「……うん」
俺たちは先生へ事情を説明し、何人かに試食してもらいたいと頼んだ。
先生は快く了承すると、教室に残っていた生徒たちへ声をかけに戻っていった。
しばらくして、家庭科室の扉が開く。
「うわぁ! 美味しそうなケーキ!」
真っ先に顔を覗かせたのは華憐だった。
「凪ちゃんのケーキ楽しみ!」
その後ろから、柚月が静かに家庭科室へ入ってくる。
「入る前から、スパイスのいい香りがしていました」
そして、さらに数人のクラスメイトが続く。
その中に、見慣れた少女の姿があった。
「し、失礼します。濱由良さんのケーキが食べられると聞いて……」
佐藤詠子。
やはり、この試食会に来てくれた。
思わず頬が緩みそうになるのを堪えながら、俺は平静を装う。
今日はなるべく自然に。
そう。自然に話すんだ。
「さ、佐藤さんは……ケーキ、好き?」
俺と目が合った瞬間、詠子の表情がわずかに強張った。
……やっぱり、この前の保健室でのことを気にしているらしい。
「あ……はい。とても好きです」
少し戸惑いながらも、詠子はきちんと答えてくれた。
そして、凪が切り分けたケーキを両手で受け取る。
たったそれだけの会話。
それでも、これまで何度話しかけようとしても叶わなかった詠子と、ようやくまともに言葉を交わせた。
この試食会が続く間、おそらく詠子が突然いなくなることはない。
ようやく手に入れた、詠子と自然に話せる時間。
——ここからが、俺の本番だ。




