十話 そのすべてを覚えている
「優一さん? 聞いてますの?」
目の前で、蘭子が怪訝そうに眉をひそめていた。
どうやら、考え込んでいる間に話を聞き逃していたらしい。
俺は慌てて意識を生徒会室へ戻す。
そうだ。
生徒会の仕事を手伝うイベントにも、詠子が登場する場面がある。
ここで断れば、詠子と接触できるかもしれない機会まで失ってしまう。
俺は小さく息を吐いた。
「……分かりました。手伝います」
一瞬、蘭子は目を丸くした。
「ほ、本当ですの?」
その表情が、ぱっと明るくなった。
けれど次の瞬間には、慌てたように咳払いを一つした。
「こほんっ。そ、それなら話は早いですわ」
胸の前で腕を組み直し、いつもの堂々とした生徒会長の表情を取り戻す。
「文化祭当日までは、生徒会も大忙しですの。時間が空いたら、生徒会室へ顔を出してくださいまし」
「分かりました」
「もちろん、無理にとは言いませんわ。ただ……なるべく来てくださると助かりますの」
最後の言葉だけ、ほんの少し声が小さくなった。
俺は小さく頷き、生徒会室を後にした。
背後から、ほっと息を吐く音が聞こえた気がする。
あれほど分かりやすく嬉しそうな顔をされれば、悪い気はしない。
ただ、蘭子と過ごす時間が増えれば、そのぶん彼女との関係も深まっていく。
それは、蘭子ルートへ入る可能性が高まるということだ。
それでも、もう一度詠子と話すためなら、この程度のリスクは引き受けるしかない。
それに、詠子が登場するのは蘭子のイベントだけではない。
俺は『恋スク』を何百回とプレイしてきた。
クラスメイトAである詠子が、いつ、どこで、どのイベントに姿を見せるのか。
俺は、そのすべてを覚えている。
◇◇◇◇◇
まず狙うのは、文化祭の準備中に起こるイベントだ。
俺たちのクラスは、メイド喫茶を開くことになっていた。
まあ、当然の結果だろう。
愛らしい笑顔が印象的な華憐に、学園一の美少女と名高い柚月。
さらに、小柄で可愛い凪までいる。
タイプこそ違うが、三人とも学園内でかなり人気がある。
これだけの顔ぶれが揃っているのだから、メイド喫茶をやらない手はない。
準備初日。
さっそく、狙っていたイベントが始まろうとしていた。
「凪ちゃんって、お菓子作りも得意だったよね!」
メイド喫茶で提供するケーキを、市販品にするか、それとも家庭科室を借りて手作りするか。
その話し合いの最中、華憐が凪の名前を挙げた。
突然注目を集めた凪は、少しだけ眉を寄せる。
「……得意ってほどじゃない」
「でも、前に作ってくれたクッキー、すっごくおいしかったよ!」
「普通に作っただけ」
そう答える凪の声は、いつも通り淡々としていた。
けれど俺は知っている。
文化祭では、凪の手作りケーキがメイド喫茶の目玉となり、連日売り切れるほどの人気を集める。
ただし、この時点の凪はあまり乗り気ではない。
ここで主人公が「まずは試作品を作ってみないか」と提案する選択肢を選ぶことで、凪とのケーキ作りイベントへ進めるのだ。
そして、その試食には詠子も参加する。
凪のケーキを口にした詠子は、目を輝かせて大絶賛する。
俺は、その場面をよく覚えている。
このイベントを再現できれば、今度こそ自然に詠子と話せるかもしれない。
「俺も、凪が作るケーキはちょっと気になるな」
華憐の言葉に乗っかるように、俺も話へ加わった。
凪がじっとこちらを見る。
「優一も食べたいの?」
「ああ。いきなり文化祭で出すか決めるんじゃなくて、一度試しに作ってみたらどうだ? みんなに食べてもらって、その反応を見てからでも遅くないだろ」
凪は少し考えたあと、小さく首を横に振った。
「無理。材料もないし」
「材料なら、これから買いに行けばいいだろ」
「誰が?」
「凪と俺で」
そう答えると、凪がわずかに目を見開いた。
「優一も一緒に来るの?」
「言い出したのは俺だからな。買い出しくらい手伝うよ」
凪は俺の顔をしばらく見つめていた。
何を考えているのか。相変わらず、その表情からは感情が読み取りにくい。
「……荷物、全部持つ?」
「それでもいいぞ」
「分かった……それならいい」
あっさりとそう言って、凪は必要な材料をノートに書き始めた。
そして放課後。
俺は凪と二人で、学園から歩いて十分ほどのところにあるスーパーへ向かっていた。
隣を歩く凪は、買い物メモをしまったうさぎのポーチを、胸元で大事そうに抱えていた。
今のところ、イベントはゲームとほぼ同じ流れをたどっている。
あとは凪との買い物を無事に済ませ、ケーキを作ってもらい、詠子が試食に加わるのを待つだけだ。
「優一……何のケーキが好き?」
不意に、凪がぽつりと尋ねてきた。
確か、凪が得意なのはキャロットケーキだったはずだ。
文化祭でもそれを作り、メイド喫茶の看板メニューになる。
本当に凪は、うさぎみたいだな。
「キャロットケーキがいいな」
「……キャロットケーキ?」
凪がわずかに目を見開いた。
「普通、選ばない」
「そ、そうか? 普通じゃないか?」
「普通じゃない」
「えっと……ほら、凪に似合いそうだと思って」
我ながら、苦しい言い訳だった。
凪は足を止めることなく、じっと俺の顔を見上げている。
その目は、いつもより少しだけ細められていた。
……さすがに怪しまれたか?
ゲームの知識があるからといって、何でも口にしていいわけではない。
凪は、抱えていたうさぎのポーチで口元を隠すように、少しだけ俯いた。
「キャロットケーキにする」
「……いいのか?」
「優一が食べたいなら、それでいい」
相変わらず、その声から感情は読み取れない。
けれど、うさぎのポーチを抱く腕には、先ほどより少しだけ力がこもっているように見えた。




