「ダウン・バイ・ザ・シーサイド」4
陽炎は、どうやら、本当に空間の歪みだったらしい。触れた瞬間、視界がぐにゃりと歪み、現実の風景が戻ってきたのだ。
そこはどこかの路地裏だった。見覚えがある場所なので、そう遠くではないだろう。
「みんな居るか!?」
素早く部長が言う。それに、みんなで力なく返事をした。
結果として、俺たちは全員で生き残ることができたのである。
──だが、そこに壁谷は居ない。
「……なあ」
ふと、汚い地面にへたりこんでいる全員に対し、俺は口を開いた。
「お前ら、壁谷見なかったか?」
その問いかけに、その場の誰もが目を伏せた。
「見たよ。確かに。捕まってたな」
横溝がそう言う。それは実に薄情な言い方だった。俺は思わず、奴の胸倉を掴む。
「何を肩入れしてるのか知らないが──」
ふと、横溝が口を開く。それは抑制されてこそいるが、怒りをはらんだ声だった。
そして次の瞬間、その感情が爆発する。
「もう一回戻るっていうのか!? あいつを助けるために!? そんなことできるかよ! オレたちは死にかけたんだぜ! 何のために? 何のためでもねえよ! 理由も筋もない──オレたちは理不尽に殺されかけたんだ! そんなところにまともな理屈なんて持ち込んでたまるかよ! そりゃ、オレだって助けてぇよ! 助けられるもんならな。でも助けられない。オレたちは所詮、何者にもなれないんだ! 半端な知識だけつけてさ! 結局、本物の恐怖の前では何もできないんだ!」
「──知るか。俺は行くんだ」
言い、俺は彼に背を向け、未だ空中に留まり続けている陽炎の方へと歩いていく。
ふと、ひと思いに陽炎へと飛び込もうとする俺の背中に、横溝が声をかける。
「何で行くんだ。友達でもない奴のために」
俺はそれには答えず、陽炎へ飛び込んだ。
ダウン・バイ・ザ・シーサイドの風景は、さっきから何一つ変わっていなかった。だが、蜘蛛の位置は変わっていた。奴は既に、壁谷へと接近していたのだ。
「このォッ!」
叫び、俺は背中から蜘蛛へとドロップキックを見舞った。
それにより、蜘蛛は吹っ飛ばされる。さっきは分からなかったが、どうやら、体重の方は大したことがないらしい。
その攻撃は、先刻同様、俺にもダメージを与えた。今度はもう片方の靴のみならず、練習着のズボンまでもが溶解してしまった。
「な、なんで来たの……?」
壁谷の体に絡みついた糸をはがしていた俺は、その言葉に、作業をしながら答えた。
「忘れられなかった。あの時の、壁谷の目が」
「え……」
すべてを諦めきったような、あの目。ずっと心に引っかかっていた、あの目である。
「だから──助けようと思ったんだ」
そう言ってから、俺は「いや」と言葉を訂正した。
「それは正しくないな。俺は多分、知りたかったんだ。こんな目をする奴は、一体どんな奴なんだろう、って──」
「仲良くなりたかった、ってことなの?」
その言葉を、俺は頷くことで肯定した。その瞬間、壁谷を縛っていた糸は完全にほどけた。手の感覚はもう殆ど残っていなかった。痛みだけが、そこに残り続けている。
「そんなことのために、こんなところまで来たっていうの、君は?」
「──それじゃ悪いか?」
質問に質問で返した俺のぼろぼろになった手を、壁谷は笑って取った。
「悪くないし──嫌いじゃないよ、そういうの」
そう言うと、彼は走り出した。向こうにある陽炎へ向かって。
俺もそれに追走する。その心には、奇妙なことだが、高揚感が満ち溢れていた。
走り、走り。やがて、俺たちはこの空間から抜け出すことに成功した。
─◇◆◇─
その日。半裸で帰った俺は、家族にこっぴどく怒られたうえ、呆れられることになった。
だが、それも甘んじて受け入れることにした。俺は一人の命を救ったのだ。
──尤も、救った、という表現は正しくないかもしれないが。
そしてその後、壁谷とは、日を改めて会うことになった。
八月四日。部活の練習はなかったので、俺は午前に、駅前のカフェで彼と会うことになった。
「その──結局、お前はどうしてダウン・バイ・ザ・シーサイドの怪物に狙われることになったんだ?」
そう訊くと、彼は苦々しい表情で答えた。
「……どうも、僕の家が巣の中心に近い位置だったらしくてね……家族からあいつを遠ざけるために色々やってたら、目つけられちゃって──」
その言葉に、俺は微笑んだ。
彼は巻き込まれただけではなかったのだ。しっかりと、なすべきことをなそうとしていたのである。
「災難だったな……」
「まあ、それももう終わりだけどね。君に二回も蹴られたことで、あいつは懲りたみたいだ。もう、この町で巣を作ることはないんじゃないかな」
この町で。そのフレーズに、彼は含みを持たせて言い切った。
「この町で……か。それじゃ、あいつはまだ生き続けていて、どこかで人を喰っているかもしれない、ってことなんだな」
「うん……。都市伝説によればそうらしいよ。ダウン・バイ・ザ・シーサイドは移動するんだって。まあ、あいつを倒すすべがない僕たちには、もうどうすることもできないけど──」
そのことに、俺はどうしようもない寂寥感を覚えた。
勝った、という感じはない。そもそも、戦っていたかどうかも、非常にあやふやだ。
だが、一つだけ言えることは──俺も優も、まだ生きているということだった。
「しっかし、暑いね、今日も」
「ああ、全く──」
こうして、俺の夏休みは進んでいく。
今年の夏休みも、去年の夏休み同様、何のこともなく進んでいくのだ。
だが、来年はどうだろうか。
当たり前だが、そのことは、誰にも分らない──。
ふと、カフェのドアが開き、一時だけ外からの熱風が店内へ吹いてきた。
夏だな。俺は、しみじみとそう感じた。




