「ダウン・バイ・ザ・シーサイド」1
枕を交わす、という言葉がある。
枕、という単語の響きで文意は薄々察せられるものだと思うが一応解説しておくと、これは男女が同じ寝具で寝るという意味である。……辞書にはそうとしか載っていなかったので、いかがわしい意味かは不明だ。
正直に白状してしまうと、この単語を知るに至った経緯を、俺は殆ど忘れてしまった。授業で辞書を引いた時だったか、それとも、宿題で辞書を引いた時だったか──。
閑話休題。そんなことはどうでもいい。重要なのは、俺がその単語を知っていたという事実だけだ。
とにかく俺は、最初にその現象と遭遇した時、咄嗟にその単語を頭に浮かべることができたのである。
──日付は八月一日。時刻は午前七時を過ぎた辺りで、開け放たれた窓からは清涼感のある風が吹いてきていた。
その日、俺はベッドに寝ていて、そして──。
その横には、同級生の少年が寝ていた。しかも、衣服を一枚も身につけずに。
─◇◆◇─
声はあげなかった。
いや、正確には〝声をあげそうになったが堪えた〟だ。
そいつとは、別段親しい仲でも無かった筈だ。通っていた小学校は同じだったと記憶しているが、中学校に上がって、二年生で同じクラスになるまでは、そもそも顔も忘れていたような間柄である。何回か話はしたが、それだけだ。
それが今、俺の横で寝ている。それも、素っ裸で。
……どうして。一体、何のために。
この状況は何もかもが意味不明だった。俺が齢十四歳にして何らかの〝まちがい〟を犯した可能性は限りなくゼロに近い。そうなれば、考えられるのは、こいつが夜中に俺の部屋に素っ裸で侵入したという可能性だが、いかんせん動機がない。俺としてはそういう分かりやすい解決が目の前に降って湧くことを望んでいるのだが、現実はそううまくいかないのだ。
現実。ふと、その言葉が、俺の意識の淵にひっかかった。──これは現実なのか?
俺は現実を疑う多くの者がそうするように、自分の頬を自分で思い切りつねった。
「うぎゃっ!」
思いのほか痛かったので、俺は小さく叫ぶ。
「……ううん」
ふと。その声に反応したのか、そいつはうめき声をあげた。目を覚まそうとしているのだろう。
この状況をこいつに見られること。それは果たして、望ましいことだろうか?
もしも目覚めた時、こいつが「何も覚えていない」などとのたまったら、俺はどうなるか。俺は夏休みになっても殆ど練習がないような弱小バスケットボール部の所属だが、それなりに体格はいい方だ。それに対し、こいつは見るからに貧相な体をしている。少女のようにも見えてしまうくらいに。そのうえ、目の下にくっきりと刻まれているクマのために、かなり不健康そうに見える。
つまり、襲われるとしたらこいつの方であり、襲うとしたら俺の方なのだ。
〝まちがい〟を起こすのは俺だ。少なくともそう思われることは確実である。そして、今もまだ家にいる家族の前に、最悪の犯罪者として引きずり出されるのも俺だ。夏休み明け、クラス中から犯罪者のホモ野郎だと糾弾されるのも、俺なのだ。こいつが何も覚えていない、というのは今のところ最悪の想定でしかないが、このような何もかもが意味不明な状況では大いにあり得ることだ。
そのことを考えると背筋に寒気がはしる。俺は自分にかかっているタオルケットをはぎとると、素早くベッドから脱出した。そして、クローゼットを開いて手頃な服に着替える。
そこで、奴は目を覚ましたようだ。俺の視界の端で、ぼんやりした顔のまま半身だけを起き上がらせている。
「ええと……ここは……?」
瞬間、俺は底冷えがするような感覚、というものを、久しぶりに味わうことになった。
最悪の想定は、最悪の事実に変わった。今はいいかもしれない。奴はまだ寝ぼけているのだ。だが、状況を完全に理解すれば、いい、などという言葉は永久に使うことができなくなるだろう。
「俺の部屋だ」
簡潔に俺はそう答えた。その言葉が誤解をまねきかねないことは百も承知している。だが、他に言いようはない。
「ああ、そっか……」
その言葉は想定していなかったものだ。変態、でも、最低、でもなく、そっか。
「あの……誤解しないで欲しいのは、俺は決して、その……」
実際、気が動転していたのだろう。ついさっきまで、俺は奴がこの部屋に忍び込んだ、という考えに一定の信頼を置いていた筈だ。それが今はどうだ。こうして、自分を事態の中心に据えて言説を展開している。
「いや、大丈夫。そのことは分かってるから。…ええと、君は……」
「ひ、姫野。姫野 修吾だ」
気が動転していても、自分の名前は言えるものらしい。咄嗟に、俺は名前を答えることができた。
「ああ、姫野君。出席番号、一番違いだよね。僕は壁谷 優。ごめんね、迷惑かけちゃって」
そんなことを言いつつ、壁谷は立ち上がって、この部屋から出て行こうとする。自分が裸であることなど、意にも介していない様子である。
「ま、待てよ。そんな格好で外に出るつもりか?」
俺は咄嗟にそう言った。気の動転は収まったようである。
「あ……そう言えば……」
壁谷はどうやら、本当に意に介していなかったようだ。
「それに、昨晩お前はこの家に居なかったんだ。俺の家族が見たらどう思うか……この家を出るのは、その後にしてくれないか」
「うん……ごめんね、姫野君。ホントに……」
思いのほか素直なので、俺はすっかり面食らってしまった。
「そんなに謝られてもな……」
そう言って頭をかいた俺は、ふと、肝心のことを訊くのを忘れていたことを思い出した。
「そう言えば、お前は何で俺の部屋なんかに居たんだ?」
それを口にした瞬間、壁谷の体が凍り付く。
彼は何の表情も浮かべてはいなかった。そこには、これまでの申し訳なさそうな態度も、怒りも、何もない──。底なしの、感情の空白だけが、ただただその顔には広がっていた。
「──訊かないで」
ふと、その表情を崩さないまま、壁谷がそう言った。それは呟くような声色だったが、どこか突き放すような調子でもあった。
「その……悪いな」
「ううん。……姫野君の所為じゃないから」
しばらく、その場には沈黙が下りた。
「あ、服貸すよ。いつまでもそのままじゃダメだろ」
沈黙に耐え切れず、俺はそう言って、クローゼットの中から手ごろな衣服を引っ張り出し、それを壁谷に渡した。
「ありがと」
手短に言って着替え始める壁谷は、もう元の雰囲気に戻っていた。
しかし俺の脳裏には、いつまでも、あの空虚な顔が焼き付いている──。




