「陽の当たらない場所」3
「どうだね、成果は?」
次の日。開口一番に、ベゴニアはそう訊いた。
「ダメね。既存のどの魔術理論にも対応していない──むしろ、最初から何も存在していない、という方がまだ現実的だわ」
一度閉口してから彼女は息を吐き、再び口を開いた。
「……ここまできてこんなことを訊くのも何だけれど、あなた、本当に体に異常があるの?」
「トリックか何かだと言いたいのか? 残念ながら違う。第一、吸血鬼の血液が体外に放出されたのは、昨日の浄化魔術の一件で確認済みだろう」
「それもそうね」
「……仄宮楓」
ふと名前を呼ばれたので、彼女は仲間の研究者の方に向けていた視線を彼に戻した。
「あなたはどうして、おれに固執する?」
「今更ね。てっきり察しがついてるかと思っていたけど」
「ああ、察しはな。だが、食い違いがあるやもしれん。あなたの口から聞きたいんだ、おれは」
楓は深く空気の椅子に座り込んだ。そして一瞬瞑目し、頬杖をついてからまた元の姿勢に戻り、そこでようやく口を開いた。
「ビジネスのためよ。多分、一から百まであなたの予想どおりに」
「本当にそうか?」
「ええ。吸血鬼の死についての情報。その検体の血液。その二つだけでも、どれだけの利益が出るか──。それを自分の組織だけで独占できることが、どれだけのことか──」
その言葉に息を吐いたのはベゴニアの方だった。
「不満かしら?」
「いや、そんなものはない。むしろ──そう感じているのは、あなたの方じゃないのか?」
「──は?」
思わず、楓の口からは間抜けな声がもれた。
彼女は取り繕うように咳払いをすると、すぐに姿勢を正し、口を開いた。
「不満? 私が? 悪い冗談だわ」
「……そうか、ならいいが」
しばし、その場には沈黙が下りた。
それはこれまでの沈黙とは打って変わって、張り詰めた雰囲気の中に成立しているものだった。これまではただの環境音にすぎなかったキーボードの音や機械の作動音が、今では神経をかき乱す雑音に変貌してしまっていた。
「──あなたになら、話してもいいかもね」
打って変わって、その口調は穏やかだった。嵐の前の静けさ、という次元でさえない。完全に凪いでいる。それはどこか悟っているような声でもあった。
「仄宮家の当主になる条件って、何だと思う?」
「頭の良さとかか?」
「それもあるけど……一番は実力。戦闘力、交渉力、魔術操作、魔力の根源たる精霊種との信頼構築──その他諸々の、魔術師に必要な全ての能力が、五百年かけて培われてきた仄宮家の要求値を超えていることが、当主になるための条件」
「血は」
「ほとんど関係ないわ」
あっさりと切り捨て、彼女は再び口を開く。
「私の肉体には、久宝魔術が宿っている。守銭奴の強盗魔術だとか言う連中もいるけど、私はこの魔術を誇りに思ってる。なのに……!」
「……なのに」
「当主になったのは、葛葉だった」
「葛葉?」
「二つ上の姉よ。あいつに久宝魔術は宿らなかった。戦闘力も交渉力も、すべてがぎりぎり要求値を満たしている、凡庸でちんけな女よ。──ただ一つを除いては」
楓は目を細めた。
「精霊種との強い交信能力。あいつは精霊種から愛されていた。──世界から、愛されていた。
イギリス本土にも、あれだけの使い手はいないって評判よ。長い仄宮の伝統を破壊できるだけの、超然たる才能──それがあいつにはあった。そして、私にはない」
言い終わった時、彼女は強い怒りを感じていた。
心の奥底に押さえ込んでいたものが、噴出したのだ。無理もないことである。
「でもあなたの情報さえ取れれば、その差を埋められる。実績さえあれば、あいつを抑えるのは造作もない」
「……良くわかったよ」
「わかってくれたようね」
「ああ。あなたが、無理をしているということが」
楓はぴくりと眉を動かした。
「何ですって?」
その顔には、先刻同様怒りが浮かんでいる。
「どういう意味よ、それ?」
「言葉通りの意味だ。あなたは無理をしているんじゃないのか? 妙なことに縛られて、自分の可能性を潰してしまっているんじゃないのか?」
「はっ。随分下らないことを言うのね。それじゃあんたは、伝統なんかどうでもいいっていうの? 私の、この気持ちは──」
「……そこだよ、問題は。その感情は、本当に君自身のものなのか。おれにはいささか──」
言い終わるよりも早く、楓は拳を叩きつけていた。自分の座っている、その椅子に。
彼女は、顔を伏せてしばし俯いていた。その体は小刻みに震えている。
やがて彼女は顔を上げた。その顔に、もう怒りはなかった。ただ一つ、氷河のように冷やかな表情だけが、そこにはある。
「どうやら、対話は無意味だったようね。あなたに私の気持ちは分からなかったし、私にも、あなたの気持ちを理解することはできなかった。
これ以上ここに居座るのは、この結社の頭として相応しくないわ。あまりにも、非効率だもの──」
言い切ってから、彼女は魔術を解き、自分の分の椅子を霧散させると、その場から立ち去った。
「ち、ちょっと、解析はどうするんですか!?」
研究員の問いかけにも、
「いつも通り定時報告だけくれればいいわ。私にはやることがあるから。それじゃ」
と、淡々と答える。
そうして、彼女はレーンの魔術僻地内から去った。
後には研究員と、ベゴニアだけが残る。
「すまないな、吸血鬼君。社長、気難しいところがあるんだ。でも悪い人じゃあないよ。本当に……」
「…………」
ベゴニアは黙っている。
その顔には、どこか諦めたような表情が浮かんでいた。
ふと、彼は口元を押さえる。それと前後するようにして、彼は咳をした。今度のものはいつもよりも長かった。
ベゴニアは息をつく。
そして、ドーム状の空間の、その天井を見上げる。その目には、明確な死の影があった。
「なんなのよ、あいつは──」
使い魔に運転させているレクサスの後部座席で、楓は毒づいていた。
頬杖をつき、いらいらと手元の本のページをめくっていく。それは魔界から取り寄せが可能な魔術の一覧にして記してある、稀有な魔術書だった。
やることがある、と言って飛び出したのは、半分ほど事実だ。研究が主体の魔術結社においては、その頭目が他の結社との関係の調整や影響範囲の拡大などをしなければならない。やることは山積みといえた。現在レーテが所有しているラボはベゴニアを収容しているビルのみだ。他の結社との関係は良好であり、仄宮家というネームバリューもあるので、影響範囲だけは広いが、それだけだ。やっていることは久宝魔術で取り寄せた魔界の魔術の解析と販売。つまり転売である。あまりに凡俗で、あまりに下卑で、あまりに貧相だった。
だがそれらの作業をする気は、今の彼女にはなかった。
彼女はそのまま帰宅し、そのまま眠ることになる。自分の身に──もっと正確に言えば、自分の身内に降りかかる運命も知らずに。




