緋色の夢
黄昏時。終末を思わせる緋の空の下を、その男は歩いていた。
静謐に満たされた町。墓標のようなビル群を、縫うように進む。その顔には徹底した無表情が張り付いており、二つの眼だけが炯炯と光っていた。
音もない、何もない町。
オフィス街だろうか? 果てしなく続く摩天楼は、黄昏時の空を反射して淡く赤く輝いている。その内部に、恐らく人は居ないのだろう。
男は歩く。
歩く。
歩き続けて、ふと、足を止める。
彼は行く手に、何やら平べったい物体が落ちているのを認めていた。彼は視線を下に向け、それを見る。
「それ」はトレーディングカードのようだった。淡い色彩をした、幻想的なドラゴンのイラストが書かれている。
彼はそれを手に取り、裏返した。そこに絵はない。レリーフのようなものが記されているのみだ。だが、それに彼は見覚えがあった。それは学生時代に、彼が嗜んでいたカードゲームのカードだった。
──数年前に、サービスが終了した、カードゲームの。
その瞬間、彼は悟った。それは唐突な、雷鳴のごとき閃きだった。
「これは夢なのだ」という、閃きである。
ひどく珍妙な夢に巻き込まれたものである。彼は一つ、大きく息を吐いてから、そのカードをポケットにしまい、また歩き始めた。
彼の意識は急速に鮮明になっていた。それは自我の芽生えのような、成長のような唐突さだったが、夢なので何でもありである。
鮮明な意識の中で彼が行うのは、先ほどまでの目的のない、ゾンビのような歩行ではない。もっと目的のある動きだ。彼はこの摩天楼から外に出ようとしていたのだった。
日は落ちない。永遠に、あの緋色の光を放ったまま、所定の位置で静止している。
彼は少しでも早く足を動かそうとした。しかしこれは夢なので、走ることはできないのだった。
よくよく見ると、道ばたには色々なものが落ちている。とっくに対応ソフトの販売が終わってしまったゲーム機に、作りかけで放り出してしまったプラモデル。買うだけ買って読まないままに、どこかへ行ってしまった文庫本。破り捨てた参考書。あらゆるものが、ここにはある。
記憶の墓場。ふと、彼の脳裏にはそのような言葉が浮かんだ。
そこはかつてないほどに夢らしさを体現した土地だった。無意識の反映。終わらない、循環する追憶。
彼は出口を求めて歩き続ける。
しかし、体感時間で30分が経過しても、それを見つけることはできなかった。
やがて陽は落ち、夜がやってきた。
この変化はわずかながらに彼の孤独を拭ったが、しかし、根本的な解決をもたらしてはくれなかった。
彼は歩き続ける。
もはや前も、足下も見えなくなってしまった、その町を。
──と、ふと。彼は人の声を聞いたような気がした。
最初、それは羽音のような小ささでしかなかった。だがそれは、段々と大きくなり、段々と鮮明になり、やがて──
「何故、出口など探そうとする?」
と言っていることが分かった。
男は答えない。あの無表情のまま、歩き続ける。
「このまま、ここに居ればいいのではないのか?」
男は答えない。
「外側には何もない。ただただ、漠然と、断絶と罅の広がる、無際限の世界が続いているだけだ。こことは違う。ここには何もかもがある」
男は答えない。
「それを願ったから、お前はここに来たんだろう? だからこうして、ここに居るんだろう? 何を躊躇う? 何を迷う?」
ここで、ようやく男は口を開いた。
「あんたが誰なのか、俺はもう知っている」
「ほう?」
「あんたは俺だ。これは夢だ。夢の中には俺だけしかない」
「だからどうした?」
「俺はここから帰らなきゃならないんだ」
「帰ってどうする。帰ってどうなる。お前の居場所は外にはないぞ」
「ここにも、ないだろう。ここには残骸しかない。墓場だ。墓場で生きるためには亡者になるしかない。だが俺はまだ、生きているんだ」
「そんな仮初めの生に価値があるのか?」
「……欺瞞くさいな。価値がなけりゃ生きてちゃいけない、ってのは、ストイシズムの強制だ。俺がそれを最も嫌っていることは、あんたが一番良く分かっているだろう」
「……善意の強制、か。だがこれは善意じゃない。二者択一だ。栄光ある未来か、安寧たる過去か、二つに一つだ。決断をしろ」
「そこだよ。どうしてそう、決断を急がせようとするんだ。現実には重要な決断なんて一つもないんだ。ただ無限に、無数の選択肢が連なっているだけなんだ。すべては等価値で、その中で俺たちは戦わなきゃならないんだ。そこで決断がどうの、なんて選択を神聖視しているようじゃ、お話にならん」
「……言い訳じゃないのか、それは」
「さあ、どうかな。少なくとも、俺は生きていくつもりだ」
その瞬間、彼の立っている地面が崩れた。
地面だけではない。ビル群もやはり、爆破されたかのように崩れていく。
世界が滅んでいく。
そうして、彼は目を覚ました。
「生きていくつもり、ね」
夢の中で口にした言葉を繰り返すと、彼は自嘲した。
窓の外では、朝の光が、さながら王のように、人々を急かしているところだった。
プロットを一切立てずに書いたらどうなるか、という実験の対象作品です。
・・・・・・はい、言い訳です。本当にすみません。




