第59話 最初から、デートのつもりで
その日の休み時間。
一年B組。
みおは次の授業の教科書を机へ出しながら、友人と話していた。
「それで先生が――」
そのとき。
教室の入口から、聞き慣れた声がした。
「佐倉」
反射的に顔を上げる。
「あ」
一ノ瀬凌。
最近では、凌が一年B組へ来ても以前ほど教室がざわつかなくなった。
二人がよく話していることは、もう周囲にも知られている。
それでも。
何人かの女子が、ちらちらとこちらを見ていた。
「一ノ瀬先輩」
みおが席を立つ。
「どうしたんですか?」
「ちょっといい?」
「はい」
二人は教室の入口から少し離れた廊下へ移動した。
◇ ◇ ◇
「次の休み」
凌が言った。
「通院の日だろ?」
「……え?」
みおが少し驚く。
「覚えてたんですか?」
「前に言ってたから」
当たり前のような返事。
けれど。
みおにとっては、それが少し嬉しかった。
自分でも、そこまで意識して話した覚えはない。
それでも。
凌は覚えていた。
「はい」
「午前?」
「たぶん」
「いつも通りなら、昼過ぎには終わる?」
「混んでなければ」
「じゃあ」
凌はほとんど間を置かなかった。
「そのあと、デートしない?」
「……」
みおが完全に止まった。
「え?」
「デート」
「……」
聞き間違いではない。
今までのような、
『一緒に帰る?』
でも。
『昼、一緒に食べない?』
でもない。
はっきり。
デート。
「一ノ瀬先輩」
「うん」
「今……デートって」
「言った」
「……」
みおの頬が、じわじわ熱くなる。
「普通に出かけるとかじゃなくて?」
「それでもいいけど」
凌はまっすぐみおを見る。
「俺はデートのつもりで誘ってる」
「……っ」
曖昧にしなかった。
最近の凌は。
以前より、こういうところがはっきりしている。
「嫌?」
「……」
また。
その聞き方。
でも。
嫌なら断っていいと分かっているからこそ。
みおも、自分の気持ちを考えられる。
凌が続けた。
「この前みたいに、偶然会ってそのまま一緒にいるんじゃなくて」
「……はい」
「今度は最初から」
少しだけ口元を緩める。
「佐倉と出かけたい」
どくん。
心臓が大きく鳴った。
「……」
一瞬。
蓮司の顔が頭をよぎる。
でも。
今、目の前で自分を見ているのは凌だ。
みおは少し迷ってから聞いた。
「……どこ行くんですか?」
凌が笑った。
「まだ決めてない」
「決めてないんですか」
「佐倉が行きたいところ聞こうと思って」
「私が?」
「映画でもいいし、買い物でもいい」
「はい」
「水族館でも」
「……結構ちゃんとデートですね」
「だから最初からそう言ってる」
「……」
みおは少しだけ俯いた。
嫌ではない。
むしろ。
誘われて。
嬉しかった。
「……行きます」
凌の表情がわずかに柔らかくなる。
「ほんと?」
「はい」
「じゃあ決まり」
「……はい」
「病院終わったら連絡して」
「分かりました」
「近くまで迎えに行く」
「え?」
みおが顔を上げる。
「そこまでしなくても大丈夫ですよ」
「俺が行きたい」
「……」
また。
そういう言い方をする。
みおは困りながらも。
結局。
「……分かりました」
と答えた。
「よかった」
凌が少し笑う。
「楽しみにしてる」
「……私も」
言ってから。
みお自身が一番驚いた。
凌も。
ほんの少し目を細める。
「それ、結構嬉しい」
「……」
また頬が熱くなる。
「もう授業始まります!」
「逃げた」
「逃げてません!」
「じゃあ、また」
「はい」
凌が二年棟へ戻っていく。
みおはその背中を見送ったあと。
そっと胸元へ手を当てた。
「……デート」
自分で口にすると。
急に。
現実味が増した。
◇ ◇ ◇
その日の放課後。
校門には。
いつものように蓮司がいた。
「おう」
「お待たせしました」
「別に」
「またそれ」
「何が」
「何でもないです」
二人で並んで歩き始める。
いつもの帰り道。
なのに。
今日は少しだけ変だった。
蓮司は何度か、みおを横目で見る。
言いたいことがあった。
昼休み前。
凌から聞いた。
――もうそろそろ、佐倉に告白しようと思います。
あれから。
ずっと考えていた。
何かしなければ。
でも。
何を。
どうすればいい。
一方。
みおも落ち着かなかった。
次の休み。
凌とデートする。
その事実が、ずっと胸の中にある。
そして。
その隣には蓮司。
「……」
誰とも付き合っていない。
悪いことをしているわけでもない。
分かっている。
なのに。
なぜか少し後ろめたい。
「佐倉」
「はいっ」
蓮司が驚く。
「何だよ」
「何でもないです」
「今めちゃくちゃ驚いただろ」
「考え事してただけです」
「何」
「……秘密です」
「またそれか」
「はい」
「……」
会話が止まる。
少し歩いて。
みおが何とか話題を探した。
「今日、ちょっと寒いですね」
「そうだな」
「……」
終わった。
今度は蓮司。
「弁当」
「はい」
「うまかった」
「ありがとうございます」
「……」
また終わった。
普段なら。
もっと自然に話せるはずなのに。
今日は。
二人とも。
言えないことを一つずつ抱えていた。
◇ ◇ ◇
公園の近くまで来たところで。
蓮司の歩く速度が少し落ちた。
「佐倉」
「はい」
「その……」
「?」
明らかに。
言いづらそうにしている。
「次の休み」
みおの心臓が。
どくん。
と鳴った。
「暇か?」
「……」
蓮司は少しだけ顔を逸らした。
「もし暇なら」
「……はい」
「映画でも」
一度。
言葉を切る。
「見に行かねえ?」
「……!」
みおの目が大きくなる。
蓮司から。
自分を誘った。
映画。
二人で。
「はい――」
ほとんど反射で。
返事が出かけた。
行きたい。
嬉しい。
その気持ちが先に飛び出した。
でも。
次の瞬間。
凌の顔が浮かぶ。
――そのあと、デートしない?
「……」
声が止まった。
蓮司も。
その変化に気づいた。
みおは少しだけ目を伏せる。
「……ごめんなさい」
「……そっか」
蓮司の声が。
ほんの少し沈んだ。
その声を聞いただけで。
みおの胸がきゅっと痛くなる。
「その日」
「うん」
「通院の日で」
「……ああ」
蓮司も。
定期的にみおが通院していることは知っている。
「それなら仕方ねえだろ」
「……」
それだけなら。
何も嘘ではない。
でも。
そのあと。
凌と会う。
そのことを隠したままにするのが。
妙に嫌だった。
「そのあとも」
みおは小さく続けた。
「?」
「……予定があって」
蓮司が少しだけ止まる。
「そうなのか」
「……はい」
誰と。
蓮司は聞かなかった。
だから。
みおも言わなかった。
――一ノ瀬先輩とデートします。
その一言が。
どうしても出てこなかった。
また。
沈黙。
さっきより。
胸の奥が重い。
どうして言えないのだろう。
蓮司に。
凌とデートすることを。
知られたくない?
嫌な顔をされたくない?
それとも。
何か悪いことをしているように感じている?
「……」
分からなかった。
◇ ◇ ◇
すると。
蓮司がもう一度口を開いた。
「じゃあ」
みおが顔を上げる。
「来週は?」
「……え?」
蓮司は少し気まずそうにしながらも。
今度は引かなかった。
「その日が駄目なら」
「……」
「次の休み」
みおの目が少し大きくなる。
「映画」
「……」
「行かねえ?」
一度断られたのに。
もう一度。
誘ってくれた。
土曜日。
女子会で。
自分が言った。
――黒瀬先輩にも、もう少し分かりやすくしてほしい。
その答えみたいだった。
「はい!」
今度は。
迷わなかった。
蓮司が少し驚く。
みおは頬を赤くしながら笑った。
「行きたいです」
「……おう」
蓮司も。
ほんの少しだけ安心したような顔をした。
「何見る?」
「まだ決めてないんですよね?」
「今から決めりゃいいだろ」
「私、恋愛映画でもいいですよ」
「……」
蓮司が露骨に微妙な顔をする。
「何ですか」
「いや」
「恋愛映画嫌い?」
「嫌いじゃねえけど」
「じゃあいいじゃないですか」
「……他のも見ようぜ」
「何で逃げるんですか」
「逃げてねえ」
みおが笑う。
蓮司も。
少しだけ笑った。
ようやく。
いつもの二人に戻った。
でも。
みおの胸の中には。
二つの予定が残っている。
次の休みは。
凌とデート。
その次の休みは。
蓮司と映画。
「……」
自分でも。
本当にどうなっているのか。
分からなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
午後九時半。
「ただいまー」
「おかえり」
さきがリビングへ入る。
そして。
すぐ気づいた。
ソファー。
クッション。
ついたままのテレビ。
その前で。
みおが完全にぼーっとしている。
「……また?」
みおが顔を上げる。
「何が?」
「ぼーっとしてる」
「してないよ」
「してる」
さきは上着を脱ぎながら、みおを見る。
「今度はどっち?」
「……」
沈黙。
さきが少し笑った。
「あ。両方か」
「なんで分かるの!」
「もうパターン分かってきた」
「嫌なパターン……」
さきが隣へ座る。
「で?」
「……」
「何があった?」
「別に」
「黒瀬くん?」
「……」
「一ノ瀬君?」
「……」
「両方」
みおはクッションへ顔を埋めた。
「もうやだ」
さきの眉が少し上がる。
「本当に両方なんだ」
「……うん」
◇ ◇ ◇
少しして。
みおは今日あったことを話し始めた。
まずは。
凌。
「次の休み、通院でしょって」
「覚えてたんだ」
「うん」
「それで?」
みおの頬が少し赤くなる。
「そのあと」
「うん」
「デートしないかって」
「……」
さきが一瞬黙った。
「『デート』って言ったの?」
「言った」
「普通に?」
「普通に」
「一ノ瀬君、強いねぇ」
「私もそう思う……」
「それで?」
「……行くって言った」
さきは普通に頷いた。
「うん」
みおが少し不思議そうに見る。
「怒らないの?」
「何で私が怒るの」
「分かんないけど」
「みおが行きたいなら、それでいいでしょ」
「……うん」
さきは少しだけ笑った。
「行きたい?」
みおは。
少し間を置いて。
正直に答えた。
「行きたい」
「そっか」
それ以上。
さきは何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
「で」
「……」
「その顔だと黒瀬くんも何かあったね」
みおは再びクッションを抱き締める。
「帰り」
「うん」
「映画誘われた」
「……」
今度は。
さきの眉が大きく上がった。
「黒瀬くんから?」
「うん」
「向こうから?」
「うん」
「二人で?」
「……たぶん」
「へえ」
さきが少し感心したような顔をする。
「頑張ったじゃん」
「何が?」
「こっちの話」
「?」
みおは続ける。
「でも、次の休みって言われて」
「あ」
さきも気づいた。
「一ノ瀬君と被った?」
「うん」
「それで?」
「断った」
「黒瀬くんを?」
「……うん」
少し。
みおの声が沈む。
「通院の日だからって」
「それは本当だね」
「うん」
「そのあとの予定は?」
「……」
答えない。
さきも。
すぐに察した。
「言わなかったんだ」
「……言えなかった」
「そっか」
「予定があるってだけ」
みおはしばらく黙ったあと。
自分から続けた。
「なんか」
「うん」
「すごく後ろめたかった」
「黒瀬くんに?」
「……うん」
「一ノ瀬君とデートすることが?」
ゆっくり。
みおが頷く。
「でも、私……悪いことしてないよね?」
「してないよ」
さきはすぐに答えた。
「誰とも付き合ってないんだから」
「うん」
「二人とも、本当に気になってるんでしょ」
「うん」
「なら一ノ瀬君と出かけることが、黒瀬くんへの裏切りになるわけじゃない」
「分かってる」
「でも?」
「……」
みおは小さく呟いた。
「嫌だった」
「何が?」
「黒瀬先輩が」
少し間。
「がっかりした顔したの」
「……」
さきが静かにみおを見る。
「断ったとき?」
「うん。ほんのちょっとだったけど」
「分かったんだ」
「……うん」
みおは胸元へ手を置いた。
「それ見たら、すごく嫌だった」
「そっか」
「それで」
今度は。
みおの表情が少し明るくなる。
「黒瀬先輩、来週はって」
「……」
「もう一回誘ってくれた」
さきが小さく笑った。
「へえ」
「何?」
「いや」
少し前までの蓮司なら。
一度断られた時点で。
そのまま引いたかもしれない。
それでも。
もう一度。
誘った。
「黒瀬くん、ちょっと変わったね」
「そう?」
「うん」
「それで、来週なら行けるから」
みおの表情が自然に柔らかくなる。
「行くって言った」
「嬉しい?」
「……うん」
即答だった。
さきは。
何も言わず。
その答えを受け止めた。
「だから」
みおはまた困った顔になる。
「次の休みは一ノ瀬先輩とデートで」
「うん」
「その次は黒瀬先輩と映画」
「うん」
「……」
「忙しいね」
「笑わないで!」
「笑ってない」
「笑ってる!」
◇ ◇ ◇
少しして。
みおがぼそっと聞いた。
「お姉ちゃん」
「何?」
「私」
「うん」
「二人に期待させてないかな」
さきは少し考えた。
「期待はすると思う」
「……」
「二人ともみおを好きなら、二人で出かけられるのは嬉しいだろうし」
「うん」
「自分にも可能性があるって思うと思う」
「……そうだよね」
「でも」
さきは続ける。
「みおだって、本当に二人のことを知りたいんでしょ?」
「うん」
「だったら今は、それでいいんじゃない?」
「……」
「ただ」
「うん」
「自分の気持ちが決まったときは」
さきは少しだけ真面目な顔になる。
「ちゃんと伝える」
みおも。
ゆっくり頷いた。
「……うん」
「それでいいと思う」
少しだけ。
胸が軽くなった。
みおは時計を見る。
「お風呂入ってくる」
「いってらっしゃい」
クッションを置き。
リビングを出ていった。
◇ ◇ ◇
浴室からシャワーの音が聞こえる。
一人になったさきは。
スマートフォンを手に取った。
女子会のあとにできた。
さき、真琴、結衣の三人だけのグループに。
新しいメッセージが届いていた。
送り主は真琴。
『今日、学校で黒瀬と一ノ瀬が会いました』
さきの表情が少し変わる。
『何かあった?』
少しして。
真琴から返事。
『前に二人が揉めたとき、黒瀬が一ノ瀬に失礼なことを言ったらしくて』
『今日、黒瀬のほうから謝りました』
「へえ……」
思わず声が出た。
結衣からも。
『黒瀬先輩からですか?』
真琴。
『うん』
『私もちょっと驚いた』
そこまでは。
さきも少し感心しながら読んでいた。
けれど。
続くメッセージで。
指が止まる。
『そのあと、一ノ瀬が黒瀬に言った』
『「俺、もうそろそろ佐倉に告白しようと思います」って』
「……」
さきは画面を見つめた。
結衣から。
『えっ』
『本当に?』
真琴。
『本人が言ってた』
さきは。
さっきまで隣にいたみおを思い出す。
――次の休み、一ノ瀬先輩とデート。
そのことは。
ここでは言わない。
みおが自分に話してくれたことだから。
ただ。
さきの中では。
二つの情報が繋がった。
「……まさか」
次の休み。
凌は。
そこで告白するつもりなのだろうか。
もちろん。
まだ分からない。
『もうそろそろ』と言っただけだ。
それでも。
可能性は十分にある。
さきは少し考えてから。
『みおには言わないほうがいいよね』
とだけ送った。
真琴。
『言わないほうがいいです』
『一ノ瀬がいつ言うのかまでは分からないので』
結衣も。
『知らないほうが、みおちゃんも自然に向き合えると思います』
『だね』
さきは短く返した。
それ以上。
みおから聞いたことは書かなかった。
◇ ◇ ◇
少しして。
真琴から、もう一つメッセージが来た。
『ただ、今日の黒瀬は少し変わりました』
さき。
『どういう意味?』
『一ノ瀬の宣言聞いて、かなり焦ってた』
『今までなら逃げてたと思うけど』
『今日は「考える」って言ってた』
さきは。
少しだけ笑った。
なるほど。
だから。
今日。
蓮司はみおを映画へ誘ったのかもしれない。
もちろん。
直接聞いたわけではない。
ただ。
タイミングを考えれば。
そう考えるのが自然だった。
結衣からも。
『二人とも動き始めたんですね』
真琴。
『そうみたい』
さきは画面を見ながら。
小さく息を吐いた。
一ノ瀬凌。
黒瀬蓮司。
そして。
その真ん中で。
まだ答えを出せずにいる妹。
「……高校生、大変だねぇ」
誰もいないリビングで。
小さく呟いた。
◇ ◇ ◇
一方。
浴室。
みおは肩まで湯船に浸かっていた。
「……」
天井を見る。
次の休み。
凌とデート。
その次の休み。
蓮司と映画。
「……」
顔が。
少しずつ熱くなる。
お湯のせいだけではない。
凌がどんな服で来るのか。
どこへ行くのか。
何を話すのか。
楽しみだった。
そして。
蓮司と二人で映画へ行くことも。
ものすごく楽しみだった。
「……私」
両手で顔を覆う。
「どうしたらいいんだろ……」
まだ。
答えは出ていない。
ただ。
次の休日が。
みおにとって。
今までとは少し違う一日になることだけは。
確かだった。
そして。
みおはまだ知らない。
一ノ瀬凌が。
もう。
『好きになってきてる』ではなく。
はっきり。
自分の気持ちを伝える覚悟を決めていることを。




