第60話 好きだと、分かった
休日。
午前中。
みおはいつもの通院を終え、会計を済ませた。
受け取ったものをバッグへしまい、自動ドアの向こうを見る。
よく晴れた空。
そして今日は。
このあと。
一ノ瀬凌とデートする。
「……」
その言葉を意識するたび。
朝から何度も落ち着かなくなった。
服だって、いつもより時間をかけて選んだ。
淡い色のトップス。
膝下丈のスカート。
薄手のカーディガン。
髪もいつもより少しだけ丁寧に整えている。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく呟いて。
病院を出た。
自動ドアが開く。
その瞬間。
「佐倉」
「……!」
すぐに声がした。
建物から少し離れた場所。
凌が立っていた。
黒の細身のパンツに、シンプルなシャツ。
その上に軽いジャケット。
制服とは違う。
少し大人っぽい雰囲気。
背が高いから、休日の人混みの中でもすぐに分かった。
「一ノ瀬先輩」
「お疲れ」
みおが近づく。
「待ってたんですか?」
「うん」
「終わったら連絡するって言ったのに」
「早く着いた」
「どれくらい?」
「二十分くらい」
「早すぎません?」
凌が少し笑う。
「楽しみだったから」
「……」
開始。
十秒。
もう頬が熱い。
「そういうの」
「何?」
「今日も普通に言うんですね」
「今日はデートだから」
「……」
さらに熱くなる。
凌はそんなみおを見て、柔らかく笑った。
「体調は?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「今日は平気」
「ならよかった」
それから少しだけ真面目な顔になる。
「しんどくなったらすぐ言って」
「はい」
「無理して付き合わなくていいから」
「分かってます」
「うん」
そして。
凌が手を差し出した。
「?」
「バッグ」
「あ」
「持つ」
「軽いですよ」
「知ってる」
「……」
もう何度か聞いた言葉。
みおは少しだけ笑って。
素直にバッグを渡した。
「お願いします」
「うん」
凌は自然に受け取る。
「行こうか」
「はい」
こうして。
二人の初めての。
最初から“デート”として約束した一日が始まった。
◇ ◇ ◇
最初に向かったのは、電車で数駅ほど離れた大きな商業施設だった。
「お腹空いてる?」
「少し」
「何食べたい?」
「一ノ瀬先輩は?」
「佐倉が食べたいもの」
「それ一番困るやつです」
「じゃあ……」
凌がフロア案内を見る。
「パスタ?」
「好きです」
「決まり」
「早い」
「嫌?」
「嫌じゃないです」
「じゃあ行こう」
みおが少し笑う。
「その聞き方便利ですよね」
「便利」
「自覚あるんだ」
「ある」
二人で笑いながら。
レストラン街へ向かった。
◇ ◇ ◇
昼食は窓際の席。
みおはトマトクリームパスタ。
凌はペペロンチーノ。
「どう?」
「おいしいです」
「よかった」
みおが凌の皿を見る。
「一ノ瀬先輩のもおいしそう」
「食べる?」
「いいんですか?」
凌は何でもないことのように、自分の皿を少しみお側へ寄せた。
「どうぞ」
「……」
いざとなると少しだけ躊躇する。
「どうした?」
「何でもないです」
一口だけもらう。
「……おいしい」
「じゃあ俺もそっち食べたい」
「交換ですか?」
「うん」
「どうぞ」
今度はみおが皿を寄せる。
ほんの小さなこと。
でも。
そうやって話しているうちに、最初の緊張は少しずつ消えていった。
◇ ◇ ◇
昼食のあとは。
雑貨店。
服屋。
本屋。
ゲームセンター。
細かな予定は決めていなかった。
だからこそ。
気になった店へ入って。
気になったものを見て。
疲れたら少し休む。
そんな気楽な時間になった。
雑貨店で。
凌が小さなヘアアクセサリーを手に取る。
「これ」
「?」
「佐倉に似合いそう」
「またそういうの」
「何?」
「さらっと言いますよね」
「似合いそうだから」
「……」
凌が店内の鏡を見る。
「合わせてみる?」
「え?」
「見るだけ」
みおは少し迷ってから。
髪へ軽く当てた。
「どうです?」
凌が横から見る。
少しして。
「可愛い」
「……」
鏡の中で。
みおの視線が逃げる。
「可愛いって言われるの苦手?」
「苦手じゃないです」
「じゃあもっと言おうかな」
「それは困ります!」
凌が笑った。
みおも。
つられて笑った。
◇ ◇ ◇
ゲームセンターでは。
小さな猫のぬいぐるみを前に。
みおが三度目の挑戦に失敗していた。
「……無理です」
「貸して」
「絶対取れないですよ」
凌が百円を入れる。
「一回で取ったら嫌です」
「なんで」
「私が下手みたいになるから」
「三回失敗してるけど」
「言わないで!」
凌が笑いながらレバーを動かす。
一回目。
失敗。
「ほら!」
なぜかみおが嬉しそうになる。
「何で喜ぶの」
「仲間」
「そういう仲間いらない」
二回目。
少し動いた。
そして三回目。
ぬいぐるみが。
ころん。
取り出し口へ落ちた。
「……」
みおが見る。
「取れた」
凌も見る。
「取れた」
「私三回やって駄目だったのに」
「はい」
凌は取り出したぬいぐるみを、そのままみおへ差し出した。
「え?」
「佐倉が欲しかったんだろ」
「いいんですか?」
「俺が持って帰ってどうするの」
「飾ればいいじゃないですか」
「佐倉の部屋にあるほうが似合う」
「またそういうこと言う」
けれど。
嬉しい。
みおは小さな猫を受け取った。
「……ありがとうございます」
大事そうにバッグへしまう。
凌は。
その姿を見て。
ほんの少し目を細めた。
◇ ◇ ◇
午後。
カフェで休憩する。
「疲れた?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に」
凌はそれでも、みおの顔を少し注意深く見ていた。
「じゃあもう少しだけ」
「はい」
「疲れたら帰ろう」
「……」
みおは飲み物へ口をつけながら。
凌を見る。
今日。
何度も休憩を挟んでいる。
人混みでは歩く速度を少し落として。
座れる場所があれば、さりげなく休む。
「一ノ瀬先輩」
「何?」
「今日、かなり気を使ってます?」
凌は少し考えた。
「使ってる」
「やっぱり」
「でも」
「?」
「佐倉だから」
「……」
「嫌な気の使い方じゃないよ」
みおは少し黙った。
凌が聞く。
「楽しい?」
「……はい」
これは。
迷わなかった。
「すごく楽しいです」
凌が嬉しそうに笑う。
「俺も」
「……」
その顔を見て。
みおも笑った。
◇ ◇ ◇
本当に。
楽しかった。
凌は話しやすい。
沈黙になっても気まずくない。
歩く速さも自然に合わせてくれる。
何かを選ぶときも、自分の好みを押しつけない。
けれど。
「こっち似合いそう」
と。
ちゃんと意見は言ってくれる。
人混みでは自然に自分を内側へ入れてくれる。
疲れていないかも気にしてくれる。
そして何より。
凌自身が。
みおと過ごす時間を楽しんでいるのが分かった。
だから。
みおも嬉しかった。
デートだからと無理をしているわけではない。
一ノ瀬凌という人と一緒にいることが。
純粋に楽しかった。
「……」
今日ここへ来てよかった。
そう思えた。
◇ ◇ ◇
夕方。
「最後に」
駅へ向かう途中。
凌が言った。
「少し歩いていい?」
「はい」
電車を降り。
少し歩いて。
辿り着いた場所。
そこには。
海が広がっていた。
「……わ」
みおの目が大きくなる。
街から少し離れた静かな浜辺。
ちょうど。
日が沈み始める時間だった。
海面がオレンジ色に染まり。
遠くには水平線。
波の音だけが、ゆっくり聞こえてくる。
「綺麗……」
みおが思わず呟く。
「うん」
隣から返事。
けれど。
「……?」
みおが凌を見る。
凌が見ていたのは。
海ではなかった。
「一ノ瀬先輩?」
「……」
その顔を見て。
みおは初めて気づいた。
凌が。
緊張している。
いつも落ち着いていて。
言いたいことはきちんと言う。
そんな凌が。
今は少しだけ。
言葉を探していた。
二人で浜辺を歩く。
波の音。
夕日。
人影も少ない。
やがて。
凌が足を止めた。
「佐倉」
みおも止まる。
「はい」
凌がこちらを見る。
さっきまでとは違う目。
みおの心臓が。
少し速くなる。
「今日」
「はい」
「楽しかった?」
「……はい」
迷わず答えた。
「すごく」
「俺も」
凌は小さく笑った。
「すごく楽しかった」
「……」
そして。
一度だけ。
ゆっくり息を吸う。
「だから」
逃げずに。
まっすぐみおを見る。
「佐倉」
「はい」
「俺」
一拍。
「佐倉のことが好きだ」
「……」
波の音だけが。
聞こえた。
みおの表情が止まる。
もう。
『好きになってきてる』
ではない。
はっきり。
好きだ。
凌が言った。
◇ ◇ ◇
何も答えられないみおへ。
凌が一歩だけ近づく。
そして。
ゆっくりと腕を伸ばした。
嫌なら。
すぐに離れられるくらい。
そっと。
みおの身体を自分のほうへ抱き寄せる。
「……!」
近い。
凌の腕。
胸元。
体温。
全部が。
今までで一番近い。
「俺と」
すぐ近くから声がする。
「付き合わないか」
「……」
みおは。
動けなかった。
長い。
沈黙。
凌は急かさない。
ただ。
答えを待っている。
その間。
みおの頭の中では。
今日一日のことが駆け巡っていた。
楽しかった。
本当に楽しかった。
優しかった。
格好よかった。
大切にしてくれた。
何度も嬉しかった。
何度も。
ドキドキした。
だから。
自分は凌のことも好きなのかもしれない。
ずっと。
そう思っていた。
「……」
でも。
今。
はっきり。
――付き合わないか。
そう言われた瞬間。
胸の奥から。
一人の顔が浮かんだ。
「……一ノ瀬先輩」
「うん」
みおの声が震える。
「これ」
少し間を置く。
「冗談じゃ……ないんですよね」
凌の腕が。
ほんの少し緩んだ。
以前。
壁際で。
『本当に付き合ってみる?』
そう言われたとき。
最後には。
冗談だと言われた。
でも。
今日は違う。
凌は静かに答えた。
「ああ」
「……」
「冗談じゃない」
その瞬間。
みおの中で。
何かが。
すとんと落ちた。
◇ ◇ ◇
以前。
結衣が。
真琴とのことを話したとき。
言っていた。
告白されて。
初めて。
自分もその人が好きだったのだと気づいた。
「……」
今。
みおにも。
同じことが起きていた。
ただ。
告白してくれた相手ではなかった。
凌に。
本気で好きだと言われて。
付き合ってほしいと言われて。
その瞬間に。
自分の心が。
どこへ向かったのか。
分かってしまった。
「……っ」
視界が滲む。
「佐倉?」
一粒。
涙が落ちる。
そして。
もう一粒。
止まらない。
「……ごめ」
「佐倉?」
「ごめんなさい……」
凌の表情が静かになる。
みおは震えながら。
どうにか言葉を出そうとした。
「私……」
声がうまく出ない。
「私……好きな人が……」
そこで。
言葉が切れる。
凌はほんの少し目を伏せた。
そして。
静かに。
その名前を口にした。
「黒瀬先輩」
「……っ」
それだけで。
涙がさらに溢れた。
「ごめんなさい……」
「……」
「本当に……ごめんなさい……!」
◇ ◇ ◇
分かった。
今。
ようやく。
全部分かった。
自分は。
黒瀬蓮司が好きだ。
『好きかもしれない』
ではない。
好きだった。
いつからなのか。
はっきり一日を決められるわけではない。
初めて会った日。
転校したばかりで不安だった自分を。
怖そうな顔をしながら。
ちゃんと助けてくれた。
そこから。
少しずつ。
積み重なった。
朝の公園。
通学路。
帰り道。
弁当。
卵焼き。
雨の日。
何気ない会話。
自分の家でご飯を食べる姿。
蓮司の家で笑っていた顔。
眠そうな声。
少しだけ素直になる瞬間。
――また誘ってください。
――来週は?
一つ一つは。
どれも。
大きな出来事ではなかった。
だから。
気づかなかった。
あまりにも日常になりすぎて。
ずっと。
自分のそばにある気持ちになりすぎて。
恋だと。
はっきり名前をつけられなかった。
凌みたいに。
言葉で。
距離で。
こちらを意識させてくれる恋とは違った。
蓮司への気持ちは。
もっと静かに。
気づかないうちに。
深いところまで入っていた。
「……」
そして。
それに気づいたきっかけが。
凌だった。
だからこそ。
余計に苦しい。
◇ ◇ ◇
「ごめんなさい……」
みおは泣きながら首を振る。
「私、一ノ瀬先輩のことも……好きなのかもしれないって思ってて」
「うん」
「一緒にいると楽しくて」
「うん」
「近づいてきてくれるのも嬉しくて」
「うん」
「今日だって……」
涙を拭う。
「本当に楽しかったんです」
凌は黙って聞いている。
「だから……」
声が震える。
「私も、もっと知りたいって思って……」
「うん」
「それなのに……」
「佐倉」
凌が静かに名前を呼んだ。
「でも……」
「佐倉」
もう一度。
今度は少しだけ強く。
みおが顔を上げる。
凌は。
驚くほど穏やかな顔をしていた。
「分かってたよ」
「……え?」
「佐倉が」
少し笑う。
「黒瀬先輩のこと好きなの」
「……」
みおの目が大きくなる。
「……いつから?」
「結構前」
「……」
凌は海を見る。
「あのとき」
「?」
「俺が『付き合ってみる?』って言った日」
みおの胸が跳ねる。
「あの日」
凌は覚えている。
自分がそう言った瞬間。
みおの表情が変わった。
ほんの一瞬。
自分ではない誰かを見た。
「佐倉」
「……」
「俺に付き合ってみるって言われて」
凌が少し笑う。
「最初に黒瀬先輩のこと考えただろ」
「……」
何も言えなかった。
当たっている。
「……何で」
「顔」
「……」
「分かりやすいから」
少し冗談めかす。
けれど。
声は優しい。
「だから、知ってた」
「……」
「佐倉が黒瀬先輩のこと好きなの」
「……」
「それでも」
少し間。
「俺が佐倉を好きになった」
「……っ」
また。
涙が溢れた。
◇ ◇ ◇
「だから」
凌が言う。
「そんなに謝らなくていい」
「でも……」
「俺が好きになって」
「……」
「俺が近づいた」
「……」
「今日だって俺から誘った」
「でも私も!」
思わず。
みおが声を上げる。
「私も楽しかったんです」
「うん」
「デートだって行きたいって思った」
「知ってる」
「だったら……」
「それでいい」
「……」
凌は。
少しだけ寂しそうに。
でも。
優しく笑った。
「俺といた時間まで嘘になるわけじゃないだろ?」
みおは激しく首を振る。
「違います……!」
「うん」
「本当に楽しかった……!」
「なら」
凌は穏やかに言った。
「それでいい」
「……」
「佐倉は俺を騙したわけじゃない」
「でも……」
「自分の気持ちが分からなかっただけだろ」
「……はい」
「俺も、それ知ってた」
みおは。
また涙を拭う。
「……ごめんなさい」
「まだ言う?」
「だって……」
「じゃあ」
凌は少し困ったように笑った。
「一回だけ受け取る」
「……」
「その『ごめんなさい』」
みおが凌を見る。
「これで最後」
「……」
それでも。
もう一度だけ。
みおは頭を下げた。
「本当に……ごめんなさい」
凌は少しだけ黙って。
「うん」
と答えた。
「分かった」
それで。
みおの謝罪を受け取った。
◇ ◇ ◇
夕日が。
少しずつ水平線へ沈んでいく。
オレンジだった空が。
青と紫へ変わり始める。
みおの涙も。
ようやく少しずつ落ち着いてきた。
凌は。
そんなみおを静かに見ていた。
そして。
「佐倉」
「……はい」
「これで」
少しだけ息を吐く。
「俺も、ちゃんと前向けるから」
「……」
本当に。
すぐ前を向けるわけではない。
きっと。
そんなに簡単ではない。
好きだと伝えたばかりなのだから。
それでも。
凌はみおを安心させるように笑う。
「だから、そんな顔しないで」
「……無理です」
「そっか」
みおも。
泣きながら。
少しだけ笑った。
「一ノ瀬先輩」
「うん」
「優しすぎます……」
「今だけ」
「……」
「今日くらい格好つけさせて」
「……そういうこと言わないでください」
「何て言えばいい?」
「分かりません……」
「俺も分からない」
二人で。
少しだけ笑った。
それが。
また少しだけ。
みおを泣かせた。
◇ ◇ ◇
凌は。
少し迷ってから。
もう一度だけ。
ゆっくり腕を伸ばした。
強引には触れない。
みおが嫌なら。
すぐに離れられる距離で止まる。
「佐倉」
「……はい」
「もう少しだけ」
「……」
「泣き止むまで」
凌の声が少しだけ掠れた。
「このままでいさせてくれないか」
みおは。
何も言えなかった。
ただ。
小さく頷く。
「……はい」
凌が。
もう一度。
そっとみおを抱き寄せた。
「……」
みおも。
今度は逃げなかった。
凌の胸元で。
声を殺して泣いた。
これは。
恋人同士の抱擁ではない。
告白が叶ったから抱きしめているわけでもない。
だからといって。
今すぐ。
何もなかった友達へ戻るためのものでもない。
ただ。
凌が。
好きになったみおを。
あと少しだけ。
抱きしめていた。
そして。
その腕の中で。
みおはようやく。
自分の恋に。
はっきりと名前をつけた。
「……黒瀬先輩が」
涙の混じった声。
凌は何も言わない。
みおは。
初めて。
逃げずに口にした。
「……好き」
『好きかもしれない』
ではない。
「私」
声が震える。
「黒瀬先輩が好き……」
凌は。
ほんの一瞬。
目を閉じた。
痛くないわけがない。
はっきり。
胸は痛んだ。
それでも。
みおが。
ようやく自分自身で答えへ辿り着いたのなら。
凌は。
静かに答えた。
「うん」
少しだけ。
腕に力が入る。
「知ってる」
「……」
その言葉で。
みおはまた泣いた。
夕日が沈みきるまで。
あと少しだけ。
二人は。
そのままでいた。




