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第58話 ちゃんと動いてくださいね

翌日。


昼休み前。


三年棟へ続く廊下を、蓮司、真琴、陽翔の三人が歩いていた。


「でさ!」


今日も陽翔の声は大きい。


「昨日、英単語五十個覚えた!」


真琴が即座に返す。


「今日には三十個忘れてそう」


「忘れてねえ!」


「じゃあ後でテストする」


「……」


「何」


「二十個くらいにしない?」


「もう弱気」


隣で蓮司が小さく笑った。


「五十覚えたんじゃねえのかよ」


「覚えた! 昨日は!」


「昨日限定かよ」


「記憶には賞味期限がある!」


「ねえよ」


いつもの。


くだらない会話。


三人で廊下の角を曲がる。


その瞬間。


空気が変わった。


◇ ◇ ◇


前から。


一人の男子生徒が歩いてくる。


長身。


整った姿勢。


黒に近い髪。


二年生。


一ノ瀬凌。


「……」


蓮司が気づく。


ほぼ同時に。


凌も蓮司に気づいた。


けれど。


どちらも何も言わない。


そのまま歩く。


真琴の視線が、蓮司から凌へ動いた。


陽翔も。


さっきまでの勢いが嘘のように黙る。


何だ。


この空気。


喧嘩を売るときとも違う。


けれど。


明らかに張り詰めている。


距離が縮まる。


十メートル。


五メートル。


三メートル。


そして。


すれ違う。


その瞬間だった。


「……一ノ瀬」


蓮司が口を開いた。


凌の足が止まった。


真琴と陽翔も。


数歩先で足を止める。


凌が少しだけ振り返る。


蓮司も。


振り返っていた。


数秒。


蓮司が言った。


「この間は……すまなかった」


「……」


真琴と陽翔が固まった。


黒瀬蓮司が。


自分から謝った。


陽翔が、


「え、蓮司が――」


と言いかけた瞬間。


真琴が無言で脇腹をつついた。


「……っ」


今は黙っていろ。


そういうことらしい。


◇ ◇ ◇


凌は少しだけ目を細めた。


「何のことですか?」


「……」


蓮司が一瞬だけ言葉に詰まる。


それでも。


逃げなかった。


「あのとき」


少し視線を逸らす。


「お前に言ったこと」


凌の表情がわずかに変わる。


あの日。


感情的になった蓮司は。


凌の挑発に乗せられた末。


出生時に女性として扱われていたことを理由に、殴れないという趣旨の言葉を口にしてしまった。


凌は。


その言葉を聞いて。


蓮司に問うた。


自分を女として見るのか、と。


「……お前が男だってことは」


蓮司が言う。


「分かってる」


凌は何も言わない。


「でも、あのときは頭に血上ってて」


蓮司は拳を軽く握った。


「咄嗟にあんな言い方した」


一度。


息を吐く。


そして。


今度ははっきりと。


「悪かった」


真琴の表情が少し柔らかくなる。


陽翔も。


もう驚いた顔はしていなかった。


黙って見ている。


凌はしばらく蓮司を見たあと。


「ああ」


少しだけ表情を緩めた。


「そんなこと」


「……」


「気にしてませんよ」


蓮司が眉を寄せる。


「……そうなのか?」


「はい」


凌はいつもの落ち着いた声で答える。


「似たようなことは、今までにもあったので」


「……」


蓮司の顔がわずかに曇る。


今までにも。


つまり。


初めてではない。


「でも」


蓮司が言う。


凌が見る。


「それでも」


少し言いにくそうに続けた。


「俺が言っていい理由にはなんねえだろ」


「……」


今度は。


凌が少しだけ目を見開いた。


真琴も驚いたように蓮司を見る。


凌は数秒黙っていた。


そして。


ほんの少し笑った。


「……そうですね」


「……」


「じゃあ」


凌は蓮司を見る。


「謝罪は受け取ります」


蓮司の肩から。


少しだけ力が抜ける。


「おう」


それで。


終わるはずだった。


◇ ◇ ◇


「でも」


凌の声が変わった。


「?」


蓮司が顔を上げる。


凌は今度こそ。


真正面から蓮司を見た。


「黒瀬先輩」


「何だよ」


「俺」


一拍。


「もうそろそろ、佐倉に告白しようと思います」


「……」


時間が止まったようだった。


蓮司。


真琴。


陽翔。


誰も。


すぐには言葉を出せない。


蓮司は数秒遅れて。


ようやく。


「……は?」


と声を漏らした。


凌はそれ以上説明しなかった。


「じゃあ」


そのまま歩き出す。


「待て」


蓮司が反射的に声をかける。


凌は止まらない。


「一ノ瀬!」


少し強い声。


それでも。


凌は振り返らず。


片手だけを軽く上げた。


そして。


廊下の角を曲がっていった。


◇ ◇ ◇


残された三人。


沈黙。


「……」


蓮司は。


その場から動かなかった。


――もうそろそろ。


――佐倉に告白しようと思います。


その言葉だけが。


何度も頭の中で繰り返される。


昨日。


みおと二人で昼を食べた。


帰り際。


嬉しそうに。


――また誘ってください。


そう言われた。


そのみおに。


一ノ瀬凌が。


告白する。


「……」


蓮司の拳に力が入る。


少しして。


陽翔がそっと真琴へ近づいた。


小声で。


「……なあ」


「何」


「今のが」


凌が消えた方向を見る。


「一ノ瀬?」


「うん」


「でっか」


「そこ?」


「だって俺、初めてちゃんと見たし。百八十超えてるだろ」


「そのくらい」


「しかも顔いいな」


「うん」


「落ち着いてるし」


「うん」


陽翔が蓮司を見る。


「……蓮司」


「言うな」


「まだ何も言ってねえ!」


「顔が言ってる」


「お前もそれ言うようになった!?」


真琴がさらっと言う。


「みおの影響」


「うるせえ」


ほんの少しだけ。


いつもの空気が戻る。


けれど。


蓮司の表情だけは。


まったく軽くならなかった。


◇ ◇ ◇


陽翔が恐る恐る聞く。


「今のって」


「……」


「本当に告白するってことだよな?」


蓮司が睨む。


「他に何があんだよ」


「ですよね」


「……」


真琴は。


黙って蓮司を見ていた。


「黒瀬」


「何」


「ちゃんと謝れたんだね」


「……何だよ、それ」


「褒めてる」


「子供じゃねえ」


「前のあんたなら」


真琴は少しだけ笑った。


「意地張ったまま終わってたかもしれないから」


「……」


蓮司は反論しなかった。


自分でも。


少しは分かっている。


あの日。


凌の言葉に腹が立った。


挑発されたことにも。


みおのことで突かれたことにも。


でも。


あとになって一番腹が立ったのは。


自分自身だった。


みおを自然に女として見ているなら。


凌についても。


本人が男として生きていることを、そのまま受け止めればよかった。


それを。


感情的になった一瞬で踏み外した。


だから。


謝るべきだと思った。


ただ。


今は。


その話より。


「……告白」


蓮司が小さく呟く。


陽翔がすぐ答える。


「するって言ってたな」


「聞こえてた」


「ごめん」


「……」


蓮司は廊下の窓から外を見る。


「いつ」


「え?」


真琴が聞き返す。


「いつするんだよ」


「知らない」


陽翔が言う。


「『もうそろそろ』ってことは、今日とか?」


「……」


蓮司の顔がさらに険しくなる。


「あ、悪い」


「お前、しばらく黙ってろ」


「はい」


◇ ◇ ◇


真琴は少し考えていた。


一ノ瀬凌。


なぜ。


わざわざ蓮司へ。


告白するつもりだと伝えたのか。


普通なら。


そんな必要はない。


みお本人へ伝えればいい。


結果がどうなるか。


蓮司が知るのは後でも構わない。


それなのに。


凌は。


先に宣言した。


「……煽ってるね」


「何が」


蓮司が見る。


「一ノ瀬」


「……」


「わざわざあんたに言う必要ないでしょ」


陽翔も気づく。


「あ」


真琴は続けた。


「たぶん」


凌が消えた方向を見る。


「『俺は動きますけど、黒瀬先輩はどうするんですか』ってことじゃない?」


「……」


蓮司の目が細くなる。


陽翔が小さく呟く。


「静かなやつのほうが怖え……」


「うるせえ」


でも。


蓮司にも。


何となく分かった。


一ノ瀬凌は。


そういう男だ。


真正面から来る。


みおにも。


自分にも。


無理強いはしない。


嫌だと言われれば引く。


けれど。


自分の気持ちまで引っ込めるつもりはない。


「……くそ」


蓮司が低く吐き出した。


◇ ◇ ◇


真琴が聞く。


「どうするの?」


「……」


「黒瀬」


答えない。


陽翔も。


今度は茶化さなかった。


告白。


自分が。


みおに。


好きだと伝える。


「……」


頭の中で想像する。


――佐倉。


――俺、お前のこと……。


「……っ」


それだけで。


頭が熱くなった。


真琴が蓮司を見る。


「顔赤い」


「うるせえ!」


「まだ想像しただけでしょ」


「分かってる!」


「一ノ瀬は実際に言うみたいだけど」


「……」


蓮司。


停止。


「お前、意地悪だな」


「事実」


そのとき。


陽翔が口を開いた。


「でもさ」


二人が見る。


いつもより。


少し真面目な顔だった。


「蓮司」


「何」


「俺」


「?」


「さきさん好きになって、ちょっと分かったけど」


真琴が黙って聞く。


陽翔は続けた。


「好きな人に、自分のこと何とも思われてなかったらどうしようって」


「……」


「めちゃくちゃ怖いんだよ」


蓮司が少し黙った。


「だから、お前がビビってるのも」


陽翔は少しだけ笑う。


「今なら分かる」


「……」


「でも」


「何だよ」


「一ノ瀬に先に告白されて」


「……」


「みおちゃんがそっち選んで」


「……」


「そのあとで『俺も好きだった』って言っても」


少し間を置く。


「遅いだろ」


蓮司は。


何も言えなかった。


真琴が陽翔を見る。


「天野」


「何」


「たまにいいこと言うね」


「たまにって何!?」


少しだけ。


いつもの陽翔に戻る。


蓮司は小さく息を吐いた。


「……分かってる」


二人が見る。


「分かってんだよ」


低い声。


でも。


それは。


以前のように逃げる声ではなかった。


◇ ◇ ◇


みおが誰を選ぶのか。


それを決めるのは。


みおだ。


自分ではない。


凌でもない。


でも。


選んでもらいたいのなら。


何も言わずに。


ただ隣にいるだけでは駄目なのかもしれない。


「……」


蓮司が歩き出す。


陽翔がついていく。


「蓮司?」


「昼休み終わるぞ」


真琴も歩きながら聞く。


「逃げた?」


「逃げてねえ」


「じゃあ、どうするの」


蓮司は少しだけ黙った。


そして。


「……考える」


真琴が。


ほんの少し笑った。


以前なら。


『知らねえ』


『どうでもいい』


そんな言葉で終わらせていただろう。


でも。


今日は違った。


考える。


その言葉だけでも。


前とは違う。


◇ ◇ ◇


一方。


二年棟へ戻る凌も。


一人で歩きながら考えていた。


さっき。


蓮司へ言った。


――もうそろそろ、佐倉に告白しようと思います。


あれは。


勢いでも。


嘘でもない。


昨日。


屋上でみおと蓮司が二人で昼を食べているところを見た。


みおは。


楽しそうに笑っていた。


そして。


自分に。


相手が蓮司だとは言わなかった。


あのとき胸に残った感情は。


一晩経っても消えなかった。


「……」


だから。


決めた。


これ以上。


ただ待つだけなのはやめる。


焦っているからではない。


みおを追い詰めたいわけでもない。


ただ。


もう自分の気持ちは。


曖昧ではなくなった。


『好きになってきてる』


ではない。


もう。


好きだ。


「……」


凌は窓の外を見る。


少しだけ。


口元を緩めた。


「黒瀬先輩」


誰にも聞こえない声。


「ちゃんと動いてくださいね」


蓮司が何もしないのなら。


だからといって。


凌が遠慮する理由はない。


けれど。


もし本気なら。


本気で来てほしいとも思う。


その上で。


最後に選ぶのは。


佐倉みおだ。


自分か。


蓮司か。


それとも。


どちらでもないのか。


それを決めるのは。


みおだけ。


だからこそ。


凌は決めた。


近いうちに。


きちんと伝える。


もう。


『好きになってきてる』ではなく。


――好きだ。


そう。


本人へ伝える。


そして。


凌のその宣言は。


蓮司の中にも。


確かに火をつけ始めていた。


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