第48話 あと五分、いて
それから数日後。
昼休み。
みおは職員室へプリントを届けた帰り、二年生の教室が並ぶ廊下を歩いていた。
「あ……」
少し先。
窓際に、見覚えのある長身の男子生徒がいる。
「一ノ瀬先輩」
凌だった。
声に気づいて、こちらを向く。
「佐倉」
「こんにちは」
「うん」
いつものように凌が少し笑った。
けれど。
みおの足が止まる。
「……」
「何?」
みおは凌の顔をじっと見た。
「一ノ瀬先輩」
「うん」
「今日、体調悪いですか?」
ほんの一瞬。
返事が遅れた。
「別に」
「嘘」
即答だった。
凌の眉が少し上がる。
「なんで?」
「顔色」
「普通だろ」
「普通じゃないです」
目元も少し重そうだ。
普段より瞬きも多い。
凌が歩き出そうとした。
その瞬間。
身体が、ほんのわずかに壁側へ傾いた。
「ほら!」
みおが反射的に腕を掴む。
「今ふらっとしました」
「してない」
「しました」
「気のせい」
「一ノ瀬先輩」
みおの声が少し強くなる。
「私には無理するなって言うのに、自分はいいんですか?」
「……」
凌が少し困ったように笑った。
「それ言われると弱いな」
「じゃあ保健室行きますよ」
「そこまでじゃない」
「行きます」
「佐倉」
「行きます」
「……」
数秒。
凌は諦めたように息を吐いた。
「分かった」
「最初からそうしてください」
みおはそう言いながら、いつもより力のない凌の笑い方が少し気になった。
◇ ◇ ◇
保健室へ向かう。
普段なら、背の高い凌のほうがみおの歩幅に合わせる。
けれど今日は。
みおのほうが、少しゆっくり歩いていた。
「昨日、ちゃんと寝ました?」
「まあ」
「何時間?」
「四時間」
みおの足が止まった。
「それ、ちゃんと寝たって言わないです」
「一応寝た」
「足りません」
「厳しいな」
「ふらついてる人に言われたくないです」
凌が小さく笑った。
「じゃあ今日はちゃんと寝る」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶんじゃダメです」
「はい」
みおが横を見る。
「今日は素直ですね」
「反論する元気があんまりない」
「……やっぱり具合悪いんじゃないですか」
「あ」
凌が少しだけ目を逸らす。
「自分で言った」
「もう」
みおは呆れた顔をする。
でも。
心配していることは完全に表情へ出ていた。
凌が横目でこちらを見る。
「佐倉」
「はい?」
「そんな顔しなくていいよ」
「どんな顔ですか」
「すごく心配してる顔」
「してますから」
迷いなく答えた。
凌が少し黙る。
「一ノ瀬先輩、私には無理するなって言うくせに」
「うん」
「自分は結構無理しますよね」
「……」
「不公平です」
数秒。
凌は何も言わなかった。
それから。
小さく笑う。
「やっぱり佐倉って、よく見てるな」
「普通です」
「普通じゃないよ」
その声は。
いつもより少しだけ柔らかかった。
◇ ◇ ◇
保健室には、ちょうど養護教諭がいた。
簡単に診てもらうと、高い熱はない。ただ、寝不足と疲れが重なっているらしく、少し休んでいくよう言われた。
「ほら」
みおが言う。
「休んでください」
「佐倉が先生みたいになってる」
「一ノ瀬先輩が言うこと聞かないからです」
凌は苦笑しながらベッドへ腰を下ろした。
そのあと、養護教諭は職員室へ呼ばれ、
「少し休んでてね」
と言い残して保健室を出ていった。
残ったのは。
みおと凌。
「じゃあ」
みおも立ち上がる。
「私、教室戻りますね」
その瞬間。
制服の袖を。
軽く掴まれた。
「……?」
振り返る。
凌だった。
強く引いているわけではない。
指先で。
ほんの少しだけ。
「一ノ瀬先輩?」
「もう行く?」
「授業ありますから」
「まだ休み時間あるだろ」
「ありますけど」
凌がみおを見る。
いつもの落ち着いた目ではなく。
少しだけ弱った顔で。
「あと五分」
「……」
「いて」
みおが止まった。
普段の凌なら。
相手が断れる余地を残した言い方をすることが多い。
でも今日は。
ただ。
――いて。
それだけだった。
「……五分だけですよ」
「うん」
凌が袖から手を離す。
みおはベッド脇の椅子へ座った。
「ちゃんと寝てください」
「佐倉がいると寝られないかも」
「じゃあ帰ります」
「嘘」
即答。
みおが睨む。
凌が少し笑った。
「寝る」
「最初からそうしてください」
凌が横になる。
みおは。
つい、その顔を見た。
普段は、姿勢も表情も話し方も落ち着いている。
だからこそ。
こうして弱っている姿を見ると。
妙に放っておけなかった。
「……」
凌が目を閉じたまま言う。
「見てる?」
「……!」
みおは慌てて目を逸らした。
「見てません」
「見てた」
「寝てるのに何で分かるんですか」
「何となく」
「適当」
「当たってた」
「……」
返せない。
凌が薄く目を開けた。
「顔赤いけど」
「赤くないです」
「赤い」
「体調悪い人は大人しく寝てください」
「話逸らした」
「寝てください」
「はい」
今度は素直に目を閉じる。
みおは小さく息を吐いた。
本当に。
今日はいつもより少しだけ、凌の調子が違う。
◇ ◇ ◇
少し間が空いた。
「佐倉」
「今度は何ですか」
「手」
「手?」
凌がベッドの横へ片手を出した。
「貸して」
「……何で?」
「嫌ならいい」
「……」
みおが止まる。
嫌ではない。
ただ。
何をするつもりなのか分からない。
少し迷ったあと。
恐る恐る、自分の手を差し出した。
凌は握らなかった。
ただ。
指先で。
みおの指へ軽く触れる。
「……!」
本当に。
それだけだった。
「一ノ瀬先輩?」
「冷たい」
「私の手が?」
「うん」
「先輩が熱いんじゃないですか?」
「かも」
凌の指が。
みおの指先へ軽く重なる。
握られてはいない。
嫌なら。
いつでも離せる。
その距離だった。
それでも。
みおの心臓は少しだけ速くなる。
「これ」
小さな声で言った。
「ちょっと押してません?」
凌が目を開ける。
「バレた?」
「バレます」
小さく笑う。
「具合悪いときくらい」
少し間を置いて。
「甘えてもいいかなと思って」
「……」
「佐倉に」
最後だけ。
少し意味を持たせるように言った。
みおの目が泳ぐ。
「……そういう言い方」
「嫌?」
「……嫌じゃないですけど」
凌が笑った。
「じゃあ少しだけ」
「またそれ」
「便利だから」
「ずるいですよ」
そう言いながらも。
みおは手を引かなかった。
「……五分ですからね」
「うん」
「ちゃんと寝てください」
「佐倉が手離さなかったら」
「逆じゃないですか!」
少し声を上げると。
凌が笑った。
「元気出たかも」
「なら私帰ります」
「それは困る」
即答。
「……」
また。
胸が小さく跳ねた。
「一ノ瀬先輩」
「何?」
「今日、ちょっとずるいです」
「体調悪いから」
「免罪符にしないでください」
「じゃあ」
凌が。
今度は少しだけ真面目な目を向けた。
「元気なときならいい?」
「……」
みおの目が一気に泳ぐ。
凌はその反応を見て。
少し笑った。
「今のは冗談」
「また!」
「半分」
「半分!?」
凌はそれ以上何も言わず、目を閉じた。
「……寝る」
「もう……」
みおは呆れたように呟く。
けれど。
触れている指先は。
そのままだった。
◇ ◇ ◇
数分後。
凌の呼吸が少しずつ静かになっていく。
どうやら。
今度こそ眠ったらしい。
「……」
みおはそっと凌を見る。
いつもの余裕のある表情とは違う。
少し疲れている。
でも。
眠っている顔は穏やかだった。
「……無理しないでくださいよ」
小さく呟く。
当然。
返事はない。
そろそろ戻らないと。
みおは重なっていた指先をそっと離そうとした。
そのとき。
凌の指が。
ほんの少し動いた。
離れまいとするように。
「……」
胸が。
また小さく鳴る。
ほんの数秒。
そのままでいる。
そして。
今度こそ、ゆっくり手を離した。
「……一ノ瀬先輩まで」
最近。
この人といると。
以前より心臓が落ち着かない。
それはもう。
ただ「同じような経験を持つ先輩だから」というだけでは説明できなくなってきていた。
「……」
保健室の時計を見る。
もう戻らなければ。
みおは立ち上がった。
眠っている凌へ、小さく声をかける。
「ちゃんと休んでくださいね」
カーテンを少し整え。
静かに保健室を出た。
◇ ◇ ◇
扉が閉まる。
数秒後。
「……」
凌が。
ゆっくり目を開けた。
完全に眠っていたわけではなかった。
身体は思っていた以上に重かった。
それでも。
みおが隣にいてくれたことは。
思っていた以上に嬉しかった。
「……五分だけ、か」
自分の指先を見る。
さっきまで触れていた。
みおの冷たい指の感触が。
まだ少し残っている気がする。
凌は小さく笑った。
今日は。
体調が悪いことを理由に。
少しだけ甘えた。
でも。
嫌がることをするつもりはない。
無理に距離を縮めるつもりもない。
みお自身が。
自分から手を引かなかった。
それが。
今は少し嬉しい。
そして。
――嫌じゃない。
そう言われるたび。
あと少しだけ。
近づいてみたいと思う。
「……」
凌は今度こそ目を閉じた。
急ぐ必要はない。
今日は。
昨日までより少しだけ。
佐倉みおの近くにいられた。
それで十分だった。




