第47話 黒瀬先輩が来ると楽しいです
翌朝。
午前六時半。
みおは、ふと目を覚ました。
「……」
見慣れない天井。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
隣を見ると、結衣が静かな寝息を立てている。その向こうでは、真琴が結衣のほうを向いたまま眠っていた。
「あ……」
そこで思い出す。
黒瀬蓮司の家。
昨日はここで、みんなと夕飯を食べて、ゲームをして、遅くまで笑っていた。
そして夜中には、蓮司と二人で少しだけ話した。
――今日、来てくれてありがとな。
「……」
その言葉を思い出すと、胸の奥がほんの少し温かくなる。
みおは布団の中で、小さく笑った。
◇ ◇ ◇
まだ誰も起きていない。
みおは結衣たちを起こさないよう、静かに布団を抜け出した。
扉を開け、ダイニングへ出る。
最初に目へ入ったのは。
「……」
陽翔だった。
寝袋は完全に横向き。
しかも上半身だけが外へ飛び出している。
「どうやったらそうなるんだろ……」
思わず小さく笑ってしまった。
そして。
その少し奥。
布団の上では、蓮司が眠っていた。
「……」
みおの足が止まる。
眠っている蓮司を見るのは初めてだった。
学校で見る鋭い目もなければ、不機嫌そうな表情もない。銀灰色の髪は無造作に乱れ、眠っている顔は思っていたよりずっと穏やかだった。
「……なんか」
少し。
幼く見える。
普段は体格も大きく、目つきも鋭いから、ずっと年上の先輩という印象が強かった。
でも今は。
ただの高校生に見えた。
「……黒瀬先輩」
もちろん返事はない。
昨日、真琴から聞いたことが、ほんの少しだけ頭をよぎる。
高校へ入ってから、この部屋で一人で暮らしていること。
けれど今日は。
隣には陽翔。
奥の部屋には真琴と結衣。
そして自分もいる。
「……」
今朝は一人じゃない。
それが。
なんとなく嬉しかった。
「……ん」
蓮司が少し動く。
「!」
みおは反射的に身体を固くした。
けれど、ただ寝返りを打っただけだった。
「……びっくりした」
小さく息を吐く。
そこでようやく。
自分がかなり長い時間、蓮司の寝顔を見ていたことに気づいた。
「……何してるんだろ、私」
急に恥ずかしくなり、みおはそそくさとキッチンへ向かった。
◇ ◇ ◇
冷蔵庫を開ける。
昨日買った材料が少しずつ残っていた。
卵。
ハム。
野菜。
それから、昨夜のスープ。
「……朝ご飯」
昨日。
蓮司に約束した。
――私が作ります。
せっかく早く起きたのだから、みんなが起きる前に作ってしまおう。
みおは腕まくりをして、エプロンを身につけた。
◇ ◇ ◇
二十分ほど経った頃。
ふわりと、卵の焼ける匂いが部屋に広がった。
「……」
蓮司の目が開く。
しばらくぼんやりと天井を眺めたあと、鼻を動かした。
「……卵?」
身体を起こす。
横では。
「んが……」
陽翔がまだ寝ている。
「こいつ、よく寝んな……」
髪を掻きながら立ち上がり、キッチンを見る。
「……」
エプロン姿のみおが。
こちらへ背を向け、フライパンを扱っていた。
蓮司は。
ほんの少しだけ、その光景を眺めた。
朝。
自分の部屋のキッチンに、誰かがいる。
それだけのことが。
妙に新鮮だった。
「佐倉」
「ひゃっ!」
みおの肩が大きく跳ねた。
勢いよく振り返る。
「せ、先輩!」
「驚きすぎだろ」
「急に後ろから声かけないでください!」
「俺ん家だぞ」
「それはそうですけど!」
蓮司は眠そうな顔のまま、フライパンを見る。
「何作ってんの」
「朝ご飯です」
「早くね?」
「目が覚めちゃったので」
「何時から起きてんだ」
「六時半くらい」
「……早」
みおは再びフライパンへ向き直った。
「先輩、もう少し寝ててもいいですよ」
「もう目ぇ覚めた」
「じゃあ」
みおが振り返る。
「手伝います?」
「……俺が?」
「はい」
「何すんだよ」
「お皿出してください」
「それ手伝いか?」
「立派なお仕事です」
蓮司が棚を開ける。
「どれ」
「平たいお皿、五枚お願いします」
「五枚もねえ」
「え?」
みおが振り返った。
「何枚あるんですか?」
「三枚」
「……一人暮らしって、本当に食器少ないんですね」
「一人で五枚使う奴いねえだろ」
「今日は五人います」
「昨日の紙皿残ってるだろ」
「あ」
真琴が持ってきたものがまだある。
「じゃあ二人は紙皿ですね」
「天野は紙皿でいい」
「もう決定なんですか」
「あと俺も」
みおが少し意外そうに蓮司を見る。
「黒瀬先輩が?」
「客にちゃんとした皿使わせりゃいいだろ」
「……」
みおの口元が緩む。
「そういうところ」
「あ?」
「優しいですよね」
「……」
蓮司が固まった。
「急に何言ってんだ」
「普通に思ったから言っただけです」
「朝からやめろ」
「何を?」
みおの目が少し細くなる。
「照れてる?」
「照れてねえ」
「耳、赤いですよ」
「朝だからだ!」
「朝だと赤くなるんですか?」
「……お前」
そこで。
二人とも気づいた。
以前。
まったく逆の立場で。
似たような会話をしたことがある。
みおが先に吹き出した。
「ふふっ」
「……うるせえ」
蓮司も。
少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
「……いい匂い」
眠たそうな声がした。
結衣が部屋から出てくる。
「おはようございます」
「おはようございます……」
結衣はキッチンを見て、少し目を大きくした。
「朝ご飯作ってたんですか?」
「はい」
「手伝います」
「もうほとんど終わりますよ」
そこへ。
「結衣?」
真琴も起きてきた。
「おはようございます、真琴先輩」
「……おはよう」
まだ眠そうだ。
けれど。
結衣を見た瞬間。
「……」
真琴の目が止まった。
「結衣」
「はい?」
真琴が結衣の髪へそっと手を伸ばす。
「ここ、跳ねてる」
「え?」
寝癖になった一束を指で軽く整える。
「……直った」
「あ……ありがとうございます」
結衣が少し照れたように笑う。
その光景を見て。
蓮司がぼそり。
「朝からやってんな」
真琴が振り返る。
「何が」
「別に」
「なら言わないで」
みおは二人を見ながら。
ふと。
自分の髪へ触れた。
「……」
私、大丈夫かな。
「佐倉」
「はい?」
蓮司がこちらを見ている。
「後ろ、跳ねてる」
「えっ?」
慌てて髪を触る。
「どこですか?」
「そこ」
「ここ?」
「違う」
「じゃあこっち?」
「違うって」
後頭部だから。
自分では分からない。
何度か見当違いの場所を触っていると。
蓮司が近づいてきた。
「動くな」
「え?」
そのまま。
みおの髪へ手を伸ばす。
「……」
ぴょんと跳ねていた一束を、蓮司の指がそっと押さえた。
みおが固まる。
「……っ」
近い。
それに。
髪を触られている。
たった今。
真琴が結衣へ同じことをしたばかりなのも。
妙に意識してしまう。
「直んねえな」
蓮司の指先が、もう一度髪を撫でる。
「……!」
顔が熱くなる。
視界の端で。
真琴と結衣が、こちらを見ているのも分かった。
「……まあ、いいだろ」
ようやく。
蓮司の手が離れた。
「……ありがとうございます」
思っていたより小さな声になった。
そして。
蓮司も遅れて何かに気づいたらしい。
すっと顔を逸らす。
真琴の眉が。
ゆっくり上がった。
「真琴先輩」
みおが先に牽制する。
「何?」
「何も言わないでください」
「まだ何も言ってないけど」
「顔が言ってます!」
「どんな顔?」
「絶対何か言いたい顔!」
真琴の口元が。
ほんの少しだけ上がった。
◇ ◇ ◇
そのとき。
「うおおおおおっ!」
「!?」
突然。
床から声が上がった。
全員が振り返る。
寝袋の中で。
陽翔がものすごい勢いでもがいている。
そして。
ばっ!
と目を開いた。
「……」
全員を見る。
しばし沈黙。
「……夢か」
蓮司が呆れた顔をする。
「何の夢だよ」
陽翔はまだ寝ぼけたまま、天井を見つめて答えた。
「さきさんと……大学のキャンパス歩いてた」
「……」
数秒。
完全な沈黙。
直後。
「ぶっ……!」
最初に蓮司が吹き出した。
「ははっ! お前、重症だろ!」
真琴も。
「もう夢にまで出てきたの?」
結衣まで口元を押さえて笑っている。
みおだけは。
少し引いていた。
「陽翔先輩……」
「みおちゃん」
「はい?」
陽翔が寝ぼけたまま手を伸ばす。
「お兄ちゃんって……」
「呼びません」
即答。
再び。
部屋中に笑い声が広がった。
◇ ◇ ◇
朝食は。
卵焼き。
ハム。
簡単なサラダ。
昨夜の残りのスープ。
それからトースト。
全員でテーブルを囲む。
「うまっ!」
一口目から。
陽翔の反応は昨夜と何一つ変わらない。
「みおちゃん、朝飯もうまい!」
「ありがとうございます」
「さきさんも毎朝これ食べてんの?」
「毎日じゃないですけど、だいたい私が作ってます」
「……」
陽翔が急に真剣な顔になる。
「結婚したい」
みおが真顔になった。
「料理目当てなら絶対無理です」
「違う!」
真琴も淡々と続ける。
「その前に付き合ってもないけど」
「これから!」
蓮司が笑う。
「大学入れんのかも怪しいしな」
「勉強するっつってんだろ!」
「昨日からまだ一ページもやってねえだろ」
「今日帰ったらやる!」
「絶対寝る!」
「寝ない!」
結衣が少し考えてから言った。
「私、少しなら勉強見ましょうか?」
陽翔の目が輝く。
「マジ!?」
すぐに真琴が結衣を見る。
「結衣」
「はい?」
「天野、甘やかさなくていいよ」
「でも大学行きたいなら」
「理由がさきさんでも?」
「……」
結衣は少し考えた。
「勉強するきっかけにはなります」
「七瀬! 神!」
「私の彼女だから」
「取らないって!」
「ならいい」
「信用なさすぎない!?」
みおがくすくす笑う。
蓮司も。
楽しそうに笑っていた。
そんな蓮司を見て。
みおも自然に笑った。
「黒瀬先輩」
「あ?」
「また、みんなで朝ご飯食べましょうね」
蓮司が一瞬だけ止まる。
「……次はお前ん家だろ」
間髪入れず。
陽翔が手を上げた。
「行く!」
全員が笑った。
「陽翔先輩は、お姉ちゃん目当てでしょ!」
また。
蓮司が声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
朝食を終え。
食器を片付け。
それぞれ荷物をまとめる。
午前十時過ぎ。
お泊まり会も、そろそろ終わりだった。
「楽しかった!」
陽翔が大きなリュックを背負う。
「またやろうぜ!」
結衣が笑って。
「また日程決めましょうね」
「はい」
みおも笑う。
三人が先に玄関へ向かう。
みおもボストンバッグを持ち上げた。
そして。
蓮司を見る。
「じゃあ」
「おう」
「お邪魔しました」
「ん」
「楽しかったです」
「……ああ」
みおは少しだけ真面目な顔になる。
「あと」
「何」
「ありがとうございました」
蓮司が怪訝そうにする。
「何が」
「泊めてくれて」
「……」
少しだけ。
顔を逸らす。
「俺も」
「?」
「……楽しかったし」
みおの目が少し大きくなる。
「……そっか」
嬉しくなって。
自然に笑った。
蓮司の口元も。
ほんの少しだけ緩む。
「ほら」
「?」
蓮司が、みおのボストンバッグへ手を伸ばす。
「荷物」
「持てますよ」
「知ってる」
「……」
みおは一瞬だけ蓮司を見る。
そして。
素直にバッグを渡した。
「じゃあ、お願いします」
「おう」
二人で。
部屋を出た。
◇ ◇ ◇
アパートの下では。
真琴と結衣。
陽翔が待っていた。
陽翔がみおを見るなり。
「みおちゃん!」
「はい?」
「帰ったら、さきさんに昨日はありがとうございましたって伝えて!」
「ケーキのこと?」
「それも!」
「それ以外何ですか?」
「……」
陽翔の頬が少し赤くなる。
「昨日……楽しかったって」
真琴が横から冷静に言う。
「自分で言えば?」
「連絡先知らない!」
みおは即答する。
「教えませんよ」
「何で!?」
「勝手に教えられないからです」
「正論!」
結衣が笑う。
「今度会ったとき、自分で聞けばいいですよ」
「……そうする!」
「その前に勉強」
真琴。
「今日からやる!」
陽翔。
「証拠送って」
「厳しい!」
賑やかな声を響かせながら。
五人は一緒にアパートを出た。
◇ ◇ ◇
住宅街の分かれ道。
真琴と結衣は駅方面。
陽翔も途中までは同じ方向だった。
「じゃあね、みお」
「また学校で」
「はい」
「蓮司も」
「おう」
陽翔が最後に振り返る。
「蓮司!」
「何」
「次もお前ん家でもいいぞ!」
「二度と来んな」
「ひどい!」
笑いながら。
三人は駅のほうへ歩いていった。
残ったのは。
みおと蓮司。
二人だけ。
「……」
蓮司のアパートから。
みおのマンションまでは徒歩四分ほど。
いつも歩いている住宅街。
でも今日は。
少しだけ違って感じた。
みおは。
隣を歩く蓮司を見る。
「あ?」
すぐに気づかれる。
「何」
「……」
「また見てただろ」
「先輩」
「何だよ」
みおは少しだけ迷った。
昨日聞いた話のことは。
今は言わない。
それより。
今、自分が言いたいことを口にする。
「また私の家で、夕飯食べましょう」
「……は?」
蓮司が少し驚いたようにこちらを見る。
「急だな」
「そうですか?」
「昨日からずっと飯食ってたじゃねえか」
「それとこれとは別です」
「何が」
「お姉ちゃんも」
みおは少し笑う。
「黒瀬先輩が来ると楽しそうだし」
「……あの姉ちゃんは誰来ても楽しそうだろ」
「それはそう」
「否定しろよ」
みおが笑う。
「でも」
「?」
「私も」
そのまま。
素直に言った。
「黒瀬先輩が来ると楽しいです」
蓮司の足が。
ほんの一瞬だけ遅くなる。
「……」
みおも。
言ってから少し恥ずかしくなった。
でも。
訂正はしない。
本当にそう思っているから。
蓮司は前を向いたまま。
「……じゃあ」
「?」
「また行く」
みおの表情が。
ぱっと明るくなった。
「はい」
それだけ。
二人は並んで歩いていく。
しばらく会話はなかった。
けれど。
気まずくはなかった。
◇ ◇ ◇
一方。
駅へ向かう道。
少し前を陽翔が歩いている。
「今日から勉強……何からやればいいんだ?」
一人でぶつぶつ言っていた。
その少し後ろ。
真琴と結衣。
「真琴先輩」
「何?」
結衣が小さな声で言う。
「黒瀬先輩」
「うん」
「昨日より、みおちゃんとの距離近くなってません?」
真琴が少しだけ振り返る。
遠く。
まだ並んで歩いている二人。
「……本人たちは気づいてないだろうけどね」
「ですよね」
結衣が少し笑う。
それから。
別の名前を口にした。
「一ノ瀬君は?」
「……そこなんだよね」
真琴も前を向く。
蓮司がようやく自分の気持ちを認め始めた一方で。
みおは。
凌のことまで意識し始めている。
「難しいですね」
「うん」
誰かが悪いわけではない。
蓮司も。
凌も。
みおも。
ただ、それぞれの気持ちが少しずつ動いているだけだ。
結衣がふっと笑う。
「でも、みおちゃん。昨日すごく楽しそうでした」
「なら」
真琴も少し笑った。
「今は、それでいいんじゃない」
まだ。
何も決まっていない。
だから今は。
それぞれが自分の気持ちを知っていく。
その途中だった。




