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第4話 お弁当、作りましょうか?

一時間目が終わっても、黒瀬蓮司の機嫌はあまりよくなかった。


別に、みおがトランスジェンダーだと知ったことが嫌だったわけではない。


驚きはした。


昨日まで何も知らずに接していた相手に、自分の知らない背景があったのだから、それくらいは当然だ。


けれど、それだけだった。


事情を知ったからといって、昨日まで見ていたみおが急に別人になるわけではない。


今朝、自転車から避けさせたとき、腕の中へ飛び込んできたみおも。


帰り道で笑っていたみおも。


すぐに謝っては、自分に「謝るな」と言われて慌てて口を閉じていたみおも。


全部、同じ佐倉みおだ。


だから。


蓮司が朝から妙に苛立っている理由は、そこではなかった。


「なあ」


隣から、陽翔が顔を寄せてくる。


「……何だよ」


「みおちゃん、昼休みに一年B組行ったら会えるかな」


「行くな」


「即答!?」


陽翔が目を丸くした。


近くで教科書を閉じていた真琴が、呆れたように口を挟む。


「天野。転校二日目の一年の教室に、三年男子がいきなり押しかけたら普通に怖いから」


「あ、確かに」


「しかも目的、ナンパでしょ」


「交流」


「ナンパ」


「親睦」


「ナンパ」


「学校案内」


「それ、昨日もう受けてる」


「……」


反論できなくなった陽翔が、机へ突っ伏した。


「真琴、俺に厳しくない?」


「彼女いる私に『羨ましい』って言った直後に一年狙うって言ってる奴に、何を優しくしろと」


「いいよなー、お前は。結衣ちゃんいるもんなぁ」


「いるね」


即答。


陽翔が勢いよく顔を上げた。


「その余裕の即答が腹立つ!」


「知らないよ」


真琴は鼻で笑った。


蓮司は窓の外へ顔を向け、二人の会話を聞き流す。


――つもりだった。


「よし」


陽翔が突然言った。


「俺も今年中に彼女作る!」


「卒業まで半年もないけど」


「だからこそ!」


「受験しろ」


「恋も受験も両方取る!」


「前回の模試、何点?」


「恋の話しようぜ」


「逃げた」


真琴の容赦ない一撃に、陽翔が再び机へ沈む。


いつもなら。


蓮司も適当に笑うか、馬鹿にして終わりだ。


なのに今日は。


――みおちゃん、狙っちゃおうかな。


さっき陽翔が口にした言葉が、妙に頭から離れなかった。


別に。


陽翔が誰を好きになろうと、自分には関係ない。


みおだって、昨日知り合ったばかりの一年生だ。


だから。


気にする理由など、どこにもない。


そのはずなのに。


「……チッ」


思わず舌打ちが漏れた。


「え?」


陽翔が顔を上げる。


「今、俺なんかした?」


「存在」


「ひどくない!?」


「うるせえ」


自分でも。


なぜこんなに面白くないのか、よく分からなかった。


◇


昼休み。


一年B組では、いくつかの机を寄せて女子生徒たちが昼食を取っていた。


その輪の中に、みおもいる。


昨日の昼休みよりも、ずっと自然に。


「みおちゃん、その唐揚げも自分で作ったの?」


「うん。昨日の夜に漬けておいたから、朝揚げただけ」


「朝から揚げ物!?」


「そんなに大変じゃないよ?」


すぐ横の女子が、真顔で首を振った。


「料理できる人の『大変じゃない』は信用できない」


「分かる」


「えぇ?」


みおは思わず笑った。


弁当箱には、唐揚げ、卵焼き、ほうれん草のおひたし、小さなポテトサラダ。


派手ではないけれど、彩りを考えてきれいに詰めてある。


「みおちゃんのお姉さん、羨ましいなぁ。毎日これ食べられるんでしょ?」


「でも洗い物しないよ」


「あ、それは駄目だ」


「でしょ?」


また笑い声が起きる。


昨日は、一つ言葉を発するたびに周囲の反応を気にしていた。


けれど今日は。


もう少しだけ、普通に話せる。


自分から話題を出すこともできる。


転校して、まだ二日目。


それでも。


少しずつ、このクラスの中に自分の居場所ができ始めている。


そんな気がして。


みおは少し嬉しかった。


◇


午後。


みおは次の授業のため、教科書を抱えて移動教室へ向かっていた。


階段を上がり、踊り場まで来たところで。


「あ」


見覚えのある銀灰色の髪が目に入った。


窓際の壁にもたれて、缶コーヒーを飲んでいる。


黒瀬蓮司だった。


「黒瀬先輩」


声をかけると、蓮司がこちらを見る。


「……おう」


ほんの少し。


返事が遅かった。


みおは足を止める。


「どうしたんですか?」


「何が」


「なんか変です」


「会ってニ日目の奴に何が分かんだよ」


「確かに」


あっさり納得した。


蓮司が拍子抜けしたような顔をする。


「……そこは否定しねえのかよ」


「だって本当にニ日目ですから」


「そうだけどよ」


みおは少し笑ってから、蓮司の手元を見た。


「またコーヒー」


「あ?」


「お昼はちゃんと食べました?」


蓮司の眉間に皺が寄る。


「食った」


「何を?」


「……」


「何を?」


「取り調べかよ」


「何を食べたんですか?」


逃がしてくれる気はないらしい。


蓮司は観念したように答えた。


「……カレーパン」


みおは黙って続きを待つ。


「……」


「……」


蓮司も黙る。


嫌な沈黙だった。


みおの目が少しずつ細くなっていく。


「それだけ?」


「それだけ」


「高校三年生男子のお昼ごはんが、カレーパン一個?」


「朝、購買混んでたんだよ」


「お昼に買えばいいじゃないですか」


「売り切れてた」


「じゃあ別のパンを買えば」


「面倒だった」


「……」


みおの表情が完全に呆れへ変わった。


「何だよ」


「昨日の夜、カップ麺でしたよね」


「食ったとは言ってねえ」


「食べなかったんですか?」


「食った」


「じゃあ同じです」


「何が」


「食生活が心配です」


「……」


蓮司は眉間を押さえた。


「お前、本当に一年か?」


「高校一年です」


「俺の母親じゃねえよな?」


「違います」


「じゃあ放っとけ」


そう言って歩き出そうとする。


だが。


みおも当然のように、その横へついてきた。


「野菜食べてください」


「食ってる」


「いつ?」


「……ネギ」


「ネギ?」


「昨日のカップ麺に入ってた」


「それを野菜にカウントしないでください!」


思わず声が響いた。


近くを歩いていた何人かの生徒が、こちらを見る。


「あ……」


みおは恥ずかしそうに口元を押さえた。


「すみません……」


「声でけえ」


「だって先輩が!」


その反応がおかしくて。


蓮司の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


みおはすぐに気づく。


「あ。また笑った」


「笑ってねえ」


「笑いました」


「授業行け、一年」


「先輩も行ってください、三年生」


「お前、生意気になってきたな」


「先輩には、これくらいでいい気がしてきました」


「誰が慣れろっつった」


「言ってませんけど」


「じゃあ何なんだよ」


「なんとなくです」


みおは楽しそうに笑い、そのまま教室へ向かっていく。


蓮司は、その後ろ姿を少しだけ見送った。


「……」


朝。


真琴からみおのことを聞いてから、どう接すればいいのか。


ほんの少しだけ迷っていた。


変に意識するのも違う。


だからといって、何も考えないのも違うような気がしていた。


けれど。


実際に顔を合わせてみれば。


何も変わらなかった。


さっきまでと同じように小言を言われ。


同じように言い返して。


同じように笑われた。


目の前にいたのは。


やっぱり、佐倉みおだった。


◇


放課後。


みおは学校近くの商店街にあるスーパーで、夕飯の材料を選んでいた。


「にんじん……玉ねぎ……」


今日の夕飯は、鮭の南蛮漬け。


明日の弁当にも使えるように、少し多めに作るつもりだ。


かごの中には鮭のパックと野菜。それから卵や豚肉も入っている。


「あとピーマン――」


野菜売り場の角を曲がったところで。


みおの足が止まった。


「……」


向こう側でも。


一人の男子高校生が、こちらを見て止まっている。


銀灰色の髪。


「……黒瀬先輩?」


蓮司だった。


しかも。


手には買い物かご。


みおの顔がぱっと明るくなる。


「黒瀬先輩!」


「何でそんな嬉しそうなんだよ」


「ちゃんとスーパー来てる!」


「俺を何だと思ってんだ」


「だって昨日はコンビニだったから」


みおは興味津々で蓮司のかごを覗き込んだ。


そして。


笑顔が消えた。


カップ焼きそば。


冷凍チャーハン。


ソーセージ。


炭酸飲料。


以上。


「……」


「なんだ、その顔」


「スーパーに来た意味あります?」


「あるだろ」


「コンビニと内容変わってないじゃないですか」


「安い」


「そういう問題じゃありません」


蓮司は面倒そうに買い物かごを持ち直した。


「じゃあ何買えってんだよ」


「野菜」


「調理がめんどい」


「お肉」


「焼くのめんどい」


「魚」


「骨」


「豆腐」


「味しねえ」


「子供ですか!」


近くで商品を選んでいた主婦が、くすっと笑った。


「……」


蓮司が気まずそうに顔を背ける。


「お前、声」


「あっ……」


みおも周囲の視線に気づき、慌てて声を小さくした。


「ごめんなさい」


「とりあえず移動するぞ」


「はい……」


二人で少し離れた場所へ移る。


けれど、みおはまだ納得していない。


「先輩、本当に料理しないんですね」


「できねえ」


「目玉焼きは?」


「……」


蓮司が黙った。


みおが目を丸くする。


「え?」


「作れる」


「じゃあできるじゃないですか」


「フライパン洗うのが嫌いだ」


「そこ!?」


料理以前の問題だった。


蓮司は逆に、みおの買い物かごを覗き込む。


鮭。


にんじん。


玉ねぎ。


ピーマン。


卵。


豚肉。


自分のかごとは、あまりにも違う。


「お前は毎日やってんのか?」


「だいたいは」


「めんどくさくねえの?」


「料理好きなので」


「変わってんな」


「黒瀬先輩に言われたくないです」


「なんでだよ」


「フライパン洗うのが嫌だから目玉焼き作らない人に言われたくありません」


「……」


それを言われると反論できない。


みおは再び自分のかごを見る。


鮭は四切れ入り。


今晩さきと二人で二切れ。


残った二切れは明日の弁当に使える。


冷蔵庫には、昨日作ったポテトサラダも残っていた。


明日の朝には卵焼きも作る。


「……」


頭の中で献立を組み立てる。


余る。


たぶん。


少しくらいなら。


「何だよ」


蓮司の声で、みおは顔を上げた。


「いえ」


「なんだその顔」


「どんな顔ですか?」


「なんか企んでる顔」


「企んでません」


「してるだろ」


「……先輩」


「あ?」


少し迷った。


それでも。


みおは聞いてみた。


「明日、おかずちょっと持ってきましょうか?」


蓮司が止まる。


「は?」


「たぶん今日、南蛮漬け多めに作るので」


「いらねえ」


即答だった。


「でもカレーパン一個より――」


「いらねえ」


「……そうですか」


みおの肩が、ほんの少しだけ下がる。


「分かりました」


そのまま買い物へ戻ろうとした。


蓮司は、その背中を見る。


「……」


別に。


本当にいらない。


人に飯を作ってもらう理由なんてない。


そもそも知り合ってニ日目だ。


それなのに。


「……待て」


みおが振り返る。


「はい?」


「別に……」


言ってから、蓮司は視線を逸らした。


「おかずが余って、捨てるくらいなら」


「捨てませんけど」


「……」


即答された。


「お姉ちゃんが食べます」


「じゃあいいだろ!」


「はい」


何だ、この会話は。


自分から呼び止めたのに、蓮司は何となく腹が立った。


そんな蓮司を見て。


みおは少し笑う。


「でも」


「何だよ」


「味見くらいなら、してほしいかも」


「……何で」


「料理好きな人って、人に食べてもらって感想聞きたいんですよ」


「そういうもんなのか?」


「私はそうです」


みおは少し考えてから。


「それに先輩、一人暮らしなんですよね」


「そうだけど」


「だったら一食くらい、ちゃんとしたもの食べても罰当たらないです」


「お前なあ……」


「嫌ならいいです」


そう言われると。


なぜだか。


断りにくかった。


蓮司は頭を掻く。


「……勝手にしろ」


みおの顔が、ぱっと明るくなった。


「じゃあ、少しだけ持ってきます」


「少しな」


「はい」


その笑顔を見て。


蓮司は一瞬。


本当に余ったものをもらうだけだ。


と。


なぜか自分に言い聞かせた。


◇


その日の夜。


「……みお」


夕食を終えた佐倉家のダイニングで。


さきは、怪訝な顔でテーブルを見ていた。


「何?」


「それ、何個目?」


「何が?」


「弁当箱」


「……」


みおの手が止まる。


テーブルの上には、明日の朝使う弁当箱が三つ並んでいた。


一つは、自分用。


一つは、さき用。


そして。


もう一つ。


家にあった、黒っぽいシンプルな弁当箱。


さきの口元が、ゆっくり上がった。


「三人家族になった記憶ないんだけど」


「違うよ!」


「じゃあ誰の?」


「……黒瀬先輩」


さきの目が輝いた。


「きた」


「何が!?」


「転校三日目で手作り弁当」


「違うってば!」


みおは慌てて事情を説明する。


「先輩、昨日の夜カップ麺で、今日のお昼なんかカレーパン一個だったの!」


「うん」


「それでスーパーでも冷凍チャーハンとかカップ焼きそばとかしか買ってなくて」


「うんうん」


「だから、おかずをちょっと分けてあげようと思って」


「なるほど」


さきは弁当箱を覗き込む。


中には。


鮭の南蛮漬け。


卵焼き。


ポテトサラダ。


小松菜のおひたし。


そして。


白いご飯。


「……みお」


「何?」


「『おかずをちょっと』って言ってなかった?」


「……」


言われて。


みおも改めて弁当箱を見る。


どう見ても。


普通のお弁当だった。


「だって……」


「うん?」


「おかずだけ渡しても、先輩たぶんご飯用意しないし」


「うん」


「南蛮漬けだけじゃ足りないし」


「うんうん」


「卵焼きも一個余ったし」


「うんうんうん」


「……何、その顔」


さきは楽しそうに頬杖をついている。


「別に?」


「絶対何か思ってる」


「思ってないよ。ただ――」


「ただ?」


「黒瀬先輩、明日めちゃくちゃ友達に弄られそうだなって」


「……」


みおが固まった。


そこまで考えていなかった。


「……やめたほうがいいかな、お弁当」


「なんで?」


「だって、先輩が迷惑だったら……」


さきは少しだけ表情を柔らかくした。


「本人が本当に嫌なら断るでしょ」


「……うん」


「勝手に押しつけるんじゃなくて、一応聞いたんでしょ?」


「聞いた」


「なら、いいんじゃない?」


「……そうかな」


「そうでしょ」


さきはそれ以上茶化さなかった。


代わりに。


弁当箱の卵焼きを指さす。


「それより、その端っこ私にちょうだい」


「さっき食べたでしょ」


「黒瀬先輩だけずるい」


「お姉ちゃんの弁当にも入ってる!」


「今食べたい」


「ダメ」


「ケチ」


「誰のために作ってると思ってるの!」


結局。


いつもの姉妹喧嘩で話は終わった。


◇


翌朝。


いつもの公園前。


蓮司は缶コーヒーを片手に、学校へ向かおうとしていた。


すると。


前方からみおが歩いてくる。


「おはようございます」


「……はよ」


その返事も。


もう三日目になると、少し自然になっていた。


ただ今日は。


みおが学校鞄とは別に、小さな手提げ袋を持っている。


蓮司の目がそこへ向いた。


「先輩」


「あ?」


みおが、その袋を差し出す。


「はい」


「……何だこれ」


「昨日言ったやつです」


「おかず?」


「はい」


受け取る。


――重い。


明らかに。


おかずを少しだけ入れた重量ではない。


蓮司が嫌な予感を覚えて袋を見る。


「おい」


「はい?」


「これ、本当におかずだけか?」


「……」


みおの目が泳いだ。


その時点で答えは出た。


蓮司が袋を少し開ける。


中に入っていたのは。


弁当箱。


そして箸。


「弁当じゃねえか!」


「声大きいです!」


「お前が言うな!」


「だって、おかずだけ渡しても先輩ご飯用意しないと思って!」


「しねえけど!」


「ほら!」


「ほらじゃねえ!」


朝の住宅街に、二人の声が響いた。


少し離れた場所を歩いていた会社員がこちらを振り返る。


「……」


「……」


二人とも同時に口を閉じた。


少しして。


みおが小声で言う。


「……嫌なら返してください」


蓮司は手元の弁当を見る。


「……」


返せばいい。


頼んだわけでもない。


そもそも、昨日だって自分は最初に断った。


だから。


返せば、それで終わる。


「先輩?」


「……今日だけだからな」


結局。


返さなかった。


みおの顔が少し明るくなる。


「はい」


「あと」


「はい?」


「金払う」


「いりません」


「払う」


「いりません」


「材料費かかってんだろ」


「じゃあ」


みおは少し考えて。


笑った。


「感想ください」


「は?」


「お金の代わりです」


「なんだそりゃ」


「いいじゃないですか」


蓮司はみおを見る。


ずいぶん楽しそうな顔をしている。


「……うまかったらな」


「まずかったら?」


「正直に言う」


「いいですよ」


「泣くなよ」


「泣きません」


「ほんとかよ」


「先輩こそ、おいしかったらちゃんとおいしいって言ってくださいね」


「……考えとく」


「そこは言うって言ってください!」


二人は、いつものように並んで学校へ向かう。


蓮司の手には。


生まれて初めてではない。


けれど。


少なくとも、ここ何年かは縁のなかった手作りの弁当がある。


その中身を。


蓮司はまだ知らない。


そして。


三年A組でその蓋を開けた瞬間。


天野陽翔と桐谷真琴による、逃げ場のない尋問が始まることも。


もちろん。


まだ知らなかった。


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