↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/58

第37話 すごく気になる人

それから、しばらく。


大きな事件は起こらなかった。


学校へ行けば授業があり、昼休みがあり、放課後が来る。蓮司と凌がみおを挟んで再びぶつかるようなこともなかった。


少なくとも。


表面上は。


◇ ◇ ◇


「佐倉」


「はい?」


朝。


いつもの公園を出て、みおが蓮司の隣を歩いていると。


蓮司が急に足を止めた。


「それ」


「?」


指を差された先。


みおのマフラーが、片側だけ妙に長く垂れていた。


「あ」


みおが直そうと手を伸ばす。


けれど。


その前に蓮司の手が伸びてきた。


「じっとしてろ」


「自分でできますよ」


「できてねえから言ってんだろ」


「朝、急いでたんです!」


「知らねえよ」


ぶっきらぼうに言いながら。


蓮司は左右の長さを合わせ、首元のマフラーを整えていく。


目の前にある蓮司の手を。


みおは少しだけ意識した。


以前なら。


ただ「世話焼きだな」と思って終わっていたはずなのに。


今は。


自分がこの人を好きなのかもしれない。


そう自覚してしまっている。


「……はい」


蓮司が手を離す。


「ありがとうございます」


「別に」


みおは直されたマフラーへ触れながら、少し笑った。


「先輩」


「あ?」


「最近、私のお姉ちゃんみたいになってません?」


「誰がお前の姉ちゃんだ!」


「だって、食事とか服とか」


「お前が危なっかしいだけだろ!」


「ほら、そういうところ!」


「どこだよ!」


朝から。


いつもの言い合い。


それでも最後には。


二人とも、少し笑っている。


蓮司は相変わらずだった。


口が悪くて。


不器用で。


何かしてくれても、絶対に素直な理由は言わない。


でも。


みおにはもう。


その不器用さの奥に何があるのか。


少しずつ分かるようになっていた。


「行くぞ」


「あ、待ってください」


「遅え」


「先輩が速いんです!」


そんな。


いつもの朝だった。


◇ ◇ ◇


一方。


凌は。


蓮司とはまったく違った。


昼休み。


廊下を歩いていたみおへ、向こうから来た凌がすぐに気づいた。


「あ、佐倉」


「一ノ瀬先輩」


すれ違う直前。


凌が、みおの顔を少し見る。


「今日、髪違う?」


「え?」


思わず、自分の髪へ手を伸ばす。


「少しだけ巻いてきました」


「やっぱり」


それから。


何でもないことのように言った。


「似合ってる」


「……ありがとうございます」


こういうところ。


何度言われても。


やっぱり少し照れる。


蓮司なら。


髪型が変わっていることに気づいたとしても、まず口には出さない。


まして。


「似合ってる」なんて。


たぶん、よほどのことがなければ言わない。


凌は違う。


思ったことを。


何の迷いもなく言葉にする。


「今日、昼どうする?」


「今日は友達と食べます」


「そっか」


凌はそれ以上何も言わなかった。


「じゃあ、また今度」


「はい」


そのまま歩き出す。


数歩。


「佐倉」


「?」


振り返る。


凌もこちらを見ていた。


「卵焼き、忘れないで」


「まだ言ってるんですか!」


「楽しみにしてる」


少し笑って。


今度こそ、そのまま去っていく。


「……もう」


みおも。


小さく笑った。


無理に入り込んではこない。


みおが友達と食べると言えば、すぐに引く。


でも。


時々。


こうして自分の存在をちゃんと意識させていく。


それが。


一ノ瀬凌だった。


◇ ◇ ◇


そんな日々が。


少しずつ積み重なっていった。


蓮司とは。


朝、一緒に学校へ行く。


時々、弁当を作る。


帰る時間が重なれば、一緒に帰る。


休日には、予定が合えばみおの家で夕食を囲むこともあった。


蓮司はもう。


みおの日常の中にいることが。


不思議ではない存在になっていた。


凌とは。


昼休みに話す。


時々、屋上で一緒に食べる。


廊下ですれ違えば自然に声をかけられ。


放課後。


帰る時間が重なれば、少しだけ一緒に歩くこともあった。


最初は。


同じトランスジェンダーという共通点から始まった関係だった。


でも。


今はもう。


それだけではない。


くだらない話をして。


笑って。


料理の話をして。


たまにからかわれて。


また話したいと思う。


それもまた。


いつの間にか。


みおの日常の一部になり始めていた。


◇ ◇ ◇


ある日の夜。


夕食後。


「ごちそうさま」


みおが箸を置く。


「はーい」


今日は。


さきが後片付けをする日だった。


食器を重ねながら、さきが言う。


「今日は私がやるから、みおは座ってて」


「大丈夫?」


「私を何だと思ってるの」


みおは少し考えるふりをした。


「洗剤全部使う人」


「あれ一回だけだから!」


「お皿割った人」


「それも一回!」


「フライパン焦がした人」


「みお」


「何?」


「妹って姉の失敗覚えすぎじゃない?」


みおが笑う。


「じゃあお願いします」


「任せなさい」


さきは食器をキッチンへ運んでいった。


すぐに水の流れる音と。


食器同士が触れ合う小さな音が聞こえてくる。


みおはダイニングテーブルに残り。


頬杖をついた。


「……」


ぼんやり。


壁を見る。


いや。


目は壁を向いているだけで。


何も見ていなかった。


頭の中に浮かんでいたのは。


――佐倉。


凌の声。


――しんどい日は、ここ来れば?


屋上。


――話したいときは話せばいい。


それから。


数日前。


――今日、髪違う?


――似合ってる。


「……」


みおの口元が。


無意識に少し緩んだ。


キッチンで皿を洗っていたさきが。


横目で妹を見る。


「……」


何も言わない。


もう少し。


様子を見る。


みおは頬杖をついたまま。


また。


凌との会話を思い出していた。


少し前の昼休み。


凌が購買で買ってきたカップ麺を見て。


みおが眉をひそめた。


『一ノ瀬先輩、それ食べるんですか?』


『何?』


『激辛って書いてありますけど』


『大丈夫』


『辛いの平気なんですか?』


『普通』


『黒瀬先輩みたい』


『じゃあやめようかな』


『なんでですか!』


本当に。


どうでもいい会話。


なのに。


なぜか。


思い出してしまう。


「……ふふ」


また。


小さく笑った。


その瞬間。


「みお」


「……」


返事がない。


「みーお」


「……」


さきが。


少しだけ声を張った。


「一ノ瀬君」


「えっ!?」


みおが勢いよく顔を上げた。


キッチンから。


さきがこちらを見ている。


「何!?」


「呼んだ」


「なんで一ノ瀬先輩!?」


「やっぱり」


「何が!?」


さきは蛇口を止めた。


濡れた手をタオルで拭きながら、ダイニングへ戻ってくる。


そして。


みおの向かいへ座った。


「最近さ」


「何?」


「ぼーっとしてること多くない?」


「私が?」


「うん」


「そんなことないよ」


「ある」


「ないって」


「夕飯中もたまに止まるし」


「考え事」


「今も?」


「……まあ」


「何考えてた?」


「……」


みおが黙る。


さきが少し笑った。


「黒瀬先輩?」


「……」


すぐに。


答えが出なかった。


みお自身。


そのことに一番戸惑った。


少し前なら。


「黒瀬先輩?」


そう聞かれれば。


図星だったことを隠そうとして慌てていただろう。


でも。


今。


頭の中にいたのは。


蓮司ではなかった。


「……」


さきが目を細める。


「違うんだ」


「え?」


「黒瀬先輩じゃない顔してる」


「顔で分かるの?」


「妹歴長いので」


「何それ」


「じゃあ誰?」


「……」


答えるだけなのに。


なんとなく。


恥ずかしい。


みおは視線を少し落として。


小さな声で言った。


「……一ノ瀬先輩」


さきの眉が。


ほんの少しだけ上がった。


「一ノ瀬君?」


「うん」


「……へえ」


「その『へえ』やめて」


「いや」


さきは腕を組む。


「ちょっと意外だったから」


「何が?」


「前に話したとき」


少しだけ。


声を柔らかくした。


「みお、黒瀬先輩が好きかもって言ってたじゃん」


「……うん」


思い出すだけでも。


まだ少し恥ずかしい。


「なのに最近は、一ノ瀬君?」


「……」


言われて。


みおは初めて。


ここ数日の自分を。


きちんと振り返った。


朝。


蓮司と歩く。


楽しい。


会えば嬉しい。


やっぱり。


好きなのかもしれない。


そう思う。


でも。


昼休みが近づくと。


ふと。


――今日、一ノ瀬先輩いるかな。


そんなことを考えている。


廊下を歩けば。


無意識に。


二年生の教室があるほうへ視線を向ける。


朝。


弁当を作っていて。


卵焼きを見れば。


――黒瀬先輩、これ好きなんだよね。


そう思う。


そのすぐあと。


――一ノ瀬先輩にも一個持っていったら喜ぶかな。


そんなことまで考える。


「……」


みおの目が。


少しずつ大きくなっていった。


さきは。


その変化をじっと見ている。


「気づいた?」


「……何に?」


「今、すごい顔した」


「……」


みおはゆっくり。


両手で頬を押さえた。


「……私」


「うん」


「最近……」


自分で。


言葉にする。


「一ノ瀬先輩のことばっかり考えてるかも」


言った本人が。


一番驚いた。


「……」


さきは。


すぐには何も言わない。


だから。


みおが慌てて続けた。


「いや! ばっかりってほどじゃないけど!」


「うん」


「黒瀬先輩のことも普通に考えるよ?」


「うん」


「朝会えば嬉しいし」


「うん」


「一緒に帰るのも好きだし」


「うん」


「お弁当作るのも嫌じゃないし」


「うん」


「でも……」


そこで。


少しだけ声が小さくなる。


「最近、一ノ瀬先輩が何してるかなって」


「うん」


「今日は会えるかな、とか」


「うん」


「この前話したこと思い出したりとか」


「うん」


そして。


困ったように。


さきを見る。


「……なんで?」


さきが笑った。


「私に聞かれても」


「だって!」


「みおの頭の中でしょ」


「そうだけど……」


みおは。


そのままテーブルへ突っ伏した。


「……分かんない」


「楽しい?」


「何が?」


「一ノ瀬君といるの」


「……うん」


即答だった。


「あ」


自分の答えの速さに。


みお自身が止まった。


さきは。


何も言わず見ている。


「すごく?」


「……」


少しだけ。


迷った。


でも。


ここで嘘をついても仕方がない。


「……すごく」


正直に答える。


「話しやすいし」


「うん」


「トランスのこととか、治療のこと話しても」


「うん」


「変に気を遣わないし」


「うん」


「分かるところは分かるって言ってくれるけど」


みおは少し笑う。


「『同じだから全部分かる』とは言わないし」


「なるほどね」


その共通点は。


確かに。


みおにとって楽だった。


説明しなくても通じることがある。


でも。


それだけではない。


凌が。


自分とは別の人間として。


ちゃんと話を聞いてくれる。


そこが好きだった。


「あと」


「うん」


「褒めるの、恥ずかしくないみたいで」


さきの口元が。


少しずつ上がる。


「髪とか?」


「そう」


「服とか?」


「そう」


「かわいいとか?」


「……それは、たまに」


「ほう」


「やめて!」


みおの頬が赤くなる。


さきは少し笑ったあと。


今度は真面目に尋ねた。


「そう言われるの、嬉しい?」


「……」


みおは考えた。


凌に。


――似合ってる。


そう言われたとき。


嬉しかった。


――話してて楽しい。


そう言われたときも。


嬉しかった。


――また昼、一緒に食べよう。


そう言われれば。


その日を楽しみにしている自分がいる。


「……嬉しい」


素直に答えた。


さきが頷く。


「じゃあ、そりゃ考えるんじゃない?」


「でも」


みおは顔を上げた。


「私、黒瀬先輩が好きなんじゃなかったの?」


「私に聞かないで」


「だってこの前!」


「『好きかもしれない』って言ったのは、みおだよ」


「……」


「私は決めてない」


みおが黙る。


さきは。


少しだけ言葉を選んでから続けた。


「好きって、一人のことを意識した瞬間に、他の人が全員見えなくなるとは限らないと思う」


「……」


「特に」


さきが言う。


「まだ黒瀬先輩と付き合ってるわけでもないんだし」


「うん」


「一ノ瀬君のことを知って」


「うん」


「いいなって思うところが増えて」


「……うん」


「そっちにも気持ちが動くこと自体は、別に変じゃないよ」


みおは。


しばらく考えた。


それから。


恐る恐る尋ねる。


「……二人とも好きってこと?」


「それも、まだ早くない?」


「え?」


「一ノ瀬君のこと」


さきがまっすぐ聞く。


「好き?」


「……」


答えようとする。


でも。


言葉が出なかった。


「……分かんない」


「じゃあ今は、それでいいじゃん」


「また?」


「また」


さきが笑う。


「黒瀬先輩のときも、最初は分かんなかったでしょ?」


「……うん」


「一ノ瀬君も今は」


少しだけ考えて。


「すごく気になる人」


みおが。


その言葉を繰り返した。


「……すごく気になる人」


「それでいいんじゃない?」


「……」


不思議と。


少しだけ楽になった。


無理に。


好きか。


好きじゃないか。


今すぐ決めなくてもいい。


でも。


安心した途端。


また別の不安が浮かんだ。


「でも」


「何?」


「もし」


「うん」


「一ノ瀬先輩のことも好きになったら」


さきが見る。


「うん」


「私……最低じゃない?」


「なんで?」


「二人だよ?」


「同時に?」


「うん」


さきは。


少し考えた。


「別に」


「え?」


「気持ちって、そんなにきれいにコントロールできないでしょ」


「……」


「大事なのは」


さきの声が。


少しだけ真面目になる。


「相手を騙したり」


「……」


「自分の都合のいいように扱ったりしないこと」


みおは黙って聞く。


「まだ誰とも付き合ってない」


「うん」


「自分の気持ちだって、まだ分かってない」


「うん」


「だったら今は」


さきは柔らかく笑った。


「ちゃんと悩めばいいんじゃない?」


「……悩むの?」


「青春じゃん」


「他人事!」


「私は大学生なので」


「ずるい!」


さきが笑う。


みおも。


つられて少し笑った。


でも。


その夜。


みおの中では。


一つのことが確かに変わっていた。


一ノ瀬凌。


これまでは。


話しやすい先輩。


似た経験を持つことで、安心して話せる相手。


少し積極的で。


優しくて。


からかってくることもある人。


そう思っていた。


でも。


今は。


もう。


それだけではないのかもしれない。


会いたいと思う。


今日は話せるかな、と考える。


何気ない会話を、あとになって思い出す。


褒められれば。


少しだけ心臓が跳ねる。


それは。


少なくとも。


ただの先輩へ向ける気持ちとは。


少し違い始めていた。


「……」


また。


みおが黙った。


さきが見る。


「また一ノ瀬君?」


「……」


みおはゆっくり顔を上げる。


「なんで分かるの」


「今の顔」


「どんな顔?」


「恋愛漫画の主人公」


「何それ!」


さきが笑いながら立ち上がった。


「ちょっと待ってて」


「何?」


「部屋行ってくる」


「なんで?」


答えない。


そのまま。


自分の部屋へ消えていく。


「……?」


みおは不思議そうに待った。


数十秒後。


戻ってきたさきの手には。


一冊の本があった。


それを見た瞬間。


みおの顔に。


ものすごく嫌な予感が浮かぶ。


「……お姉ちゃん」


「はい」


さきは。


その本をテーブルへ置いた。


表紙には。


二人の男性。


明らかに。


距離が近い。


「……また?」


「また」


「いらない!」


「まだ何も言ってない」


「BLでしょ!」


「正解」


「なんで今!?」


さきは。


本をみおの前へ滑らせた。


「これ貸してあげる」


「いらないって!」


「もうすぐ必要になるから」


「何が!?」


以前と。


ほとんど同じやり取り。


みおが本を押し返す。


さきも。


押し返す。


「今回は前よりいいよ」


「何が!?」


「三角関係」


「……」


みおの手が。


ぴたりと止まった。


さきが。


にやりと笑う。


「気になる?」


「気にならない!」


「二人の男の間で揺れる話」


「今の私に当てつけてる!?」


「偶然です」


「絶対嘘!」


さきは。


もう一度。


本をみおの側へ押す。


「まあ、読んでみなよ」


「いらない」


「参考になるかも」


「ならない!」


「あと」


さきが。


少し意味ありげに付け加えた。


「これ」


「?」


「前に貸したのより」


一拍。


「ちょっと刺激強いかも」


「……」


みおは。


ゆっくり本を見る。


それから。


ゆっくり。


さきを見る。


「……どういう意味?」


さきは笑顔で立ち上がった。


「読めば分かる」


「お姉ちゃん!」


「じゃ、片付けの続きしてくる」


「待って!」


逃げるように。


さきはキッチンへ戻っていった。


テーブルに残されたのは。


みおと。


一冊のBL漫画。


「……」


みおは表紙を見る。


「……いらない」


小さく呟く。


でも。


本を押し返す手は。


もう伸びなかった。


黒瀬蓮司。


一ノ瀬凌。


二人の顔が。


自然と頭に浮かぶ。


その間に。


置かれた言葉。


――三角関係。


みおの頬が。


少しだけ熱くなった。


「……読むわけないから」


キッチンから。


さきの声が飛んできた。


「はいはい」


「本当に!」


「じゃあ、そこ置いといてー」


「……」


みおは。


もう一度。


本を見る。


そして。


自分の部屋へ戻るとき。


その一冊も。


しっかり一緒に持っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。