第37話 すごく気になる人
それから、しばらく。
大きな事件は起こらなかった。
学校へ行けば授業があり、昼休みがあり、放課後が来る。蓮司と凌がみおを挟んで再びぶつかるようなこともなかった。
少なくとも。
表面上は。
◇ ◇ ◇
「佐倉」
「はい?」
朝。
いつもの公園を出て、みおが蓮司の隣を歩いていると。
蓮司が急に足を止めた。
「それ」
「?」
指を差された先。
みおのマフラーが、片側だけ妙に長く垂れていた。
「あ」
みおが直そうと手を伸ばす。
けれど。
その前に蓮司の手が伸びてきた。
「じっとしてろ」
「自分でできますよ」
「できてねえから言ってんだろ」
「朝、急いでたんです!」
「知らねえよ」
ぶっきらぼうに言いながら。
蓮司は左右の長さを合わせ、首元のマフラーを整えていく。
目の前にある蓮司の手を。
みおは少しだけ意識した。
以前なら。
ただ「世話焼きだな」と思って終わっていたはずなのに。
今は。
自分がこの人を好きなのかもしれない。
そう自覚してしまっている。
「……はい」
蓮司が手を離す。
「ありがとうございます」
「別に」
みおは直されたマフラーへ触れながら、少し笑った。
「先輩」
「あ?」
「最近、私のお姉ちゃんみたいになってません?」
「誰がお前の姉ちゃんだ!」
「だって、食事とか服とか」
「お前が危なっかしいだけだろ!」
「ほら、そういうところ!」
「どこだよ!」
朝から。
いつもの言い合い。
それでも最後には。
二人とも、少し笑っている。
蓮司は相変わらずだった。
口が悪くて。
不器用で。
何かしてくれても、絶対に素直な理由は言わない。
でも。
みおにはもう。
その不器用さの奥に何があるのか。
少しずつ分かるようになっていた。
「行くぞ」
「あ、待ってください」
「遅え」
「先輩が速いんです!」
そんな。
いつもの朝だった。
◇ ◇ ◇
一方。
凌は。
蓮司とはまったく違った。
昼休み。
廊下を歩いていたみおへ、向こうから来た凌がすぐに気づいた。
「あ、佐倉」
「一ノ瀬先輩」
すれ違う直前。
凌が、みおの顔を少し見る。
「今日、髪違う?」
「え?」
思わず、自分の髪へ手を伸ばす。
「少しだけ巻いてきました」
「やっぱり」
それから。
何でもないことのように言った。
「似合ってる」
「……ありがとうございます」
こういうところ。
何度言われても。
やっぱり少し照れる。
蓮司なら。
髪型が変わっていることに気づいたとしても、まず口には出さない。
まして。
「似合ってる」なんて。
たぶん、よほどのことがなければ言わない。
凌は違う。
思ったことを。
何の迷いもなく言葉にする。
「今日、昼どうする?」
「今日は友達と食べます」
「そっか」
凌はそれ以上何も言わなかった。
「じゃあ、また今度」
「はい」
そのまま歩き出す。
数歩。
「佐倉」
「?」
振り返る。
凌もこちらを見ていた。
「卵焼き、忘れないで」
「まだ言ってるんですか!」
「楽しみにしてる」
少し笑って。
今度こそ、そのまま去っていく。
「……もう」
みおも。
小さく笑った。
無理に入り込んではこない。
みおが友達と食べると言えば、すぐに引く。
でも。
時々。
こうして自分の存在をちゃんと意識させていく。
それが。
一ノ瀬凌だった。
◇ ◇ ◇
そんな日々が。
少しずつ積み重なっていった。
蓮司とは。
朝、一緒に学校へ行く。
時々、弁当を作る。
帰る時間が重なれば、一緒に帰る。
休日には、予定が合えばみおの家で夕食を囲むこともあった。
蓮司はもう。
みおの日常の中にいることが。
不思議ではない存在になっていた。
凌とは。
昼休みに話す。
時々、屋上で一緒に食べる。
廊下ですれ違えば自然に声をかけられ。
放課後。
帰る時間が重なれば、少しだけ一緒に歩くこともあった。
最初は。
同じトランスジェンダーという共通点から始まった関係だった。
でも。
今はもう。
それだけではない。
くだらない話をして。
笑って。
料理の話をして。
たまにからかわれて。
また話したいと思う。
それもまた。
いつの間にか。
みおの日常の一部になり始めていた。
◇ ◇ ◇
ある日の夜。
夕食後。
「ごちそうさま」
みおが箸を置く。
「はーい」
今日は。
さきが後片付けをする日だった。
食器を重ねながら、さきが言う。
「今日は私がやるから、みおは座ってて」
「大丈夫?」
「私を何だと思ってるの」
みおは少し考えるふりをした。
「洗剤全部使う人」
「あれ一回だけだから!」
「お皿割った人」
「それも一回!」
「フライパン焦がした人」
「みお」
「何?」
「妹って姉の失敗覚えすぎじゃない?」
みおが笑う。
「じゃあお願いします」
「任せなさい」
さきは食器をキッチンへ運んでいった。
すぐに水の流れる音と。
食器同士が触れ合う小さな音が聞こえてくる。
みおはダイニングテーブルに残り。
頬杖をついた。
「……」
ぼんやり。
壁を見る。
いや。
目は壁を向いているだけで。
何も見ていなかった。
頭の中に浮かんでいたのは。
――佐倉。
凌の声。
――しんどい日は、ここ来れば?
屋上。
――話したいときは話せばいい。
それから。
数日前。
――今日、髪違う?
――似合ってる。
「……」
みおの口元が。
無意識に少し緩んだ。
キッチンで皿を洗っていたさきが。
横目で妹を見る。
「……」
何も言わない。
もう少し。
様子を見る。
みおは頬杖をついたまま。
また。
凌との会話を思い出していた。
少し前の昼休み。
凌が購買で買ってきたカップ麺を見て。
みおが眉をひそめた。
『一ノ瀬先輩、それ食べるんですか?』
『何?』
『激辛って書いてありますけど』
『大丈夫』
『辛いの平気なんですか?』
『普通』
『黒瀬先輩みたい』
『じゃあやめようかな』
『なんでですか!』
本当に。
どうでもいい会話。
なのに。
なぜか。
思い出してしまう。
「……ふふ」
また。
小さく笑った。
その瞬間。
「みお」
「……」
返事がない。
「みーお」
「……」
さきが。
少しだけ声を張った。
「一ノ瀬君」
「えっ!?」
みおが勢いよく顔を上げた。
キッチンから。
さきがこちらを見ている。
「何!?」
「呼んだ」
「なんで一ノ瀬先輩!?」
「やっぱり」
「何が!?」
さきは蛇口を止めた。
濡れた手をタオルで拭きながら、ダイニングへ戻ってくる。
そして。
みおの向かいへ座った。
「最近さ」
「何?」
「ぼーっとしてること多くない?」
「私が?」
「うん」
「そんなことないよ」
「ある」
「ないって」
「夕飯中もたまに止まるし」
「考え事」
「今も?」
「……まあ」
「何考えてた?」
「……」
みおが黙る。
さきが少し笑った。
「黒瀬先輩?」
「……」
すぐに。
答えが出なかった。
みお自身。
そのことに一番戸惑った。
少し前なら。
「黒瀬先輩?」
そう聞かれれば。
図星だったことを隠そうとして慌てていただろう。
でも。
今。
頭の中にいたのは。
蓮司ではなかった。
「……」
さきが目を細める。
「違うんだ」
「え?」
「黒瀬先輩じゃない顔してる」
「顔で分かるの?」
「妹歴長いので」
「何それ」
「じゃあ誰?」
「……」
答えるだけなのに。
なんとなく。
恥ずかしい。
みおは視線を少し落として。
小さな声で言った。
「……一ノ瀬先輩」
さきの眉が。
ほんの少しだけ上がった。
「一ノ瀬君?」
「うん」
「……へえ」
「その『へえ』やめて」
「いや」
さきは腕を組む。
「ちょっと意外だったから」
「何が?」
「前に話したとき」
少しだけ。
声を柔らかくした。
「みお、黒瀬先輩が好きかもって言ってたじゃん」
「……うん」
思い出すだけでも。
まだ少し恥ずかしい。
「なのに最近は、一ノ瀬君?」
「……」
言われて。
みおは初めて。
ここ数日の自分を。
きちんと振り返った。
朝。
蓮司と歩く。
楽しい。
会えば嬉しい。
やっぱり。
好きなのかもしれない。
そう思う。
でも。
昼休みが近づくと。
ふと。
――今日、一ノ瀬先輩いるかな。
そんなことを考えている。
廊下を歩けば。
無意識に。
二年生の教室があるほうへ視線を向ける。
朝。
弁当を作っていて。
卵焼きを見れば。
――黒瀬先輩、これ好きなんだよね。
そう思う。
そのすぐあと。
――一ノ瀬先輩にも一個持っていったら喜ぶかな。
そんなことまで考える。
「……」
みおの目が。
少しずつ大きくなっていった。
さきは。
その変化をじっと見ている。
「気づいた?」
「……何に?」
「今、すごい顔した」
「……」
みおはゆっくり。
両手で頬を押さえた。
「……私」
「うん」
「最近……」
自分で。
言葉にする。
「一ノ瀬先輩のことばっかり考えてるかも」
言った本人が。
一番驚いた。
「……」
さきは。
すぐには何も言わない。
だから。
みおが慌てて続けた。
「いや! ばっかりってほどじゃないけど!」
「うん」
「黒瀬先輩のことも普通に考えるよ?」
「うん」
「朝会えば嬉しいし」
「うん」
「一緒に帰るのも好きだし」
「うん」
「お弁当作るのも嫌じゃないし」
「うん」
「でも……」
そこで。
少しだけ声が小さくなる。
「最近、一ノ瀬先輩が何してるかなって」
「うん」
「今日は会えるかな、とか」
「うん」
「この前話したこと思い出したりとか」
「うん」
そして。
困ったように。
さきを見る。
「……なんで?」
さきが笑った。
「私に聞かれても」
「だって!」
「みおの頭の中でしょ」
「そうだけど……」
みおは。
そのままテーブルへ突っ伏した。
「……分かんない」
「楽しい?」
「何が?」
「一ノ瀬君といるの」
「……うん」
即答だった。
「あ」
自分の答えの速さに。
みお自身が止まった。
さきは。
何も言わず見ている。
「すごく?」
「……」
少しだけ。
迷った。
でも。
ここで嘘をついても仕方がない。
「……すごく」
正直に答える。
「話しやすいし」
「うん」
「トランスのこととか、治療のこと話しても」
「うん」
「変に気を遣わないし」
「うん」
「分かるところは分かるって言ってくれるけど」
みおは少し笑う。
「『同じだから全部分かる』とは言わないし」
「なるほどね」
その共通点は。
確かに。
みおにとって楽だった。
説明しなくても通じることがある。
でも。
それだけではない。
凌が。
自分とは別の人間として。
ちゃんと話を聞いてくれる。
そこが好きだった。
「あと」
「うん」
「褒めるの、恥ずかしくないみたいで」
さきの口元が。
少しずつ上がる。
「髪とか?」
「そう」
「服とか?」
「そう」
「かわいいとか?」
「……それは、たまに」
「ほう」
「やめて!」
みおの頬が赤くなる。
さきは少し笑ったあと。
今度は真面目に尋ねた。
「そう言われるの、嬉しい?」
「……」
みおは考えた。
凌に。
――似合ってる。
そう言われたとき。
嬉しかった。
――話してて楽しい。
そう言われたときも。
嬉しかった。
――また昼、一緒に食べよう。
そう言われれば。
その日を楽しみにしている自分がいる。
「……嬉しい」
素直に答えた。
さきが頷く。
「じゃあ、そりゃ考えるんじゃない?」
「でも」
みおは顔を上げた。
「私、黒瀬先輩が好きなんじゃなかったの?」
「私に聞かないで」
「だってこの前!」
「『好きかもしれない』って言ったのは、みおだよ」
「……」
「私は決めてない」
みおが黙る。
さきは。
少しだけ言葉を選んでから続けた。
「好きって、一人のことを意識した瞬間に、他の人が全員見えなくなるとは限らないと思う」
「……」
「特に」
さきが言う。
「まだ黒瀬先輩と付き合ってるわけでもないんだし」
「うん」
「一ノ瀬君のことを知って」
「うん」
「いいなって思うところが増えて」
「……うん」
「そっちにも気持ちが動くこと自体は、別に変じゃないよ」
みおは。
しばらく考えた。
それから。
恐る恐る尋ねる。
「……二人とも好きってこと?」
「それも、まだ早くない?」
「え?」
「一ノ瀬君のこと」
さきがまっすぐ聞く。
「好き?」
「……」
答えようとする。
でも。
言葉が出なかった。
「……分かんない」
「じゃあ今は、それでいいじゃん」
「また?」
「また」
さきが笑う。
「黒瀬先輩のときも、最初は分かんなかったでしょ?」
「……うん」
「一ノ瀬君も今は」
少しだけ考えて。
「すごく気になる人」
みおが。
その言葉を繰り返した。
「……すごく気になる人」
「それでいいんじゃない?」
「……」
不思議と。
少しだけ楽になった。
無理に。
好きか。
好きじゃないか。
今すぐ決めなくてもいい。
でも。
安心した途端。
また別の不安が浮かんだ。
「でも」
「何?」
「もし」
「うん」
「一ノ瀬先輩のことも好きになったら」
さきが見る。
「うん」
「私……最低じゃない?」
「なんで?」
「二人だよ?」
「同時に?」
「うん」
さきは。
少し考えた。
「別に」
「え?」
「気持ちって、そんなにきれいにコントロールできないでしょ」
「……」
「大事なのは」
さきの声が。
少しだけ真面目になる。
「相手を騙したり」
「……」
「自分の都合のいいように扱ったりしないこと」
みおは黙って聞く。
「まだ誰とも付き合ってない」
「うん」
「自分の気持ちだって、まだ分かってない」
「うん」
「だったら今は」
さきは柔らかく笑った。
「ちゃんと悩めばいいんじゃない?」
「……悩むの?」
「青春じゃん」
「他人事!」
「私は大学生なので」
「ずるい!」
さきが笑う。
みおも。
つられて少し笑った。
でも。
その夜。
みおの中では。
一つのことが確かに変わっていた。
一ノ瀬凌。
これまでは。
話しやすい先輩。
似た経験を持つことで、安心して話せる相手。
少し積極的で。
優しくて。
からかってくることもある人。
そう思っていた。
でも。
今は。
もう。
それだけではないのかもしれない。
会いたいと思う。
今日は話せるかな、と考える。
何気ない会話を、あとになって思い出す。
褒められれば。
少しだけ心臓が跳ねる。
それは。
少なくとも。
ただの先輩へ向ける気持ちとは。
少し違い始めていた。
「……」
また。
みおが黙った。
さきが見る。
「また一ノ瀬君?」
「……」
みおはゆっくり顔を上げる。
「なんで分かるの」
「今の顔」
「どんな顔?」
「恋愛漫画の主人公」
「何それ!」
さきが笑いながら立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
「何?」
「部屋行ってくる」
「なんで?」
答えない。
そのまま。
自分の部屋へ消えていく。
「……?」
みおは不思議そうに待った。
数十秒後。
戻ってきたさきの手には。
一冊の本があった。
それを見た瞬間。
みおの顔に。
ものすごく嫌な予感が浮かぶ。
「……お姉ちゃん」
「はい」
さきは。
その本をテーブルへ置いた。
表紙には。
二人の男性。
明らかに。
距離が近い。
「……また?」
「また」
「いらない!」
「まだ何も言ってない」
「BLでしょ!」
「正解」
「なんで今!?」
さきは。
本をみおの前へ滑らせた。
「これ貸してあげる」
「いらないって!」
「もうすぐ必要になるから」
「何が!?」
以前と。
ほとんど同じやり取り。
みおが本を押し返す。
さきも。
押し返す。
「今回は前よりいいよ」
「何が!?」
「三角関係」
「……」
みおの手が。
ぴたりと止まった。
さきが。
にやりと笑う。
「気になる?」
「気にならない!」
「二人の男の間で揺れる話」
「今の私に当てつけてる!?」
「偶然です」
「絶対嘘!」
さきは。
もう一度。
本をみおの側へ押す。
「まあ、読んでみなよ」
「いらない」
「参考になるかも」
「ならない!」
「あと」
さきが。
少し意味ありげに付け加えた。
「これ」
「?」
「前に貸したのより」
一拍。
「ちょっと刺激強いかも」
「……」
みおは。
ゆっくり本を見る。
それから。
ゆっくり。
さきを見る。
「……どういう意味?」
さきは笑顔で立ち上がった。
「読めば分かる」
「お姉ちゃん!」
「じゃ、片付けの続きしてくる」
「待って!」
逃げるように。
さきはキッチンへ戻っていった。
テーブルに残されたのは。
みおと。
一冊のBL漫画。
「……」
みおは表紙を見る。
「……いらない」
小さく呟く。
でも。
本を押し返す手は。
もう伸びなかった。
黒瀬蓮司。
一ノ瀬凌。
二人の顔が。
自然と頭に浮かぶ。
その間に。
置かれた言葉。
――三角関係。
みおの頬が。
少しだけ熱くなった。
「……読むわけないから」
キッチンから。
さきの声が飛んできた。
「はいはい」
「本当に!」
「じゃあ、そこ置いといてー」
「……」
みおは。
もう一度。
本を見る。
そして。
自分の部屋へ戻るとき。
その一冊も。
しっかり一緒に持っていった。




