第36話 話したかったから、話したんです
その頃。
三年A組で、蓮司が陽翔と真琴を前に、ようやく自分の気持ちを言葉にし始めていた頃。
校舎の屋上では。
みおと凌が、並んで昼食を食べていた。
◇ ◇ ◇
「今日、屋上開いてたんですね」
みおがフェンス越しの空を見上げる。
秋へ入り始めた風が、長い髪をふわりと揺らした。
凌はベンチへ腰を下ろしながら答えた。
「最近知った」
「一ノ瀬先輩、こういう場所好きそう」
「どういう意味?」
「静かなところ」
「佐倉は?」
「私も嫌いじゃないです」
みおも凌の隣へ腰を下ろした。
今日は二人とも、それぞれ自分の昼食を持ってきている。
みおは、いつもの手作り弁当。
凌は購買で買ったサンドイッチとスープだった。
それを見て、みおが感心したように言う。
「今日もちゃんとしてますね」
「黒瀬先輩と比べてる?」
「……なんで分かるんですか」
凌が少し笑った。
「前も同じこと言ってたから」
「黒瀬先輩、本当に放っておくと炭水化物だけで生きようとするんですよ」
「そんなにひどい?」
「カップ麺のねぎを野菜って言います」
「……それはひどいな」
「でしょう?」
二人で笑う。
凌との会話は、やっぱり楽だった。
無理に話題を探さなくてもいい。少しくらい黙っていても気まずくならないし、話し始めれば自然に言葉が続いていく。
「佐倉」
「はい?」
「今日の卵焼きは?」
「ありますよ」
凌の視線が、すぐにみおの弁当箱へ向いた。
「一個」
「嫌です」
「まだ頼んでない」
「顔が頼んでます」
「黒瀬先輩みたいなこと言うな」
みおが吹き出した。
「一ノ瀬先輩までそれ言うようになった」
「影響されたかも」
「私、そんなに黒瀬先輩の話してます?」
凌は一度だけ、みおを見る。
「結構」
「……」
自覚がなかった。
みおが少し気まずそうに弁当へ目を落とすと、凌は気にした様子もなくサンドイッチを一口食べる。
「でも、別にいいよ」
「え?」
「佐倉、楽しそうだし」
「……そうですか?」
「うん」
みおは少しだけ照れながら、自分の弁当から卵焼きを一切れ取った。
「はい」
凌へ差し出す。
「いいの?」
「一個だけです」
「ありがと」
凌は自然に受け取り、そのまま口へ運んだ。
少し噛んでから。
「やっぱり美味しい」
「ほんと好きですね」
「佐倉の卵焼きは好き」
「……」
みおの動きが、一瞬止まった。
凌は何事もなかったようにスープへ手を伸ばしている。
「……その言い方」
「何?」
「ちょっと紛らわしいです」
「そう?」
「そうです」
凌の口元が、少しだけ上がった。
それ以上は何も言わない。
日曜日。
街で偶然会ったあの日。
壁際へ追い込まれて。
――本当に付き合ってみる?
そう言われてから。
凌は、少なくともみおが本当に困るような距離の詰め方はしてこなかった。
話しかけてくる。
昼食にも誘う。
廊下で会えば、自然に隣を歩く。
でも。
無理に触れたり。
逃げ道を塞いだり。
答えを求めたりはしない。
たまに。
今みたいに。
意味があるのかないのか分からない言葉を、さらりと落としてくるくらい。
みおにとっては。
そのくらいの距離が、今は心地よかった。
◇ ◇ ◇
しばらく食事を続けていると。
凌が、ふとみおの顔を見た。
「今日、ちょっと眠そう」
「分かります?」
「分かる」
みおは少し苦笑した。
「昨日、あんまり寝られなくて」
「何かあった?」
「何もないです」
答えてから。
少しだけ考え直す。
「……考え事してました」
「黒瀬先輩?」
「なんでそこに行くんですか!」
「当たった?」
「……」
みおが答えない。
凌が笑った。
「分かりやすい」
「最近みんなそれ言う……」
みおは少し頬を膨らませる。
昨日の夜。
考えていたこと。
黒瀬蓮司のこと。
日曜日、さきへ初めて口にした。
――私、黒瀬先輩のこと好きかもしれない。
一度そう認めてしまうと。
今まで気にならなかったことまで、次々に思い出してしまった。
それで。
気づけば、なかなか眠れなくなっていた。
「でも」
みおは弁当のおかずを箸でつつきながら言った。
「寝不足だけじゃないかも」
凌の表情が少し変わる。
「体調?」
みおは頷いた。
「ちょっとだけ」
以前なら。
相手によっては、ここから先を話すか迷ったと思う。
けれど。
凌には、不思議と普通に言えた。
「治療の薬を続けてる中で、たまにしんどくなる日があるんです」
「うん」
凌は特別な反応をしない。
ただ、みおの続きを待っていた。
「すごく重いとかじゃないんですけど。身体がだるかったり、急に気分悪くなったり」
「前に、学校で倒れそうになったって言ってたやつ?」
「あれも、たぶんそうです」
白鷺怜央に助けられた日。
そして。
蓮司が盛大な勘違いをした日でもある。
「毎回?」
「ううん。全然平気なときもあります」
「じゃあ、予測しづらい?」
「それがちょっと嫌です」
みおは苦笑する。
「朝は平気だったのに、お昼くらいから急にしんどくなることもあるから」
「なるほど」
「学校でなると困るんですよね」
「保健室行けば?」
「分かってるんですけど……」
みおの視線が少し下がった。
「なんか、大げさにしたくなくて」
凌はすぐには答えなかった。
少しだけ考えてから。
「心配されたくない?」
「それもあるかも」
「迷惑かけたくない?」
みおが少し驚いて顔を上げる。
「……あります」
凌は。
『やっぱり』とも。
『気にしすぎ』とも言わなかった。
「佐倉らしいな」
「褒めてないですよね?」
「半分」
「半分?」
「優しいとは思う」
凌は静かにみおを見る。
「でも、自分まで我慢する必要あるのかなって」
「……」
それから。
すぐに言葉を足した。
「まあ、俺が決めることじゃないけど」
「……一ノ瀬先輩って」
「何?」
「そういうところ、いいですよね」
今度は。
凌のほうが少し止まった。
「そういうところ?」
「無理に『こうしろ』って言わないところ」
「言ってほしい?」
「嫌です」
「じゃあ言わない」
「即答」
みおが笑う。
凌も、少し笑った。
「でも」
みおは続ける。
「こういう話、一ノ瀬先輩には普通にできます」
「治療のこと?」
「はい」
「なんで?」
「……分かんないです」
少し考える。
そして。
みおは空を見上げながら答えた。
「たぶん、変に一から説明しなくていいから」
凌は黙って聞いている。
「例えば」
「うん」
「治療自体は、私が望んで続けてるじゃないですか」
「うん」
「身体が少しずつ、自分が望む方向に近づいていくのは嬉しいし」
「うん」
「でも、しんどい日があるって話をすると」
みおは少し言葉を探した。
「『じゃあやめれば?』って、簡単に言われることもあって」
凌の表情が。
ほんの少しだけ変わった。
「……ああ」
「違うんですよね」
「うん」
凌は、ほとんど間を置かず頷いた。
「続けたいことと、つらい瞬間があることは別だろ」
「そう!」
みおが思わず凌を見る。
「それです」
「嫌だから、しんどいわけじゃない」
「はい」
その言葉が。
みおの中へ、すっと入ってきた。
「そういうことなんです」
少し嬉しそうに笑う。
「私、それを説明するの苦手で」
「説明しなくても分かる人がいたほうが楽?」
「楽です」
みおは素直に頷いた。
「すごく」
凌は、その笑顔を見つめた。
これを。
自分にだけ話してくれている。
とは思わない。
みおは信頼した相手になら。
きっと、さきにも。
蓮司にも。
それぞれ違う形で話すのだろう。
それでも。
今。
この時間。
自分の前では何も構えずに。
こういう話をしてくれている。
それが。
素直に嬉しかった。
◇ ◇ ◇
「一ノ瀬先輩は?」
みおが尋ねる。
「俺?」
「そういうこと、ないんですか?」
凌は少し考えた。
「あるよ」
ただ。
それ以上。
自分の治療について細かく説明することはしなかった。
「自分で選んだことでも、しんどい日はある」
「やっぱり」
「でも」
凌は続ける。
「俺と佐倉じゃ違う」
みおが静かに頷く。
「はい」
「そこは一緒にしないほうがいい」
「そうですね」
それが。
みおにとって。
凌と話していて一番心地いいところだった。
同じトランスジェンダー。
だから。
説明しなくても共有できる感覚がある。
でも。
だからといって。
同じ経験をしてきたわけでも。
同じ考えを持っているわけでもない。
凌は。
最初からそこを混同しなかった。
「一ノ瀬先輩って」
「何?」
「最初に会ったときも言ってましたよね」
「何を?」
「『俺と佐倉は別の人間だろ』って」
「ああ」
「私、あれ結構好きです」
凌が。
みおを見る。
「……」
みお自身も。
言ってから気づいた。
「あ」
「何?」
「今のも紛らわしい」
凌の口元が上がる。
「俺は嬉しかったけど」
「言い方!」
「言ったの佐倉だろ」
「そうですけど!」
凌は楽しそうに笑った。
「大丈夫」
「何がですか」
「今のは変な意味に取ってない」
みおが疑うように見る。
「……本当に?」
「半分くらい」
「取ってるじゃないですか!」
みおも笑った。
凌も笑う。
本当に。
こういう時間は。
楽しかった。
◇ ◇ ◇
食事を終えたあとも。
二人はしばらく屋上へ残っていた。
凌はフェンスへ軽く背を預け、みおはベンチに座っている。
少し冷たい風が気持ちいい。
「午後の授業、眠くなりそう」
みおが呟く。
「寝れば?」
「怒られます」
「後ろの席ならバレない」
「一ノ瀬先輩、意外と悪い先輩ですね」
「知ってる」
「認めるんだ」
凌が少し笑う。
そして。
ふと。
みおを見る。
「佐倉」
「はい?」
「しんどい日は」
「?」
何かを言いかける。
でも。
凌は少しだけ言葉を変えた。
「昼、ここ来れば?」
「屋上?」
「うん」
「なんでですか?」
「静かだから」
「一ノ瀬先輩も来る?」
「いるかも」
「……」
みおが、じっと凌を見る。
「それ」
「何?」
「ちょっとアピール入ってます?」
凌が。
少しだけ驚いた顔をした。
みお自身も。
聞いた直後に恥ずかしくなった。
「いや、違ったらいいです!」
「入ってるよ」
即答だった。
「……」
みおが固まる。
凌は平然としている。
「ちょっとだけ」
「……そういうの、普通に言わないでください」
「嫌?」
「嫌ではないですけど……」
言ったあと。
みお自身が気づく。
「あ」
凌の目が笑った。
「じゃあいい」
「またそれ!」
「最近ちょっと控えてるよ」
凌はみおを見る。
「これでも」
「どこがですか」
「本気で押したら、もっと分かりやすい」
「……」
みおの目が。
少しだけ泳ぐ。
日曜日の記憶が。
一瞬だけ戻ってきた。
それを見た凌は。
すぐに笑う。
「今はやらない」
「今は?」
「そこ拾う?」
「拾いますよ!」
凌は笑った。
でも。
それ以上は進めなかった。
◇ ◇ ◇
やがて。
昼休み終了を知らせる予鈴が鳴った。
「あ」
みおが立ち上がる。
「戻らないと」
「うん」
二人で屋上を出た。
階段を下りていき。
一年と二年の教室へ分かれる階で、みおが足を止める。
「じゃあ、私こっちです」
「佐倉」
「はい?」
凌の表情が。
少しだけ真面目になった。
「さっきの話」
「治療?」
「うん」
みおが首を傾げる。
凌は少しだけ言葉を選んでから言った。
「話したいときは、話せばいい」
「……」
「でも」
凌は続ける。
「俺が同じトランスだからって、無理に俺に話す必要もないから」
みおが。
一瞬。
驚いた顔をした。
そして。
すぐに柔らかく笑う。
「分かってます」
「ならいい」
「私が話したかったから、話したんです」
「……」
今度は。
凌の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「そっか」
「はい」
たったそれだけ。
でも。
凌には十分だった。
「じゃあ」
一歩離れる。
「また昼、一緒に食べよう」
「はい」
みおも笑った。
「今度は卵焼き持ってきます」
凌の眉が少し上がる。
「俺の分?」
「一個」
「三個」
「増やさない!」
「じゃあ二個」
「交渉しないでください!」
笑いながら。
二人は、それぞれの教室へ向かった。
◇ ◇ ◇
一人になった凌は。
教室へ向かいながら、少しだけ考えていた。
みおは。
黒瀬蓮司が好きだ。
たぶん。
本人も。
もう気づき始めている。
日曜日。
自分が「付き合ってみる?」と聞いたとき。
みおの頭へ浮かんだのは。
おそらく蓮司だった。
だから。
今。
強く押せば。
みおを困らせるだけだ。
それはしたくない。
けれど。
引くつもりも。
まだなかった。
今日みたいに。
一緒に昼を食べる。
話す。
笑う。
自分といる時間を。
みおが素直に楽しいと思えるなら。
今は。
それでいい。
同じトランスジェンダーだからではなく。
佐倉みおだから。
もっと話したい。
もっと知りたい。
その気持ちは。
もう変わらなかった。
「……」
凌は。
少しだけ笑った。
焦る必要はない。
無理に答えを求める必要もない。
みおが。
自分だから話したいと思えることを。
少しずつ。
増やしていけばいい。
そして。
同じ頃。
三年A組では。
黒瀬蓮司が。
陽翔と真琴を前に。
ようやく口にしていた。
――佐倉のこと、たぶん好きなんだと思う。
同じ昼休み。
違う場所で。
二人の男が。
それぞれのやり方で。
佐倉みおへの気持ちと。
向き合い始めていた。




