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第38話 俺のこと、意識してる?

その夜。


自分の部屋へ戻ったみおは、ベッドの上で一冊の漫画を見つめていた。


さきから半ば押しつけられた、あのBL漫画だ。


「……別に、読む気なかったんだけど」


誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。


そう呟きながら、みおは表紙を開いた。


今回の主人公たちは社会人。


一人を挟んで、性格のまったく違う二人の男性が惹かれ合っていく――さきが言っていたとおり、三角関係を描いた物語だった。


最初は、


「こういうの、本当にお姉ちゃん好きだよね……」


くらいの気持ちだった。


ところが。


十ページ。


二十ページ。


「……」


ページをめくる手が、少しずつ速くなる。


一人は、不器用だった。


口が悪く、好きな相手のことを誰より気にかけているのに、それをうまく言葉にできない。優しくしたいくせに、いざ本人を前にすると素直になれない。


もう一人は、まったく逆。


穏やかで、思ったことをきちんと言葉にする。


相手が嫌がればすぐに引く。


けれど。


必要なところでは迷わず、一歩近づく。


「……」


みおの指が止まった。


「いやいや」


小さく首を振る。


「たまたまだから」


もう一度。


ページへ視線を戻す。


不器用な男。


言葉で伝える男。


その二人の間で、自分がどちらを好きなのか分からなくなる主人公。


どうしても。


二人の顔が重なる。


黒瀬蓮司。


一ノ瀬凌。


「もう……」


みおは枕へ顔を埋めた。


数秒。


そのまま動かない。


けれど。


結局また顔を上げ、続きを読み始めた。


◇ ◇ ◇


物語が進む。


穏やかなほうの男が、とうとう主人公へ気持ちを伝える。


主人公はすぐには受け入れられない。


かといって。


きっぱり断ることもできない。


頭に浮かぶのは。


もう一人の、不器用な男。


「……これ」


みおが小さく呟いた。


「ちょっと……分かるかも」


日曜日。


凌に言われた。


――本当に付き合ってみる?


あの瞬間。


真っ先に浮かんだのは、蓮司だった。


だから。


自分は蓮司が好きなのかもしれない。


そう思った。


なのに今は。


凌のことまで考える。


今日は会えるかな。


昼休みに話せるかな。


今、何しているかな。


そんなことが。


ふとした瞬間に頭へ浮かぶようになっていた。


「……」


ページをめくる。


やがて。


物語の空気が変わった。


ずっと気持ちを押し込めていた人物が、とうとう我慢できなくなる。


距離が近づいて。


相手を抱き寄せて。


そして。


かなり大胆なキスシーン。


「……」


みおの目が止まった。


一ページ。


さらに次。


「……え?」


思っていたより。


ずっと大人向けだった。


その先を強く想像させる展開に、みおの顔が見る見る赤くなっていく。


「えっ……」


もう一ページ。


「ちょ、ちょっと待って……」


数秒後。


「お、お姉ちゃん!!」


ばたん!


勢いよく漫画を閉じた。


「何これ!?」


ベッドの上で、閉じた本を両手で押さえる。


心臓が妙に速い。


「『ちょっと刺激強い』って言ってたけど……!」


ちょっとどころではない。


少なくとも。


今のみおには。


「……」


本を見る。


「……」


開こうとする。


手が止まる。


「無理」


でも。


続きは気になる。


もう一度、手を伸ばす。


「……」


やっぱり止まる。


「無理!」


みおは再び枕へ顔を埋めた。


問題は。


漫画の内容だけではなかった。


頭の中で。


さっき読んだ場面の人物が。


勝手に別の顔へ変わっていく。


蓮司。


「……っ!」


みおは枕をぎゅっと抱き締めた。


「違う違う違う!」


さらに。


そこへ凌まで浮かぶ。


「~~~~っ!」


そのまま布団へ潜り込んだ。


結局。


もう一度漫画を開くまで。


十五分ほどかかった。


そして。


散々悩んだ末に。


最後まで全部読んだ。


◇ ◇ ◇


翌朝。


いつもの公園。


「おはようございます」


「おう」


蓮司は。


いつも通りだった。


銀灰色の髪。


少し眠そうな目。


片手には缶コーヒー。


「行くぞ」


「はい」


二人で歩き始める。


みおが。


ちらり。


隣を見る。


「……」


昨夜の漫画が蘇った。


距離が近づいて。


抱き寄せて。


キス。


「……っ」


勢いよく前を向いた。


蓮司が怪訝そうに見る。


「何だよ」


「何でもないです!」


「朝から声でけえな」


「先輩が聞いたんじゃないですか!」


再び歩く。


けれど。


どうしても気になる。


いつもなら何とも思わない。


隣を歩く蓮司の手。


少し前へ出た肩。


横顔。


「……」


――もし。


黒瀬先輩が。


昨日の漫画みたいに――。


「無理!」


「何が!?」


蓮司が驚いて振り返った。


「え?」


「今、いきなり『無理』って言っただろ」


「言ってません!」


「言った!」


「気のせいです!」


「朝から何なんだよ、お前!」


みおは耳まで赤くしながら歩く。


蓮司が横から覗き込んだ。


「顔赤くね?」


「寒いからです!」


「寒いと赤くなんの?」


「なります!」


「今日そんな寒くねえだろ」


「なります!」


「なんで二回言った」


もう。


うるさい。


というより。


近い。


毎日のように隣を歩いてきた相手なのに。


今日だけ。


妙に蓮司との距離が近く感じる。


交差点へ差しかかったところで、自転車が後ろから近づいてきた。


蓮司が自然に道路側へ出る。


その際。


みおの肩へ軽く手を添えた。


「こっち」


「……っ!」


びくっ。


「は?」


蓮司が止まった。


「何だ今の」


「何でもないです!」


「俺、何かした?」


「してません!」


「じゃあ何でそんな驚くんだよ」


「もう聞かないでください!」


「意味分かんねえ!」


本当に。


分からないのだろう。


蓮司は困惑した顔をしている。


その横で。


みおは一つだけ。


はっきり思った。


――お姉ちゃんのせいだ。


昨夜。


あんな漫画を渡してきた姉を。


今だけは。


心の底から恨んだ。


◇ ◇ ◇


昼休み。


三年A組。


陽翔がパンを片手に、蓮司の前の席へ座った。


「なあ、蓮司」


「何」


「お前さ」


嫌な予感。


蓮司が少しだけ目を細める。


陽翔は声を落とした。


「みおちゃんのこと好きだって自覚してから、もう二週間くらい経ったよな」


蓮司の箸が止まった。


「……何の話だ」


「今言ったじゃん」


「声でけえ!」


「小さいって!」


少し離れたところで弁当を食べていた真琴も、その会話を聞きつけて椅子ごと近づいてきた。


「私もちょっと気になってた」


蓮司が露骨に嫌そうな顔をする。


「何だよ」


真琴は平然と尋ねた。


「何か変わった?」


「何が」


「みおとの関係」


「……」


蓮司は無言で弁当を食べる。


今日も。


みおが作ったものだ。


「別に」


陽翔が目を丸くした。


「何もないの!?」


「何がだよ」


「なんかしただろ?」


「してねえ」


「なんで!?」


「うるせえな!」


真琴も呆れた顔になる。


「黒瀬」


「何」


「好きだって自覚したんでしょ?」


「……まあ」


以前なら。


ここでさえ否定した。


今は。


少なくとも、二人の前では否定できなくなっている。


真琴が続ける。


「一ノ瀬は?」


蓮司の眉が少し動いた。


「知らねえ」


「まだみおと仲いいよ」


「……知ってる」


知りたくなくても。


目に入る。


廊下で話している。


昼休みに一緒にいることもある。


以前ほど噂になってはいないものの。


二人が仲良くしていること自体は、もう珍しくなかった。


陽翔が身を乗り出した。


「だったら何かしろよ!」


「何をだよ!」


「誘うとか!」


「……」


「放課後どっか行こうとか!」


「……」


「好きって言うとか!」


「それは無理」


即答。


真琴が額へ手を当てた。


「情けな」


「うるせえ」


「一ノ瀬には宣戦布告されてるんでしょ?」


「……ああ」


「それで何もしないの?」


「何かしようとは思ってんだよ」


「じゃあしなよ」


「……」


蓮司が顔を逸らす。


数秒。


ぼそり。


「……恥ずいんだよ」


「……」


陽翔。


真琴。


二人とも止まった。


蓮司が気づく。


「何だよ」


陽翔は。


信じられないものを見るような顔をしていた。


「蓮司が……」


「何だよ」


「恥ずかしい……?」


「ぶっ飛ばすぞ」


真琴が淡々と口を挟む。


「昔、上級生四人相手に喧嘩してた人が」


「その話出すな!」


「女の子一人誘うのは恥ずかしくてできないんだ」


「……」


「情けない」


「うるせえ!」


陽翔が腹を抱えて笑う。


「やばい! 蓮司にもそんな感情あったんだ!」


「お前から殴るぞ」


「ほら! 殴るのはすぐ出る!」


「出してねえ!」


とうとう真琴まで笑い始めた。


蓮司は腹立たしそうに机へ肘をつく。


「じゃあ何て誘えばいいんだよ!」


真琴が真顔へ戻った。


「普通に」


「その普通が分かんねえから聞いてんだよ!」


「『佐倉、今度どっか行くぞ』」


「……それでいいの?」


「黒瀬なら、それくらいでいいんじゃない?」


陽翔も案を出す。


「映画!」


「この前みんなで行った」


「遊園地!」


「いきなり重いだろ」


「水族館!」


「……」


蓮司が少し考える。


真琴が呆れたように言った。


「本当に恋愛経験ゼロなんだ」


「悪いか」


「悪いとは言ってない」


「顔が言ってんだよ」


そこで。


陽翔が突然、ぱんっと手を打った。


「あ!」


「何だよ」


「いいこと思いついた!」


蓮司は即座に嫌そうな顔をする。


「大体ろくでもねえ」


「みんなでお泊まり会しよう!」


「……は?」


蓮司と真琴の声が重なった。


陽翔は気にせず続ける。


「蓮司ん家で!」


「嫌だ」


即答。


「早い!」


「狭え」


「入れるって!」


「何人呼ぶ気だ」


陽翔は指を折り始めた。


「俺」


「来るな」


「真琴」


「勝手に入れないで」


「七瀬ちゃん」


真琴が少しだけ反応する。


「結衣?」


「で」


陽翔の口元が、にやりと上がった。


「みおちゃん」


「……」


蓮司が黙った。


ほんの一瞬。


陽翔は見逃さない。


「今迷った!」


「迷ってねえ!」


「でも、みおちゃん泊まりに来るぞ?」


「そういう言い方すんな!」


「何想像した?」


「殺すぞ!」


「怖っ!」


真琴は少し考え込んだ。


「……でも」


蓮司が見る。


「何だよ」


「面白そう」


「桐谷!?」


真琴はもうスマートフォンを取り出していた。


「結衣に聞いてみる」


「今!?」


「うん」


素早くメッセージを打つ。


『今度、黒瀬の家でみんなで泊まろうって天野が言ってる』


送信。


蓮司が立ち上がった。


「待て!」


「もう送った」


「何でお前ら俺ん家の予定、俺抜きで決めてんだよ!」


陽翔が楽しそうに笑う。


「家主の許可はあと!」


「一番最初だろ!」


数秒後。


真琴のスマートフォンが鳴った。


「来た」


「早っ」


画面には。


『行きたいです!』


そのすぐ下。


『みおちゃんも来ますか?』


真琴が画面を蓮司へ向ける。


「行きたいって」


「……」


陽翔が満足そうに両手を叩いた。


「決まりだな!」


「決まってねえ!」


「じゃあ次、みおちゃんに聞こう!」


「勝手に聞くな!」


「じゃあ蓮司が聞けよ」


「……」


ぴたり。


蓮司の動きが止まる。


陽翔と真琴が。


同時に見る。


「……何だよ」


真琴が淡々と言った。


「誘う練習」


「……」


「みおに自分で聞いてみたら?」


蓮司は。


少しだけ顔を赤くした。


「……あとでな」


陽翔が目を輝かせる。


「進歩!」


「うるせえ!」


◇ ◇ ◇


その頃。


屋上。


「寒くなってきましたね」


みおが空を見上げた。


風は。


少し前より明らかに冷たくなっている。


凌が隣で言った。


「そろそろ屋上もきついかもな」


「冬は絶対無理ですね」


「じゃあ別の場所探す?」


みおが凌を見る。


「一ノ瀬先輩、もう次のお昼考えてるんですか?」


「うん」


「早い」


二人は。


いつものベンチへ並んで座っていた。


今日のみおの手元には、自分用の弁当とは別に小さな保存容器がある。


凌用。


だし巻き卵。


二切れ。


「はい」


みおが差し出した。


凌が蓋を開ける。


「二個」


「特別です」


「嬉しい」


素直に言って。


一つを口へ運ぶ。


「美味しい」


みおが笑った。


「毎回同じ感想ですね」


「毎回美味しいから」


「……」


また。


こういうことを。


さらっと言う。


少し前なら。


――一ノ瀬先輩って、そういう言い方しますよね。


そう笑って終わっていた。


今日も。


笑える。


なのに。


少しだけ違う。


昨夜。


あの漫画を読んだからなのか。


それとも。


さきから。


――一ノ瀬君は、すごく気になる人。


そう言われたからなのか。


凌の顔を。


以前より。


意識してしまう。


「佐倉?」


「……」


「佐倉」


「え?」


気づくと。


凌の顔が近くにあった。


みおの表情を覗き込んでいる。


「……っ」


反射的に。


少し身体を引いた。


凌はすぐに止まる。


「どうした?」


「い、いえ」


「今日、変だよ」


「そうですか?」


「うん」


凌が少し首を傾げた。


「俺の顔、何かついてる?」


「ついてません!」


「じゃあ何で見てた?」


「……」


見ていた。


らしい。


自覚がない。


「ごめんなさい」


「何で謝るの?」


「じっと見ちゃったから」


「別に」


凌が少し笑う。


「佐倉ならいいよ」


「……」


どくん。


心臓が。


一つだけ強く鳴った。


「……そういうの」


「何?」


「さらっと言わないでください」


「なんで?」


「……困るから」


凌が。


みおの顔を静かに見る。


以前なら。


ここでもう一歩。


からかうような言葉を重ねたかもしれない。


けれど今日は。


「分かった」


それだけだった。


本当に。


そこで止めた。


みおが少し意外そうに見る。


「……本当に引くんですね」


「嫌そうだったから」


「嫌っていうか……」


そこで。


言葉が止まる。


嫌ではない。


むしろ。


嫌ではないから。


困っている。


少し前なら。


凌に褒められたり。


距離を詰められたりしても。


ただ恥ずかしいだけだった。


今は。


その言葉一つ一つに。


何か意味があるのではないかと。


考えてしまう。


凌が、そんなみおを見た。


「佐倉」


「はい?」


そして。


あまりにも普通の声で聞く。


「俺のこと意識してる?」


「……っ!」


みおの顔が。


一瞬で赤くなった。


「な、なんでそうなるんですか!」


「今日、分かりやすいから」


「……」


凌の口元が。


少し上がる。


「冗談」


「……」


みおは。


じっと睨んだ。


「それ、前もやりましたよね」


「今回は壁ない」


「そういう問題じゃないです!」


凌が笑う。


けれど。


それ以上は追及しなかった。


スープへ口をつけ。


少しして。


何でもないように。


ぽつり。


「意識してもらえるなら」


みおが横を見る。


「……?」


凌は。


前を向いたまま言った。


「悪い気はしないけど」


「……」


それだけだった。


また。


あと少しのところまで近づいて。


決定的な一線は越えない。


みおは自分の弁当へ目を落とす。


卵焼きを食べながら。


横目で。


凌を見る。


優しい。


話しやすい。


自分が困れば。


きちんと引いてくれる。


でも。


それだけではない。


凌は。


自分を明確に。


一人の女の子として見ている。


「……」


黒瀬先輩が好き。


そう思った。


今も。


その気持ちがなくなったわけではない。


なのに。


どうして。


一ノ瀬先輩の一言でも。


こんなに心臓が動くんだろう。


「佐倉」


「はい?」


「またぼーっとしてる」


「……最近よく言われます」


「誰に?」


「お姉ちゃん」


「何考えてるの?」


「言いません」


凌が少しだけ笑う。


「俺のこと?」


「言いません!」


「……」


否定。


しなかった。


言ってから。


みお自身が気づく。


凌も。


当然気づいた。


けれど。


何も言わない。


ただ。


ほんの少しだけ。


嬉しそうに笑った。


「……」


その横顔を見て。


みおはまた。


昨夜読んだ漫画を思い出してしまう。


性格の違う二人の男。


その間で。


自分の気持ちが分からなくなっていく主人公。


黒瀬蓮司。


一ノ瀬凌。


「……」


まさか。


本当に。


自分まで。


あんなふうになるなんて。


少し前のみおには。


想像もできなかった。


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