第30話 噂だけが先に走る
三年A組。
昼休み。
「……一ノ瀬って知ってるか」
蓮司の、何気ないふりをしてまったく何気なくない質問に。
真琴は箸を止めた。
「二年の一ノ瀬凌?」
「たぶんそいつ」
「たぶんって」
「俺、顔知らねえし」
陽翔が二人を交互に見る。
「だから誰なんだよ、その一ノ瀬って」
真琴は少し考えてから、蓮司を見る。
「聞きたい?」
「だから聞いてんだろ」
「へえ」
「何だよ」
「別に」
「お前、その言い方やめろ!」
真琴は少し笑ったあと、知っている範囲で話し始めた。
「二年。一ノ瀬凌。かなり背が高い」
「それは佐倉から聞いた」
「顔もいい」
蓮司の眉が動く。
「……それも聞いた」
陽翔が反応した。
「イケメン!?」
「らしいよ。二年では結構有名」
「どのくらい?」
「女子から格好いいって言われてるのはよく聞く」
蓮司の箸が止まる。
「……モテんのか」
真琴が、その反応を見逃すはずがない。
「まあ、モテるんじゃない?」
「……」
「告白されたこともあるって聞くし」
陽翔が感心したように腕を組む。
「強キャラじゃん」
「ゲームみたいに言うな」
「背高い、顔いい、落ち着いてる、女子に人気」
陽翔が一つずつ指を折る。
最後に。
蓮司を見る。
「蓮司と正反対だな!」
「喧嘩売ってんのか」
「でも蓮司も顔はいいって!」
「フォローになってねえ!」
真琴は二人を無視して、もう一つ思い出したように付け加えた。
「あと、一ノ瀬もトランスジェンダーだよ」
「……あ?」
蓮司が顔を上げる。
陽翔も「ああ」と少しだけ目を丸くした。
「みおちゃんと同じってこと?」
陽翔が尋ねる。
真琴は首を振る。
「同じトランスジェンダーではあるけど、同じではないよ。一ノ瀬は出生時には女性として扱われてたけど、本人は男。今は普通に男子生徒として学校生活送ってる」
「へえ」
「じゃあ、みおちゃんとは逆って感じ?」
「出生時にどう扱われてたかだけ見ればね。でも、本人たちは別の人間なんだから、何でも同じだと思わないほうがいいよ」
「ああ、そりゃそうか」
「うん」
蓮司も少しだけ考えるように黙った。
トランスジェンダー。
その言葉自体に驚いたわけではない。
みおのことを知ったときと同じだ。
本人が男として生きているなら。
凌は男。
蓮司にとって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ただ。
一つだけ。
引っかかった。
「……だから佐倉と仲良くなったのか?」
真琴が蓮司を見る。
「それは知らない」
「でも、話しやすい部分はあるかもな」
陽翔が言う。
「同じことで分かる話とかありそうじゃん」
「まあ、それはあるかもしれないね」
真琴は頷いた。
「でも、それだけで仲良くなるとも限らないでしょ」
「……」
蓮司は黙った。
確かに。
似た経験を持っているから話しやすい。
それなら理解できる。
けれど。
それだけなら。
わざわざ二人で帰る必要はあるのか。
鞄まで持つ必要は。
そして今日。
みおが弁当を作るほどの関係になるのか。
陽翔が、そんな蓮司を見ながら口を開く。
「でもさ」
「何だよ」
「一ノ瀬って男なんだろ?」
蓮司が睨む。
「今その話しただろ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
陽翔は指を一本立てた。
「みおちゃんから見たら、普通に恋愛対象になり得る男子ってことだろ?」
「……」
今度こそ。
蓮司の表情が止まった。
真琴が陽翔を見る。
「珍しく核心ついたね」
「珍しくは余計!」
蓮司は何も言わなかった。
けれど。
一ノ瀬凌という存在が。
さっきまでより。
ほんの少しだけ、はっきりした輪郭を持ち始めていた。
真琴は、そのまま続ける。
「あと」
蓮司が見る。
「何だよ」
「金曜日」
真琴は少しだけ間を置いた。
「結衣が、みおと一ノ瀬が二人で帰ってるところ見たって」
「……」
蓮司の動きが。
完全に止まった。
「二人で?」
「うん」
「……」
「一ノ瀬が、みおの鞄持ってたらしいよ」
「……」
陽翔が蓮司を見る。
「蓮司?」
返事がない。
真琴は続ける。
「結構楽しそうだったって」
「……そう」
声が。
露骨に低い。
陽翔が少しだけ口元を緩めた。
「蓮司」
「何だよ」
「顔」
「あ?」
「怖い」
「普通だ」
「その『普通』、みおちゃんにも機嫌悪いときのやつって見抜かれてんだろ?」
「……」
蓮司が黙った。
真琴が吹き出す。
「そこまで読まれるようになったんだ」
「うるせえ」
陽翔はまだ考えている。
「でもさ」
「何だよ」
「一ノ瀬って、みおちゃんが格好いいって言ったんだろ?」
蓮司の眉間に皺が寄る。
「……言った」
陽翔は真顔になった。
「結構ライバルとして強くね?」
「誰のライバルだよ!」
蓮司の声が教室中に響いた。
一瞬。
周囲の視線が集まる。
「……」
陽翔が声を落とす。
「蓮司の」
「違え」
「何が?」
「俺と佐倉は付き合ってねえ」
真琴が淡々と返した。
「だからライバルになるんじゃない?」
「……」
蓮司が詰まった。
「ああ!」
陽翔が納得する。
「納得すんな!」
真琴は何食わぬ顔で弁当を食べながら言う。
「まあ、一ノ瀬がみおを好きだとは誰も言ってないけど」
「……」
蓮司の目が動いた。
「今の言い方何だよ」
「何が?」
「『誰も言ってない』って」
「そのままだけど」
「なんか含みあんだろ」
「ないよ」
「嘘つけ」
真琴は少し笑う。
けれど。
今度は少しだけ真面目な声になった。
「ただ、悪い噂は聞かない」
蓮司も表情を戻す。
「……そうなのか」
「うん。少なくとも、誰かと適当に付き合ってるとか、そういう話は聞いたことない」
「へえ」
「結衣も、学校で見る限りは落ち着いた人って言ってた」
蓮司は黙って弁当へ目を落とす。
照り焼き。
きんぴら。
ポテトサラダ。
そして。
卵焼きが三切れ。
今朝までなら。
それだけで少し機嫌がよくなっていたはずなのに。
今日に限っては。
もう一つの弁当箱が頭から離れない。
一ノ瀬凌。
まだ。
顔すら知らない。
「黒瀬」
「あ?」
「先に言っとくけど」
真琴が蓮司を見る。
「一ノ瀬がどういう人かも知らないうちから、敵扱いするのはやめなよ」
「してねえ」
「もう顔がしてる」
「してねえ!」
陽翔が小声で言った。
「めちゃくちゃしてる」
「黙れ」
蓮司は苛立ったように、卵焼きを一つ口へ入れた。
いつも通り。
うまい。
それが。
今日は少しだけ複雑だった。
◇ ◇ ◇
その頃。
二年生の教室では。
別の意味で。
佐倉みおと一ノ瀬凌の名前が、急速に結びつき始めていた。
きっかけは。
ほんの少し前。
一年生の女子が、二年生の教室までやってきたこと。
しかも。
手には弁当袋。
「ねえ」
凌がみおと一緒に教室を出ていったあと。
近くにいた女子が、隣の友人へ声を落とした。
「今の子……佐倉さんだよね?」
「一年の?」
「うん。二学期に転校してきた」
「一ノ瀬に何渡してた?」
「お弁当じゃない?」
「え?」
別の女子も会話へ加わる。
「手作り?」
「たぶん」
「待って」
「何?」
一人が。
凌とみおが消えていった廊下を見る。
「一ノ瀬、あのまま佐倉さんについて行ったよね?」
「行った」
「昼ごはん持って?」
「うん」
「……どこ行ったの?」
「一年の教室じゃない?」
「えっ」
そこへ。
教室の入り口近くにいた男子が振り返った。
「さっき一ノ瀬、『佐倉の教室で食う』って言ってたぞ」
「……」
女子たちが黙る。
数秒。
「え?」
「わざわざ一年の教室まで?」
「手作り弁当持って?」
「一緒に昼食?」
「いや、友達もいるんじゃない?」
「それでも!」
そこから。
話が少しずつ膨らみ始めた。
「そういえば」
別の女子が思い出したように言う。
「金曜日、一緒に帰ってたって聞いた」
「誰と誰が?」
「一ノ瀬と佐倉さん」
「えっ!?」
「本当?」
「一年の子が見たらしいよ」
「二人で?」
「らしい」
「しかも一ノ瀬が鞄持ってたとか」
「何それ」
「待って待って」
一人の女子が両手で口元を押さえる。
「ちょっと絵面強くない?」
「分かる」
「めちゃくちゃ分かる」
凌。
百八十センチを超える長身。
整った顔。
普段は静かで、どちらかといえば近寄りがたい。
みお。
長い髪。
柔らかな顔立ち。
二学期に転校してきて、すでに一年生ではかなり顔を知られている。
「長身イケメン先輩と美少女後輩」
「身長差すごいよね」
「先輩後輩」
「しかも手作り弁当」
「金曜日、一緒に帰宅」
「……」
一人が真顔で言った。
「設定が強い」
すぐ横から突っ込みが入る。
「現実の人に設定って言うな!」
「でも分かるでしょ!?」
「気持ちは分かる!」
「分かるんだ!」
止める側まで笑っている。
さらに。
「一ノ瀬が女子から手作り弁当もらうの、珍しくない?」
「というか受け取るのが意外」
「今まで誰かにもらってるの見たことない」
「しかもそのまま一緒に昼食行った」
「……」
また。
数秒の沈黙。
「付き合ってる?」
「いや、それは飛躍」
「でも可能性ない?」
「分かんないって!」
「聞けば?」
「一ノ瀬本人に?」
「無理!」
「何で!」
「普通に聞きづらい!」
笑い声が上がる。
もちろん。
事実は単純だ。
凌が、みおの料理を食べてみたいと言った。
みおが弁当を作った。
二人は約束どおり、友人たちもいる一年B組で昼食を食べている。
それだけ。
けれど。
噂というものは。
事情が一つ抜けるだけで。
簡単に形を変える。
◇ ◇ ◇
昼休みの終わり頃。
凌が二年生の教室へ戻ってきた。
手には。
空になった弁当箱。
みおから借りたものだ。
教室へ入った瞬間。
「……」
妙に視線を感じる。
凌は周囲を見る。
何人かが、分かりやすく目を逸らした。
「?」
自分の席へ戻る。
すると。
近くの男子が聞いてきた。
「一ノ瀬」
「何?」
「昼、どこ行ってた?」
「一年の教室」
「……」
やっぱり。
何人かが反応した。
凌が眉を寄せる。
「何?」
「いや」
男子は笑いを堪える。
「楽しかった?」
「うん」
即答。
「……」
今度こそ。
周りが黙った。
凌は気にする様子もなく席へ座る。
借りた弁当箱を見る。
照り焼きも。
きんぴらも。
ポテトサラダも。
卵焼きも。
全部、美味しかった。
「……」
ほんの少しだけ。
口元が緩む。
それを。
近くにいた女子が見逃さなかった。
「ほら!」
「何」
「今笑った!」
「笑うだろ」
「何で!?」
「弁当美味しかったから」
「……!」
完全に。
燃料を追加した。
女子が隣の友人の腕を叩く。
「聞いた!?」
「聞いた!」
凌が怪訝そうな顔をする。
「何なんだよ」
「何でもない!」
「絶対何かあるだろ」
今度は女子たちが目を逸らした。
◇ ◇ ◇
そして。
学校の噂は速かった。
昼休みが終わる頃には。
「一ノ瀬と一年の佐倉さん、最近仲いいらしい」
だったものが。
午後の授業が始まる頃には。
「金曜日に二人で帰ってた」
「一ノ瀬が鞄持ってた」
「今日、佐倉さんが手作り弁当を届けた」
「そのあと一年の教室で一緒に食べた」
へ増えていく。
さらに。
誰かが最後に。
「もしかして付き合ってる?」
を付け加えた。
確定した事実ではない。
本人たちに確認した者もいない。
それなのに。
話を聞いた次の人間からすれば。
「もしかして」は。
いつの間にか。
「らしい」に変わる。
そして。
「一ノ瀬凌と佐倉みお、付き合ってるらしい」
という。
まったく事実ではない噂が。
二年生の中で走り始めていた。
◇ ◇ ◇
午後。
二年生の教室。
休み時間。
結衣は友人と話していた。
「ねえ、結衣」
「何?」
「一ノ瀬君って知ってる?」
結衣の動きが止まる。
「……顔くらいなら」
金曜日。
みおと一緒に帰っていた男子。
それ以前から同じ学年なので、名前と顔くらいは知っていた。
「どうしたの?」
友人が少し興奮気味に言う。
「一年の佐倉さんと付き合ってるって!」
「……え?」
結衣が固まった。
「付き合ってる?」
「って噂」
「いやいや」
すぐに否定した。
少なくとも。
金曜日の時点で、みおは蓮司を意識している。
本人から。
それらしい相談まで受けている。
凌と金曜日に一緒に帰っていたことは知っているが。
だからといって。
翌週の月曜日に突然付き合っているとは考えにくい。
「それ、違うんじゃない?」
「でも今日さ」
友人が身を乗り出す。
「佐倉さんが、一ノ瀬君の教室まで手作り弁当持ってきたって」
「……」
これは。
知らなかった。
結衣の表情が変わる。
「お弁当?」
「うん」
「佐倉さんが?」
「そう」
「一ノ瀬君に?」
「そう!」
友人は続ける。
「そのあと一ノ瀬君、佐倉さんと一年の教室まで行ったって」
「……一緒にお昼?」
「らしい」
「友達もいたんじゃない?」
「そこは知らない」
やはり。
細かい部分が抜け落ちている。
結衣は小さくため息をついた。
「それだけで付き合ってるになるの?」
「だって金曜日も二人で帰ってたんでしょ?」
「……それ私が見たやつ」
友人の目が輝く。
「え!?」
「声大きい!」
「結衣、見たの!?」
「見たけど」
「じゃあ本当じゃん!」
「二人で帰ってたことはね」
「鞄も持ってもらってた?」
「……なんでそこまで広まってるの」
結衣は少し怖くなる。
学校の噂の伝達速度が速すぎる。
「でもさ」
友人が楽しそうに言う。
「見た目だけでも、めっちゃお似合いじゃない?」
「そういう問題?」
「一ノ瀬君、格好いいし」
「それは分かるけど」
「佐倉さん可愛いし」
「それも分かるけど」
「身長差もあるし」
「だから?」
「先輩後輩!」
「情報を並べるだけで恋愛にしないの」
「結衣、真面目!」
「普通!」
友人は笑う。
けれど。
結衣の頭の中では。
もう別のことが動き始めていた。
――手作り弁当。
金曜日。
一緒に帰るだけなら。
友達として普通にあり得ると思った。
実際。
みおは凌と話しやすそうだった。
でも。
今日は。
みおが弁当まで作った。
しかも。
凌はそれを受け取って。
みおの教室まで一緒に昼食を食べに行った。
「……」
もちろん。
それだけで恋愛とは限らない。
みおは料理が好きだし。
人に何かしてあげることも多い。
蓮司へ弁当を作っている理由だって。
最初は食生活を心配したからだった。
――でも。
結衣は金曜日の凌を思い出す。
みおの鞄を持って。
隣を歩いて。
学校で見かけるときより。
明らかに柔らかい顔をしていた。
「……」
問題は。
みおより。
むしろ凌のほうなのではないか。
そんな気が。
少しだけ強くなった。
◇ ◇ ◇
結衣はスマートフォンを取り出した。
真琴へ連絡しようか。
少し迷う。
金曜日。
二人で話したとき。
真琴は言った。
――私たちから黒瀬に言うことじゃない。
そこは。
今も同意する。
蓮司へわざわざ告げ口するつもりはない。
でも。
真琴には。
言っておきたい。
というより。
言いたかった。
『真琴先輩』
送信。
少しして。
『何?』
返信が来る。
『金曜日の一ノ瀬君の話』
すぐ既読。
『うん』
結衣は入力する。
『今日、佐倉さんが一ノ瀬君に手作り弁当を持ってきたらしいです』
既読。
一秒。
二秒。
三秒。
返事がない。
「……」
さらに数秒。
『は?』
結衣が思わず笑った。
真琴でも。
驚くらしい。
『しかも、一ノ瀬君そのまま佐倉さんと一年の教室へ行って、一緒にお昼食べたみたいです』
今度は。
既読がついてから少し長かった。
『みお何してんの』
『本人は普通にお弁当作っただけだと思います』
『だろうね』
結衣もそう思う。
だからこそ。
次の一文を送った。
『でも今、二年で二人が付き合ってるって噂になってます』
即座に既読。
『早すぎでしょ』
『ですよね』
『本人たちは?』
『たぶんまだ知らないと思います』
『一ノ瀬がみおをどう思ってるかは?』
結衣は少し迷う。
『分かりません』
少しして。
真琴から返事。
『黒瀬にはまだ言わないで』
『はい』
そこは。
最初からそのつもりだった。
ただ。
結衣には。
一つだけ気になることがある。
『でも真琴先輩』
『何』
『これ、黒瀬先輩が自分で聞くの時間の問題じゃないですか?』
既読。
今度は。
しばらく返事が来なかった。
「……」
やがて。
『そうなんだよね』
結衣は画面を見つめた。
金曜日までは。
ただ。
みおと凌が仲良くなった。
それだけだった。
けれど。
今日。
手作り弁当という一つの出来事で。
本人たちより先に。
周囲が二人の関係へ名前をつけ始めている。
一ノ瀬凌。
佐倉みお。
二人は。
まだ恋人ではない。
お互いの関係について。
そんな話すらしたことがない。
なのに。
周囲だけが。
勝手に先へ進んでいく。
そして。
学校という場所では。
噂は学年の壁など簡単に越える。
結衣はスマートフォンを見ながら、小さく呟いた。
「……黒瀬先輩、聞いたらどうなるんだろ」
金曜日は。
少しくらい焦ればいいのに、と。
真琴と笑っていた。
でも。
この噂の速さを見ると。
少しだけ。
心配になってきた。




