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第29話 二つのお弁当

週明けの月曜日。


午前六時半。


佐倉家のキッチンには、いつもより多くの弁当箱が並んでいた。


一つ目は、みお。


二つ目は、さき。


三つ目は――黒瀬蓮司。


そして。


四つ目。


「……」


起きてきたさきは、ダイニングテーブルの上を見たまま動きを止めた。


「みお」


「何?」


「増殖してる」


「何が?」


「弁当」


みおはフライパンで卵焼きを巻きながら答える。


「今日は四つ」


「見れば分かる」


さきは眠そうな目のまま、一つずつ指差した。


「私」


「うん」


「みお」


「うん」


「黒瀬くん」


「うん」


そして。


最後の一つ。


「……誰?」


みおの手が、ほんの一瞬止まった。


「一ノ瀬先輩」


「誰?」


「二年生の先輩」


一気にさきの眠気が消えた。


「男?」


「男」


「へえ」


みおがすぐに警戒する。


「何、その『へえ』」


「何も」


「絶対何かある」


「黒瀬先輩以外にも、お弁当作る男子ができたんだなあって」


「そういうんじゃないから!」


即答だった。


みおは焼き上がった卵焼きをまな板へ移しながら説明する。


「一ノ瀬先輩には、この前パンもらったお返しで卵焼きあげたの」


「うん」


「そしたら、お弁当も食べてみたいって言われて」


「うんうん」


「それに今日、一緒にお昼食べる約束してるから。せっかくだし作ろうかなって」


さきの眉が少し上がった。


「一緒に食べるんだ?」


「友達も一緒だよ!」


「まだ何も言ってないけど」


「顔が言ってる!」


みおは包丁を手にし、焼き上がっただし巻き卵を切り分けていく。


今日は八切れ。


さきが横から覗き込んだ。


「配分は?」


「何の?」


「卵焼き」


「私とお姉ちゃんが一個ずつ」


「うん」


「黒瀬先輩が三個」


「強い」


「一ノ瀬先輩も三個」


「同数!」


「そこに意味つけないで!」


みおの頬が赤くなる。


「黒瀬先輩は好きだから」


さきが見る。


「卵焼きが!」


「まだ何も言ってないよ」


「絶対言うと思った!」


さきは笑いながら、今度は二つの大きめの弁当箱を見比べた。


今日のおかずは、鶏肉の照り焼き、だし巻き卵、きんぴらごぼう、ほうれん草の胡麻和え、小さなポテトサラダ。それに少しだけブロッコリーと白いご飯。


基本的な中身は同じ。


ただし。


「黒瀬先輩のほうが、ちょっと多い」


「食べるから?」


「うん。一ノ瀬先輩は、どれくらい食べるかまだ知らないし」


「なるほどねえ」


みおは凌用の弁当を見る。


金曜日。


――佐倉の弁当、食べてみたい。


そう言われた。


それなら一度くらい、ちゃんと作ってみようかなと思った。


自分の料理を食べたいと言われること自体は、素直に嬉しい。


それ以上でも。


それ以下でもない。


その隣。


蓮司用の弁当。


こちらはもう、何度作ったのか分からなくなってきた。


肉は少し多め。


卵焼きは甘さを控えめに。


野菜も、蓮司が食べやすいように少し工夫してある。


さきが、すぐにそれに気づいた。


「黒瀬くんのだけ、ブロッコリー小さくしてある」


「そのままだと最後まで残すから」


「お母さんじゃん」


「違う!」


「一ノ瀬先輩のは?」


「普通」


「ふーん」


さきは二つの弁当箱を見比べる。


どちらも。


みおが男子のために作った弁当。


けれど。


同じではない。


凌の弁当は。


頼まれたから。


食べたいと言ってくれたから。


せっかくなら、美味しく食べてほしい。


そんな気持ち。


蓮司の弁当は。


何が好きで。


どれくらい食べて。


どの野菜を後回しにして。


卵焼きを最後まで残すことが多いのか。


もう。


本人に聞かなくても、自然に手が動く。


そこまで生活の癖を覚えてしまっている。


「……」


さきは。


あえて何も言わなかった。


今それを指摘すると。


朝から面倒なことになる。


「で」


さきがコーヒーを淹れながら聞く。


「その一ノ瀬先輩って、どんな人?」


「背が高い」


「黒瀬くんより?」


「うん。百八十三くらいあると思う」


「でか」


「あと、格好いい」


さらり。


みおの口から出た。


「……」


さきが止まる。


みおも。


一秒遅れて止まった。


「……」


さきが、ゆっくり顔を向ける。


「格好いい?」


「いや!」


みおが慌てる。


「一般的に!」


「私はまだ何も言ってないよ」


「学校でもモテるみたいだし! 顔も整ってるし!」


「みおも格好いいと思うんだ?」


「普通に思うよ!」


「へえ」


「だから、その顔やめて!」


さきは楽しそうにコーヒーを口へ運ぶ。


「黒瀬くんは、一ノ瀬先輩のこと知ってるの?」


「たぶん知らない」


「ふうん」


「何?」


「いや」


さきは、いかにも楽しそうに笑った。


「学校、面白くなってきたなって」


「お姉ちゃんは観客じゃないんだから!」


朝から、みおの声がキッチンに響いた。


◇ ◇ ◇


午前七時四十分。


いつもの公園。


みおは今日は、通学鞄とは別に二つの弁当袋を持っていた。


一つは蓮司。


もう一つは凌。


公園の向こう。


いつもの自動販売機の前に、蓮司がいる。


「おはようございます」


「おう」


蓮司は缶コーヒーを持ったまま振り返り。


すぐに、みおの手元へ視線を落とした。


「……」


袋が。


二つ。


「今日、多くね?」


「あ」


みおは片方を差し出した。


「はい」


「俺の?」


「そうです」


蓮司が受け取る。


もう。


以前のように「いらねえ」とは言わない。


「また作ったのか」


「この前、料理また食べたいって言ってくれたじゃないですか」


「ハンバーグの話だろ」


「今日はおかずも多めに作ったので。まあ、ついでです」


「意味分かんねえ」


口ではそう言いながら。


弁当袋を持つ手は、しっかりしている。


「何入ってんの」


「鶏の照り焼きです」


「ああ」


少し間を置き。


「卵焼きは?」


みおが笑った。


「そこだけ確認するんですね」


「確認しただけだ」


「三個です」


「聞いてねえ」


「嬉しいくせに」


「うるせえ」


二人で歩き出す。


けれど。


数歩進んでも。


蓮司の視線は。


もう一つの弁当袋へ戻っていた。


「……で」


「はい?」


「そっちは」


みおも自分の手元を見る。


「あ、これ?」


「お前のじゃねえだろ」


「私のは鞄の中です」


「じゃあ誰の」


みおは。


本当に何気なく答えた。


「一ノ瀬先輩です」


蓮司の歩幅が。


ほんの少しだけ遅くなった。


「……誰?」


「二年生の先輩です」


「二年?」


「はい」


蓮司は、もう一つの弁当袋を見る。


「なんでそいつに弁当作ってんの」


「この前、パンもらったんです」


「パン?」


「友達にお昼分けすぎて、お腹空いてたときにくれて」


蓮司の眉間に。


少しだけ皺が寄った。


「それで?」


「お返しに卵焼きあげたら、美味しいって言ってくれて」


「……」


「前に、お弁当も食べてみたいって言われてたから」


「……」


みおが横を見る。


「先輩?」


「何」


「なんで急に機嫌悪くなったんですか」


「悪くねえ」


「悪いですよ」


「普通だ」


「その『普通』、機嫌悪いときのやつです」


「うるせえ」


みおは少し考えた。


そして。


「あ」


何かに気づいた顔をする。


「もしかして」


「何だよ」


「自分の分が減ったと思ってます?」


「は?」


「大丈夫ですよ。ちゃんと別々に作ってありますから」


「そういう話じゃねえ!」


「じゃあ何ですか?」


「……」


蓮司が黙る。


言えるわけがない。


他の男にも。


自分と同じように弁当を作っている。


それが。


なんとなく気に入らない。


そんなこと。


「……別に」


「またそれ」


蓮司は前を向いたまま歩く。


数歩して。


「一ノ瀬って」


「はい?」


「どんな奴」


みおが少し驚いて蓮司を見る。


「興味あるんですか?」


「ねえよ」


「今聞いたじゃないですか」


「二年の奴なんか知らねえから聞いただけだ」


「えっと……」


みおは凌の姿を思い浮かべる。


「背がすごく高くて」


「ふーん」


「落ち着いてて」


「ふーん」


「優しいです」


蓮司の眉が少し動く。


「あと、話しやすいです」


さらに。


少しだけ動く。


「結構、格好いいって有名みたいで」


今度は。


蓮司の足が止まった。


みおも数歩先で止まり、振り返る。


「先輩?」


「お前」


「はい?」


蓮司は。


聞かなくてもいいことを。


聞いた。


「そいつのこと、格好いいと思ってんの?」


「え?」


みおが目を丸くする。


蓮司自身も。


口にした直後。


何を聞いているんだと思った。


「……いや」


顔を逸らす。


「何でもねえ」


けれど。


みおは少し考えて。


普通に答えた。


「格好いいと思いますよ」


「……」


蓮司の顔が固まった。


「顔、整ってますし」


「……そう」


「でも」


「何だよ」


みおが蓮司を見る。


「黒瀬先輩とは、全然タイプ違います」


「……」


「一ノ瀬先輩は、すごくスマートです」


蓮司の眉が寄る。


「それ、俺への悪口?」


「違います!」


「俺はスマートじゃねえのか」


「自覚あるじゃないですか」


「お前な」


みおが笑う。


その顔を見て。


蓮司の機嫌も。


ほんの少しだけ戻る。


けれど。


一ノ瀬凌。


二年生。


背が高い。


落ち着いている。


優しい。


話しやすい。


格好いい。


そして。


みおが。


わざわざ弁当を作る相手。


「……」


まだ顔すら知らない。


なのに。


気になる条件だけは。


妙に揃っていた。


「黒瀬先輩?」


「何だよ」


「卵焼き、三個入ってますからね」


「それはもう聞いた」


「だから機嫌直してください」


「悪くねえっつってんだろ!」


また。


朝の住宅街に。


二人の声が響いた。


◇ ◇ ◇


学校へ到着し。


学年ごとの教室へ向かうところで、二人は別れた。


「じゃあ、また」


みおが軽く手を振る。


「おう」


蓮司も三年の教室へ向かう。


数歩。


歩いたところで。


ふと。


振り返った。


みおの手には。


まだ。


もう一つの弁当袋がある。


「……一ノ瀬」


小さく呟く。


顔も知らない。


話したこともない。


なのに。


なぜか。


もう少しだけ。


気に入らなかった。


◇ ◇ ◇


昼休み。


二年生の教室。


みおは、少し緊張しながら入口から中を覗いた。


「すみません。一ノ瀬先輩いますか?」


近くにいた男子生徒が振り返る。


「あ、一ノ瀬ー」


教室の奥。


凌が顔を上げた。


そして。


みおを見つけた瞬間。


すぐに席を立つ。


「佐倉」


廊下へ出てくる。


「どうした?」


「約束」


みおが弁当袋を差し出した。


凌の視線が。


袋へ落ちる。


「……本当に作ったんだ」


「食べてみたいって言ったの、先輩じゃないですか」


「そうだけど」


凌が受け取る。


想像していたよりも。


しっかり一人分の弁当だった。


「卵焼きだけだと思ってた」


「それは金曜日のお返しです」


「じゃあ今日は?」


「前に、お弁当も食べたいって言ってたから」


みおは少し笑う。


「それに今日、お昼一緒に食べる約束でしたよね」


凌の表情が。


少しだけ柔らかくなる。


「覚えてた?」


「私から『友達も一緒なら』って言ったんですけど」


「じゃあ行こう」


「今から?」


「昼休みだから」


「そうですけど」


凌は教室へ戻って自分の飲み物だけ持つと、すぐに戻ってきた。


「佐倉の教室?」


「はい、先輩がいいなら」


「俺は平気」


二人で一年B組へ向かう。


歩きながら、凌が弁当袋を少し持ち上げた。


「何入ってる?」


「照り焼きと、きんぴらと、ポテトサラダと、ほうれん草と――」


凌が続ける。


「卵焼き?」


「三個」


凌の口元が少し上がった。


「三個」


「何ですか?」


「ちゃんと増えた」


「金曜日も三個でした!」


「じゃあ維持」


「何の評価なんですか」


凌が笑う。


みおも。


つられて少し笑った。


◇ ◇ ◇


一年B組。


みおが凌と一緒に戻ってきた瞬間。


友人たちの動きが。


一瞬止まった。


「……」


「……」


みおが嫌な予感を覚える。


「何?」


「いや……」


友人の一人が凌を見る。


そして。


みおを見る。


「本当に一ノ瀬先輩来た……」


「今日一緒に食べるって言ってたでしょ」


凌は特に気にした様子もなく、空いている椅子を借りる。


「ここいい?」


「どうぞ」


こうして。


みおの友人たちも交えて。


少し珍しい昼食が始まった。


凌が弁当箱を開ける。


「……」


ほんの少し。


目を見開いた。


みおが不安になる。


「何ですか?」


「ちゃんとしてる」


「失礼ですね!」


「違う」


凌が少し笑う。


「思ってたより嬉しい」


「……」


そんなことを。


また普通の顔で言う。


みおは反応に困って。


自分の弁当を開けた。


「早く食べてください」


「うん」


凌はまず。


照り焼きを口へ運ぶ。


数回噛んで。


「美味しい」


みおの顔が。


すぐに明るくなった。


「ほんとですか?」


「うん」


次にきんぴら。


ポテトサラダ。


そして。


卵焼き。


「これ、やっぱり好き」


「よかった」


みおが嬉しそうに笑う。


そのやり取りを。


友人たちは妙に静かに見ていた。


「……何?」


みおが気づく。


「何でもない」


「絶対何かある!」


友人たちが笑う。


凌は。


まるで気にしていなかった。


◇ ◇ ◇


食事が少し進んだところで。


凌が言った。


「次、俺も何か返す」


「いらないですよ」


「俺が嫌」


みおの箸が止まる。


「……それ」


「何?」


「私の真似ですか?」


凌が少し笑う。


「使いやすい」


「黒瀬先輩みたいなこと言う」


凌の目が。


ほんの少しだけ動いた。


「黒瀬」


「あ」


「三年の?」


「はい」


「よく話に出るな」


みおが少し考える。


「……そうですか?」


「うん」


凌は別に不機嫌になった様子もない。


ただ。


覚えている。


黒瀬蓮司。


初めて話した日から。


みおの口から。


自然に何度も出てくる名前。


「仲いいんだ」


「近所なので」


「それだけ?」


「え?」


凌がみおを見る。


ほんの数秒。


みおは。


質問の意味が分かっていない顔をしている。


凌は少しだけ笑った。


「いや」


「何ですか?」


「また今度」


「気になる!」


「卵焼き食べる」


「逃げましたよね?」


凌は答えず。


本当に次の卵焼きを口へ運んだ。


◇ ◇ ◇


同じ頃。


三年A組。


蓮司が弁当箱を開けた瞬間。


陽翔がやってきた。


「またある!」


「うるせえ」


「みおちゃんの?」


「そうだよ」


真琴も蓮司の机へ目を向ける。


「最近、普通に弁当持参みたいになってるね」


「俺が作ってるわけじゃねえ」


「分かってる」


陽翔が羨ましそうに中を覗き込む。


「照り焼き……」


「見るだけな」


「まだ何もしてない!」


そして。


卵焼きへ視線が移る。


「三個!」


蓮司はすぐに弁当箱を自分側へ引いた。


「触んな」


「まだ触ってないって!」


「顔が触ってる」


「どういう状態だよ!」


真琴は。


そんな二人を見ながら。


蓮司の顔を少し観察していた。


朝から。


微妙に機嫌が悪い。


「黒瀬」


「何」


「何かあった?」


「ねえ」


「ある顔してるけど」


「ねえっつってんだろ」


陽翔が照り焼きを狙いながら尋ねる。


「みおちゃんと喧嘩?」


「してねえ」


「じゃあ何」


「……」


蓮司は黙った。


言う必要などない。


知らない二年生のことが。


なんとなく気になるだけ。


聞く必要もない。


そのはずだった。


「……一ノ瀬って知ってるか」


結局。


口から出た。


真琴の箸が止まる。


「……」


陽翔が首を傾げた。


「誰?」


真琴だけは。


金曜日。


結衣から聞いた名前を思い出していた。


一ノ瀬凌。


みおと二人で帰っていた。


みおの荷物を持っていた。


「……二年の?」


蓮司がすぐに真琴を見る。


「知ってんの?」


「名前くらい」


「どんな奴」


「……」


真琴は。


すべてを理解した。


口元が。


ほんの少しだけ上がる。


蓮司が睨んだ。


「何だよ」


「いや」


真琴は平然と答える。


「ついに知ったんだと思って」


「何を?」


「一ノ瀬」


「だから何なんだよ!」


陽翔だけが。


完全に置いていかれている。


「だから誰!? 一ノ瀬って誰!?」


真琴は少しだけ。


楽しそうに笑った。


そして。


蓮司の弁当箱には。


みおが作った卵焼きが三切れ。


同じ頃。


一つ下の階では。


凌の弁当箱にも。


同じように三切れの卵焼きが入っていた。


見た目は。


同じ三切れ。


けれど。


みおが二人に向けている気持ちまで。


同じというわけではない。


その違いを。


この時の蓮司は。


まだ知らなかった。


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