第28話 黒瀬先輩は、まだ知らない
同じ金曜日の放課後。
少し時間を戻して――。
七瀬結衣は昇降口で靴を履き替えながら、スマートフォンを確認していた。
画面には、真琴から届いたばかりのメッセージ。
『委員の仕事、あと十五分くらい』
結衣はすぐに返信する。
『はーい。校門の近くで待ってます』
今日は真琴と一緒に帰る約束をしていた。
先に外へ出て待っていよう。
そう思い、スマートフォンを鞄へしまって昇降口を出たところで。
「……あれ?」
結衣の足が止まった。
少し先。
ちょうど校門を出ようとしている二人の生徒がいる。
一人は、すぐに分かった。
「佐倉さん?」
みおだった。
その隣には。
背の高い男子生徒。
しかも。
みおが普段持っているサブバッグを、その男子が持っている。
「……黒瀬先輩?」
一瞬そう思った。
けれど。
すぐに違うと分かる。
蓮司よりさらに背が高い。
髪は銀灰色ではなく、黒に近い濃紺。
立ち姿も、どこか蓮司とは違う。
落ち着いていて。
すらりとしていて。
そして何より。
同じ二年生の結衣には、その顔に見覚えがあった。
「……一ノ瀬君?」
一ノ瀬凌。
クラスは違う。
直接話したこともない。
それでも顔と名前くらいなら知っている。
かなり背が高く、顔立ちも整っているため、二年生ではそれなりに有名な男子だった。一年生の女子が「格好いい先輩」と話しているのを聞いたこともある。
ただ。
結衣が知っているのは、本当にその程度だ。
「……」
みおと凌は並んで歩いている。
何かを話して。
みおが笑った。
凌も少し笑う。
結衣の眉が、わずかに上がった。
学校ですれ違う凌は、もっと静かで近寄りがたい印象だった。
少なくとも。
今のみおと話しているときの表情とは、かなり違う。
そして。
みおが凌の持っているサブバッグへ手を伸ばした。
返してもらおうとしているらしい。
けれど凌が、それをひょいと上へ持ち上げる。
身長差のせいで。
みおの手は届かない。
「……」
何か言っている。
声までは聞こえない。
けれど。
みおが怒ったように何度か手を伸ばし。
凌が少し笑っていることは分かる。
みおも、本気で嫌がっているようには見えなかった。
「へえ……」
思わず声が漏れた。
どう見ても。
今日初めて話した二人ではない。
少なくとも。
みおは凌にかなり自然に接している。
凌のほうも。
みおとの距離に遠慮がない。
やがて二人は校門を出て。
駅とは反対側。
住宅街へ続く道を歩いていった。
「……」
結衣は、その背中をしばらく見送る。
最近のみお。
蓮司を意識し始めたことは、結衣も知っている。
本人から。
――気になる人、なのかもしれません。
そう聞いたばかりだ。
そのみおが。
今日は別の男子と二人で帰っている。
しかも。
ずいぶん楽しそうに。
「……」
結衣は少し考え。
口元を緩めた。
「真琴先輩に言ったら、どんな顔するんだろ」
◇ ◇ ◇
十五分後。
「結衣」
校舎から真琴が出てきた。
「お待たせ」
「お疲れさまです」
ベンチに座っていた結衣が立ち上がる。
「ごめん。思ったより長引いた」
「全然。スマホ見てたからすぐでしたよ」
真琴は自然に結衣の隣へ並んだ。
そのまま二人で校門を出る。
「どこか寄る?」
結衣が尋ねる。
「結衣は?」
「クレープ食べたいです」
「また甘いの?」
「真琴先輩も食べるじゃないですか」
「私は付き合い」
結衣がじっと真琴を見る。
「前にチョコバナナへアイス追加してましたよね」
「……」
「付き合い?」
数秒。
真琴が答える。
「今日はストロベリーにする」
「食べる気満々じゃないですか」
結衣が笑う。
真琴も、ほんの少しだけ笑った。
二人は駅の方向へ歩いていく。
今日の授業。
教師の話。
週末の予定。
そんな何気ない会話をしているうちに。
結衣が思い出した。
「あ、そうだ」
「何?」
「さっき佐倉さん見ました」
真琴が少しだけ反応する。
「みお?」
「はい」
「帰るところ?」
「そうです」
「じゃあ何?」
結衣が、少しだけ意味ありげな顔をした。
「男の人と一緒でした」
真琴の歩幅が。
ほんの少しだけ遅くなる。
「……黒瀬?」
「違います」
「天野?」
「違います」
今度こそ。
真琴が結衣を見る。
「じゃあ誰?」
「一ノ瀬君」
「……」
一瞬。
真琴の足が止まった。
「一ノ瀬?」
「はい。一ノ瀬凌君」
「……二年の?」
「そうです」
真琴も名前くらいは聞いたことがあった。
直接話したことはないが。
二年生に、とにかく背の高い男子がいる。
顔もいいらしい。
女子から結構人気がある。
そのくらいの話なら耳に入っている。
「背、高い奴でしょ」
「はい」
「その一ノ瀬と、みおが?」
「二人で帰ってました」
真琴の目が少し細くなる。
「たまたま一緒になったとか?」
「そこまでは分かりません」
結衣は正直に答えた。
「私、一ノ瀬君とは話したことないですし」
「うん」
「ただ……」
「ただ?」
結衣は先ほどの光景を思い出す。
「結構、仲良さそうでした」
真琴の表情が変わった。
明らかに。
少し興味を持った顔。
「どのくらい?」
「佐倉さんのバッグ持ってました」
「……」
「佐倉さんが返してほしそうに手を伸ばしてたんですけど」
「うん」
「一ノ瀬君が高く持ち上げて」
真琴の眉が上がる。
「へえ」
「身長差があるから佐倉さん届かなくて」
「……へえ」
二回目。
一回目とは。
少し意味が違う。
結衣が笑う。
「何ですか、その顔」
「別に」
「黒瀬先輩みたい」
「やめて」
即答だった。
「最近ちょっと似てきましたよ」
「最悪」
「そこまで言います?」
二人で少し笑ったあと。
真琴は歩きながら考える。
一ノ瀬凌。
確か。
それなりにモテる。
本人に彼女がいるという話は、少なくとも聞いたことがない。
「一ノ瀬って」
「はい」
「結構モテる奴じゃなかった?」
「らしいですね」
結衣も頷く。
「同じ学年でも、格好いいって言ってる子いますよ」
「誰かと付き合ってるって話は?」
「私は聞いたことないです」
「……そっか」
真琴が少し黙る。
結衣は。
そんな真琴の横顔を見て。
気づいた。
「真琴先輩」
「何?」
「黒瀬先輩のこと考えてます?」
「……」
一瞬の沈黙。
図星だった。
「やっぱり」
結衣が笑う。
真琴は小さく息を吐いた。
「だって」
「はい」
「みお、最近やっと黒瀬のこと意識し始めたところでしょ」
「そうですね」
「そこで」
真琴は前を向いたまま言う。
「別の男と、ずいぶん仲良くなってる」
「しかもモテる」
「うん」
「しかも格好いい」
「そこ大事?」
「大事ですよ」
真琴は少しだけ笑う。
「まあ、それはそうか」
結衣は先ほどの二人を思い返す。
「でも」
「何?」
「どうやって仲良くなったんでしょうね」
「それはちょっと気になる」
「佐倉さん、最初は年上の男子にあんなに自然に話すタイプじゃなかったですよね?」
真琴が考える。
確かに。
転校してきたばかりの頃のみおなら。
初対面の男子と。
あんなふうに遠慮なくバッグを取り返そうとしたり。
怒ったように何かを言ったり。
そう簡単にはしなかった気がする。
「……意外と話合うのかもね」
「かもしれません」
それ自体は。
何も悪いことではない。
みおが誰と仲良くするかは。
みお自身が決めることだ。
そして真琴も。
ただ男子と仲良くしているというだけで、すぐに恋愛へ結びつけるつもりはなかった。
けれど。
結衣が、ぽつりと続ける。
「ただ」
「?」
「一ノ瀬君のほうは、どうなんでしょうね」
真琴が横を見る。
「何が?」
「佐倉さんのこと」
「……」
結衣は。
先ほど見た凌を思い出していた。
みおの鞄を持ち。
みおのほうを見ながら笑っていた。
学校ですれ違うだけでは。
ほとんど見たことのない表情。
「話したことない人だから、全然分からないですけど」
「うん」
「なんとなく」
結衣は少し考え。
「佐倉さんと一緒にいたくて、一緒に帰ってるように見えました」
真琴が黙る。
「……」
「ただの勘です」
「結衣のそういう勘、結構当たるんだよなあ」
「え?」
「私のときもそうだったし」
「真琴先輩?」
「なんでもない」
結衣の口元が嬉しそうに緩んだ。
それを誤魔化すように。
今度は真琴が話を戻す。
「でも、もしそうなら」
「はい」
真琴の頭に。
一人の男が浮かぶ。
黒瀬蓮司。
「……面倒なことになりそう」
「黒瀬先輩ですか?」
「他に誰がいるの」
結衣が少し笑う。
「大丈夫ですかね」
「大丈夫じゃないんじゃない?」
「一ノ瀬君が?」
「黒瀬が」
結衣が吹き出した。
「そっち?」
「だって」
真琴は淡々と言う。
「白鷺が倒れそうになったみおを支えただけで、勝手に勘違いして不機嫌になった男だよ」
「ああ……」
結衣も思い出す。
当時は。
蓮司自身も、自分がなぜあれほど気にしていたのか分かっていなかった。
しかも。
相手の怜央には。
長年付き合っている彼女がいた。
「白鷺先輩のときは、完全な勘違いでしたもんね」
「そう」
「でも今回は」
結衣は少し考える。
「一ノ瀬君に彼女がいるかも分からない」
「うん」
「佐倉さんと二人で帰ってる」
「うん」
「荷物まで持ってる」
「うん」
二人が黙る。
「……」
結衣がぽつり。
「危ないですね」
真琴も頷く。
「黒瀬がね」
「やっぱりそっちなんだ」
二人で笑う。
◇ ◇ ◇
少しして。
真琴の表情が。
ほんの少しだけ真面目になった。
「まあ」
「はい」
「まだ何も分かんないけどね」
「そうですね」
「一ノ瀬がみおをどう思ってるのかも」
「はい」
「みおが一ノ瀬をどう思ってるのかも」
「……はい」
そこは。
勝手に決めるべきではない。
みおは最近。
確かに蓮司を意識している。
けれど。
だからといって。
これから先、誰とどんな関係を築くのかまで決まっているわけではない。
「みおが誰と仲良くするかは、みおの自由だし」
真琴が言う。
結衣も頷いた。
「そうですね」
「黒瀬が勝手に焦るなら」
少し間を置いて。
「それくらい焦ればいい」
結衣が笑う。
「厳しい」
「ずっと『別に』ばっかり言ってるから」
「でも最近、ちょっと変わってきましたよ」
「だから、あと一歩」
結衣は真琴を見る。
「真琴先輩、黒瀬先輩を応援してるんですか?」
「黒瀬を?」
「はい」
真琴は少し考えた。
「別に」
「またそれ」
「私は」
真琴は少しだけ声を柔らかくする。
「みおが幸せなら、それでいい」
結衣が黙って聞く。
「黒瀬だからって理由で選べとは思わないし」
「はい」
「一ノ瀬だから駄目とも思わない」
まだ。
一ノ瀬凌という人間のことを。
真琴はほとんど知らない。
だから。
判断する材料すらない。
「ただ」
「?」
真琴は。
少しだけ笑った。
「みおが黒瀬見てるときの顔は、もう知ってるから」
結衣も。
ふっと笑う。
「そうですね」
そこだけは。
二人ともよく知っていた。
蓮司の名前を出されたとき。
近づかれたとき。
からかわれたとき。
本人より先に。
みおの顔が答えを出してしまうことを。
◇ ◇ ◇
やがて。
二人は駅前へ到着した。
目当てのクレープ店が見えてくる。
「真琴先輩」
「何?」
「この話」
結衣は少し声を落とす。
「黒瀬先輩に言います?」
真琴は。
迷うことなく答えた。
「言わない」
「やっぱり?」
「私たちが言うことじゃないでしょ」
「そうですよね」
みおが誰と帰っていた。
誰と仲良くしていた。
そんなことをわざわざ蓮司へ報告する理由はない。
何より。
「それに」
真琴の口元が。
少しだけ上がる。
「本人が自分で気づいたほうが面白い」
「……」
結衣がじっと見る。
「真琴先輩」
「何?」
「半分楽しんでますよね?」
「半分くらい」
以前。
みおにBL映画のことを聞かれたときと。
まったく同じ答えだった。
「やっぱり」
結衣が笑う。
真琴も笑いながら、クレープ店のメニューを見る。
「ストロベリーにしよ」
「アイス追加します?」
「……する」
「やっぱり甘いの好きじゃないですか」
「結衣が食べたいって言ったから」
「私のせいにした」
二人は笑いながら店へ入っていく。
けれど。
真琴の頭の片隅には。
一つ。
新しい名前が残っていた。
一ノ瀬凌。
みおと。
いつの間にか自然に並んで歩くようになった二年生。
みおの荷物を持ち。
みおが手を伸ばしても返さず。
それでも。
みおが本気では嫌がっていない相手。
そして。
もしかすると。
みお自身より少し早く。
みおへ近づこうとしている男。
ただ。
この時点では。
黒瀬蓮司は。
まだ。
一ノ瀬凌という名前すら。
みおの近くにいる存在としては知らなかった。




