第27話 一緒に帰るのが、今日の用事
その日の昼休み。
一年B組。
みおは自分の弁当箱とは別に、小さな保存容器を机の横へ置いていた。
中に入っているのは、朝焼いただし巻き卵。
昨日。
お昼を友人に半分分けて空腹になっていたみおへ、凌がパンをくれた。
そのとき交わした約束のお返しだった。
――じゃあ、卵焼き一個。
――美味かったら増やす。
「……一個って言ってたけど」
保存容器の中には、三切れ入っている。
一切れだけをわざわざ小さな容器へ入れるのも妙な気がしたし、何より一個だけ渡して終わりというのも、なんとなく味気なかった。
「みおちゃん、それ何?」
向かいにいた友人が気づいた。
「あ、ちょっとお返し」
「誰に?」
「二年生の先輩」
「……黒瀬先輩じゃなくて?」
「黒瀬先輩は三年生!」
「あ、そっか」
友人は少し考えてから尋ねる。
「じゃあ誰?」
「一ノ瀬先輩」
「えっ」
明らかに反応が大きかった。
「知ってるの?」
「知ってるっていうか……一ノ瀬凌先輩?」
「うん」
「背、高い人?」
「そう」
すると、近くで話を聞いていた女子まで反応した。
「えっ、みおちゃん一ノ瀬先輩と知り合いなの?」
「この前ちょっと話しただけだよ」
「なんで!?」
「なんでって……」
みおは答えに困った。
廊下でプリントを落として、拾ってもらった。
話してみたら、お互いにトランスジェンダーだと分かった。
そして昨日も、偶然会って少し話した。
本当に、それだけだ。
「普通に知り合っただけだよ」
「普通に一ノ瀬先輩と知り合うことある?」
「同じ学校なんだからあるでしょ」
「ないよ!」
「大げさだよ」
みおが笑った、そのときだった。
教室の入口付近が、わずかにざわつく。
何人かの女子が一斉に廊下へ目を向けた。
「……あ」
「え?」
みおもつられて見る。
そこに。
凌が立っていた。
高い身長に男子制服。黒に近い濃紺の短髪。
一年生の教室前にいるだけで、明らかに目立っている。
凌は教室の中を一度見渡すと、すぐにみおを見つけた。
「佐倉」
今度は。
教室中の視線が、一斉にみおへ集まった。
「……」
みおの身体が固まる。
「一ノ瀬先輩?」
「ちょっといい?」
「はい」
立ち上がる。
背中へ、ものすごい数の視線が刺さっている。
それを感じながら廊下へ出ると、みおは小声で尋ねた。
「どうしたんですか?」
凌は、みおの手元を見る。
「今日、弁当?」
「はい」
「じゃあ約束」
「……あ」
みおも思い出した。
机へ戻り、保存容器を持ってくる。
「これですよね」
「作ってくれた?」
「昨日のお礼です」
差し出すと、凌が受け取った。
蓋越しに中を見て。
「三個ある」
「一個じゃ少なすぎるかなって」
「増えてる」
「嫌ですか?」
凌は迷いもせず答えた。
「嬉しい」
「……」
あまりにも普通に言われて、みおのほうが一瞬黙った。
「……そうですか」
「うん」
凌は保存容器を見てから尋ねる。
「今、食べていい?」
「ここで?」
「昼だし」
「でも、一ノ瀬先輩も自分のお昼あるんじゃないですか?」
「持ってる」
そこで少し考えたらしく、凌が聞いた。
「佐倉、どこで食べる?」
「今日は教室ですけど」
「じゃあ俺もここで食べようかな」
「……え?」
みおが目を丸くする。
「二年生なのに?」
「二年生は一年の教室で飯食ったら駄目?」
「駄目じゃないですけど……」
凌の視線が、まっすぐみおへ向く。
「嫌?」
また。
その聞き方だ。
嫌なのか。
嫌ではないのか。
みおは少し困ったあと、結局正直に答えた。
「……嫌ではないです」
「じゃあ決まり」
凌はそのまま教室へ入っていく。
「またそれ!」
みおも慌てて追いかけた。
◇ ◇ ◇
凌が一年B組へ入った瞬間。
教室の空気が。
明らかに変わった。
「……」
「……」
あちこちから視線が飛んでくる。
けれど凌本人は、まるで気にしていない。
空いていた椅子を一つ借りると、当然のようにみおの隣へ置いて座った。
みおが声を落とす。
「一ノ瀬先輩」
「何?」
「めちゃくちゃ見られてます」
「そう?」
「そうです!」
凌が教室を軽く見回した。
視線を向けられた女子たちが、一斉に顔を逸らす。
「別にいいんじゃない」
「先輩はよくても、私は気になります!」
「俺と飯食うと困る?」
「そういう意味じゃなくて……」
凌が少し笑った。
「じゃあ食べよう」
「……はい」
完全に凌のペースだ。
みおは諦めて自分の弁当箱を開いた。
凌も鞄から昼食を取り出す。
市販のサンドイッチとサラダだった。
それを見て、みおが少し驚く。
「ちゃんとしてますね」
「何が?」
「お昼」
「普通だろ」
「黒瀬先輩よりずっと」
言ってから。
「あ」
と、みおが少し止まった。
凌が見る。
「黒瀬?」
「……はい」
「噂の三年?」
「噂のって言わないでください」
「よく一緒にいるんだっけ」
「家が近所なんです」
「へえ」
それだけ。
誰なのか。
どういう関係なのか。
それ以上は聞いてこなかった。
代わりに、凌の視線がみおの弁当箱へ移る。
「それ、全部自分で?」
「そうです」
「毎朝?」
「はい」
「すごいな」
素直に感心した声だった。
みおは少し照れる。
「慣れてるだけです」
「慣れてても、毎日は面倒だろ」
「料理好きなので」
「楽しそうだもんな」
「分かります?」
「今、弁当開けたときちょっと笑ってた」
「……見てますね」
「見てるよ」
「……」
また。
そういうことを、何でもない顔で言う。
みおは何となく視線を逸らした。
凌が気づいているのかどうかは分からない。
保存容器の蓋を開け、卵焼きを一つ取った。
そのまま口へ運ぶ。
「……」
今度はみおが、少しだけ緊張した。
人に料理を食べてもらうのには慣れている。
それでも。
初めて食べてもらう相手の反応は、やっぱり気になる。
「どうですか?」
凌は飲み込んでから答えた。
「美味しい」
みおの表情がすぐに緩んだ。
「ほんとですか?」
「うん」
もう一切れ。
「これ好き」
「よかった」
今度は。
はっきりと嬉しそうに笑った。
凌は、その顔を見る。
「……」
自分が美味しいと言っただけなのに。
こんなふうに喜ぶ。
それを見ると。
もう一度食べたいと思う。
「佐倉」
「はい?」
「また作って」
「え?」
「卵焼き」
凌はいつもの落ち着いた口調で続けた。
「次も俺の分」
「毎日ですか?」
「毎日は悪い」
「よかった」
「たまに」
それなら。
みおも少し考えて頷く。
「余裕があるときなら」
「じゃあ楽しみにしてる」
「プレッシャーかけないでください」
「美味しいから仕方ない」
「……」
あまりに迷いなく褒められると。
どう返していいのか分からない。
みおは少し照れながら、自分の弁当へ視線を戻した。
そして周囲では。
一年B組の女子たちが。
会話を聞いていないふりをしながら。
完全に聞いていた。
◇ ◇ ◇
昼食を食べ終え。
凌が自分の弁当を片づける。
「ごちそうさま」
「卵焼きだけなのに」
「次は他のも食べたい」
「え?」
凌がみおの弁当箱を指した。
「今日のそれ」
「唐揚げですか?」
「うん」
「一個食べます?」
みおが弁当箱を差し出そうとする。
けれど。
凌は少し笑って首を振った。
「今日はいい」
「遠慮ですか?」
「違う」
「?」
凌は椅子から立つ。
「次に作って」
「……」
「俺の分として」
みおは数秒遅れて意味を理解した。
「それ、お弁当作れって言ってません?」
「そう言った」
「普通に頼むんですね」
「嫌?」
「……」
みおは少し考える。
蓮司へ弁当を作り始めた理由とは、少し違う。
蓮司は放っておくと、食生活があまりにもひどい。
それが気になって。
最初は半ば世話を焼くような形で始まった。
凌は違う。
ただ単純に。
自分の料理を食べたいと言ってくれている。
それが。
嫌かと言われれば。
「……嫌じゃないです」
「じゃあ、そのうち頼む」
「そのうち?」
「佐倉が余裕ある日に」
「分かりました」
「ありがと」
凌が少し笑った。
「……」
やっぱり。
笑うと、ずいぶん雰囲気が変わる。
普段の涼しげな顔より、ずっと話しかけやすい。
そんなことを考えていると。
「何?」
「え?」
「今、顔見てた」
「見てません!」
「見てた」
「……ちょっとだけ」
すぐにばれた。
凌が少し首を傾げる。
「何かついてる?」
「違います」
「じゃあ何?」
みおは少し迷ったものの、正直に答えた。
「笑ったほうが、話しかけやすいなって」
凌が一瞬止まる。
「……そう?」
「はい。黙ってると結構怖いですよ」
「初めて言われた」
「絶対嘘です」
「格好いいとは言われる」
「自分で言うんですか!」
みおが呆れると。
凌が笑った。
「今のは冗談」
「一ノ瀬先輩、やっぱり意外と性格悪い」
「佐倉相手だと楽」
「何ですか、それ」
「反応が分かりやすいから」
「……褒めてませんよね?」
「褒めてる」
「どこが?」
凌は少し考えた。
そして。
何の照れもなく言った。
「話してて楽しい」
「……」
今度は。
みおが止まった。
「佐倉?」
「そういうの、普通に言うんですね」
「思ったから」
「……そうですか」
みおは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
それでも。
自分も素直に返す。
「私も、一ノ瀬先輩とは話しやすいです」
「……」
凌の表情が。
ほんの少しだけ柔らかくなった。
「そっか」
◇ ◇ ◇
放課後。
昇降口。
みおは一人で靴を履き替えていた。
今日は蓮司が三年生の用事で帰りが少し遅くなるらしい。
朝のうちに、
『先帰ってろ』
と言われていた。
だから今日は、一人で帰るつもりだった。
ローファーを履き、昇降口を出ようとしたところで。
「佐倉」
声をかけられた。
振り返る。
「一ノ瀬先輩」
凌だった。
「帰る?」
「はい」
凌も靴を履き替える。
「どっち?」
「駅とは反対です」
「俺も途中までそっち」
「そうなんですか?」
「うん」
そのまま二人で校門を出た。
並んで歩き始めて。
しばらくして。
みおが、ふと首を傾げる。
「……先輩」
「何?」
「昨日、駅のほうに帰ってませんでした?」
凌が見る。
「よく覚えてるな」
「……」
みおの足が少し遅くなる。
昨日。
確かに凌は駅の方向へ歩いていた。
今日進んでいるのは、完全に逆方向だ。
「一ノ瀬先輩」
「うん」
「本当にこっちですか?」
凌は平然と答えた。
「違う」
「……え?」
「駅は反対」
みおの足が止まった。
「じゃあ何で!?」
凌も止まる。
そして。
やっぱり何でもないことのように言った。
「佐倉と帰ろうと思って」
「……」
みおのほうが。
その言葉に戸惑った。
「え」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど……」
「じゃあ行こう」
凌が再び歩き出す。
「ちょっと待ってください!」
みおが慌てて追いついた。
「先輩、用事ないんですか?」
「あるよ」
「あるんですか!?」
「うん」
「じゃあ、そっち行ってください!」
凌がみおを見る。
「今の用事」
「?」
「佐倉と帰る」
「……」
みおが完全に黙った。
「先輩」
「何?」
「それ」
「うん」
「すごく恥ずかしいこと言ってません?」
「そう?」
「そうですよ!」
「俺は恥ずかしくない」
「私が恥ずかしいんです!」
凌が少し笑う。
「じゃあ慣れて」
「何に!?」
「俺に」
「……!」
みおの頬が、ほんの少し熱くなる。
けれど。
凌はもう普通に前を向いて歩いていた。
照れも。
言ってしまった後悔も。
まったくないらしい。
「一ノ瀬先輩って……」
「何?」
「黒瀬先輩と全然違う」
初めて。
凌の前で、蓮司を比較対象として口にした。
凌は気にした様子もなく聞く。
「どう違う?」
「黒瀬先輩なら、絶対そんなこと言いません」
「どんなこと?」
「『佐倉と帰るのが用事』とか」
「言わない?」
「絶対言わないです」
「じゃあ」
凌は前を向いたまま言った。
「俺のほうが分かりやすいな」
「何がですか?」
「佐倉といたいとき」
「……」
また。
みおが言葉に詰まった。
少し歩いてから、思わず尋ねる。
「先輩って」
「うん」
「距離近くないですか?」
物理的な意味ではない。
凌にも、それは伝わったようだった。
「近い?」
「会って、まだ数日ですよ」
「そうだな」
「なのにお昼一緒に食べたり、こうして帰ったり」
「嫌?」
また。
同じ質問。
みおは少し困って。
でも。
正直に答えた。
「……嫌ではないです」
「じゃあいい」
「その理論ずるい」
「嫌じゃないなら、俺は一歩進む」
「……」
そこで初めて。
凌の声が少しだけ真面目になった。
「もちろん」
みおを見る。
「本当に嫌なら言って」
「……」
「そのときはやめる」
それまでの強引さとは違う。
どこまで行っても、自分が前へ進みたいから進む。
でも。
みおが拒めば、そこで止まる。
凌の中では。
そこだけは、はっきりしているのだろう。
みおも、その違いを感じ取った。
「……分かりました」
「うん」
「今は嫌じゃないです」
凌の口元が少し上がる。
「じゃあ、もう少し一緒にいる」
「……」
みおも。
つられて笑った。
「はい」
◇ ◇ ◇
しばらく歩いたところで。
みおが肩に掛けていたサブバッグが、少しずれた。
教科書が多く入っているせいで、それなりに重い。
凌が気づく。
「それ重い?」
「教科書が多いだけです」
凌が手を伸ばした。
「持つ」
「大丈夫です。自分で――」
最後まで言う前に。
サブバッグがみおの肩から消えた。
「ちょっと!」
凌が普通に持っている。
「自分で持てます!」
「知ってる」
「何がですか」
「自分で持てるのは知ってる」
「じゃあ返してください」
「嫌なら取り返して」
凌が少し高い位置へバッグを持ち上げる。
「……」
みおが見上げる。
百八十三センチある凌と。
みおの身長差。
どう考えても。
届かない。
「……絶対、届かないの分かってますよね」
「うん」
「ずるい!」
「歩こう」
「もう……」
文句を言いながら。
みおは、その隣を歩く。
不思議と。
本気で嫌ではなかった。
むしろ。
こんなふうに凌とやり取りすることを。
少し楽しいと思っている自分がいた。
◇ ◇ ◇
住宅街へ入る少し手前。
凌が足を止めた。
「俺、ここまでにする」
「あ、はい」
「家、この先?」
「もう少しです」
「そっか」
凌がサブバッグを返す。
みおは受け取って、肩へ掛け直した。
「ありがとうございました」
「うん」
そこで。
凌がみおの顔を少し見る。
「佐倉」
「はい?」
「今日、髪」
「髪?」
「朝よりちょっと崩れてる」
「えっ」
みおが慌てて髪へ手を伸ばす。
たぶん。
一日学校で過ごしたうえに、歩いてきたせいだ。
「変ですか?」
「悪い意味じゃない」
凌はすぐに答えた。
「そっちも似合ってる」
「……」
また。
みおが固まる。
「先輩」
「何?」
「そういうのも普通に言うんですね」
「思ったから」
昼休みと。
同じ答えだった。
「……ありがとうございます」
少し照れながら。
みおも素直に受け取る。
凌は、その表情を見つめる。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
自分の料理を美味しいと言われて嬉しそうにする顔も。
褒められて。
少し困ったように照れる顔も。
もう一度見たい。
それはもう。
単に「同じトランスジェンダーだから話してみたい」という興味とは。
明らかに違い始めていた。
「じゃあ、また月曜」
凌が言う。
「はい」
「昼」
「?」
「空いてたら、一緒に食べよう」
みおは少し考えた。
「友達も一緒でよければ」
「いいよ」
「じゃあ――」
「決まり」
「まだ私、最後まで言ってません!」
凌が笑う。
「また月曜、佐倉」
「……はい。また月曜」
みおも笑って。
軽く手を振る。
そのまま住宅街の奥へ歩いていった。
◇ ◇ ◇
凌は。
少しだけ、その背中を見送っていた。
昨日までは。
親近感。
興味。
それだけだった。
けれど今日は。
次に会う予定を、自分から作った。
みおの料理を食べたい。
一緒に帰りたい。
もっと話していたい。
褒めたときに見せる。
あの少し照れた顔を、また見たい。
「……」
凌は。
自分の感情から目を逸らすつもりはなかった。
まだ。
恋だと断定するには、少し早い。
それでも。
佐倉みおはもう。
自分から距離を縮めたいと思う女の子になっている。
そして凌は。
欲しいものを前に。
ただ待っているだけの男ではなかった。
「……もう少し、近づくか」
誰もいない帰り道で。
小さく呟く。
その声に。
迷いはなかった。




