第22話 ちょっとだけ、意識してます
翌朝――火曜日。
みおは、いつもより少しだけ早く家を出た。
通学鞄とは別に、小さな弁当袋を持っている。
中に入っているのは、昨夜の鶏肉と野菜の甘酢炒め。ひじきの煮物に、ブロッコリー。白いご飯。
そして。
朝から新しく焼いた、だし巻き卵。
歩きながら、みおは弁当袋へ視線を落とした。
「……」
――余ったから。
一応、理由はある。
甘酢炒めは本当に余った。
ひじきの煮物だって、昨夜の残りだ。
けれど。
卵焼きだけは違う。
昨日の夜、冷蔵庫に卵が残っていることを確認して。
今朝。
わざわざ少し早く起きて焼いた。
「……まあ、いいよね」
蓮司が好きだから。
卵焼きが。
そこは重要だ。
非常に重要だ。
自分にそう言い聞かせながら、みおはいつもの公園へ向かった。
そして。
いつもの場所に。
蓮司がいた。
「……」
見つけた瞬間。
昨日の昼休みが蘇る。
――前は、意識してなかったから。
さらに、帰り道。
――俺?
「……っ」
また頬が熱くなりそうになった。
けれど。
今日は逃げない。
昨日の朝のように、蓮司が近づいたぶんだけ離れていたら、それこそ余計に意識していると思われてしまう。
みおは小さく深呼吸してから歩み寄った。
「おはようございます」
蓮司が振り返る。
「おう」
ほんの少しだけ間があった。
二人とも。
昨日のことを覚えている。
「……」
「……」
並んで歩き出す。
今日はみおも、普段通り蓮司の隣へ並んだ。
それに気づいた蓮司が、ちらりと横を見る。
「今日は離れねえんだな」
開始十秒。
いきなりそこを刺された。
「……」
みおの頬が少し赤くなる。
「昨日のことは忘れてください」
「無理」
「即答しないでください!」
「お前がやったんだろ」
「事故です!」
「言葉に事故とかあんのかよ」
「あります!」
蓮司が少し笑った。
「変な奴」
「先輩に言われたくないです」
そんなやり取りをしているうちに、みおの肩から少しずつ力が抜けていった。
やっぱり。
いつもの蓮司だ。
昨日、自分があんなことを口走ったからといって、急によそよそしくなったわけでもない。
それだけで少し安心した。
そして。
みおは手にしていた弁当袋を差し出した。
「はい」
蓮司が見る。
「……また?」
「余ったので」
「昨日の夕飯?」
「はい」
蓮司は弁当袋とみおを交互に見る。
「余るたび俺んとこ来るのかよ」
「嫌なら持って帰りますけど?」
みおが袋を引こうとする。
蓮司は先に受け取った。
「誰も嫌だって言ってねえだろ」
「……」
みおの口元が少し緩んだ。
「何だよ」
「いえ」
「何」
「ちゃんと受け取るようになったなって」
「返すぞ」
「嫌です」
「どっちだよ」
みおは笑う。
そのまま二人で歩き始めた。
蓮司が手にした袋を軽く持ち上げる。
「今日、何入ってんの」
「甘酢炒めです」
「あと、ひじきとブロッコリー」
少しだけ間を置いて。
「……卵焼き」
蓮司がみおを見る。
「それも余った?」
「……」
みおの目が泳いだ。
蓮司がすぐ気づく。
「余ってねえな」
「細かい!」
「いや、今の反応で分かるだろ」
「だって……」
言い訳を探す。
けれど。
理由自体は簡単だった。
「先輩、好きだから」
蓮司の足が止まった。
「……」
みおも一秒遅れて。
自分が何を言ったのか理解した。
「あ」
二人の間に沈黙が落ちる。
みおの顔が。
みるみる赤くなった。
「た、卵焼きが!」
「……」
「先輩が! 卵焼きを!」
「分かってる」
蓮司も少しだけ顔を逸らす。
耳が赤い。
「……びびらせんな」
「私のせいですか!?」
「言い方だろ!」
「そういう意味じゃないのに!」
「なら主語ちゃんと言え!」
「昨日もお姉ちゃんに同じようなことでからかわれたんです!」
蓮司の動きが止まる。
「……姉ちゃん?」
「あ」
また余計なことを言った。
「何話したんだよ」
「何でもないです」
「お前んち帰ってから俺の話してんの?」
「……」
みおが黙る。
蓮司の眉が上がった。
「してんじゃん」
「学校の話の流れです!」
「俺の話、多くねえ?」
「多くないです!」
「この前、姉ちゃん俺の食ってるもんまで知ってたぞ」
「それは先輩の食生活がひどいからです!」
「じゃあ昨日は?」
「……」
みおの口が止まった。
昨日の夜。
『黒瀬先輩のこと、好きになってきてる?』
そう聞かれて。
自分は。
『分かんない』
と答えた。
さらに。
蓮司をもう一度夕食へ呼んでもいいかもしれない、などと考えていた。
そんなこと。
本人へ言えるわけがない。
「昨日は何だよ」
「何でもないです!」
「またそれか」
「これは本当に言えません!」
「余計気になるだろ」
「気にしないでください!」
「お前が俺の話してんだろ!」
「先輩は知らなくていいんです!」
朝の住宅街に。
今日も二人の声が響いた。
◇
昼休み。
三年A組。
蓮司が机の横から弁当袋を取り出した。
それを。
陽翔が見逃すはずがなかった。
「……ある」
蓮司が嫌そうに見る。
「何が」
「弁当」
少し離れていた真琴も視線を向ける。
そして。
弁当袋を見るなり、口元を少し上げた。
「また佐倉さん?」
「……」
蓮司が答えるより先に。
陽翔が机へ身を乗り出す。
「またみおちゃん!?」
「声でけえ!」
「今日は何!?」
「お前に関係ねえだろ!」
「見せろ!」
「嫌だ」
「まだ何も取らないから!」
「『まだ』って言った時点で駄目だろ」
陽翔を追い払いながら。
蓮司が弁当箱の蓋を開ける。
鶏肉と野菜の甘酢炒め。
ひじきの煮物。
ブロッコリー。
白いご飯。
そして。
だし巻き卵。
陽翔がすぐ指を差した。
「あ!」
「何だよ」
「卵焼き!」
真琴も覗き込む。
「本当に毎回入ってるね」
「……」
蓮司は何も言わず、割り箸を割った。
陽翔が隣へ座る。
「一個」
「嫌だ」
「まだ頼み終わってない!」
「頼む顔してる」
「三個くらいあるだろ!」
「俺のだ」
「一個!」
「嫌だ」
「ケチ!」
蓮司は相手にせず、甘酢炒めを口へ運んだ。
「……」
箸が一瞬止まる。
程よい酸味と甘さ。
野菜にも味がしっかり絡んでいて、ご飯によく合う。
真琴がなぜか尋ねた。
「どう?」
「うまい」
陽翔が目を丸くする。
「最近ほんと素直だな!」
「飯の感想くらい普通に言うだろ」
「前のお前、『普通』しか言わなかったじゃん!」
「いつの話してんだよ」
真琴が静かに付け加える。
「佐倉さんの料理に関しては、だいぶ成長したね」
「何の成長だ」
「素直さ」
「うるせえ」
今度は卵焼きを一つ取る。
口へ入れた瞬間。
今朝の会話が蘇った。
――先輩、好きだから。
――卵焼きが!
「……」
蓮司の箸が止まる。
真琴がじっと見ている。
「何だよ」
「別に」
「その顔やめろ」
「幸せそうだなと思って」
「弁当食ってるだけだ!」
陽翔が頭を抱えた。
「俺も幸せになりたい!」
「購買行け」
「そういう意味じゃねえ!」
真琴は陽翔を無視し、蓮司を見る。
「ところで」
「あ?」
「佐倉さん、今日は普通だった?」
「……何が」
「距離」
昨日。
蓮司から、朝みおに逃げられたと聞いた。
その話を思い出したらしい。
蓮司は少しだけ間を置く。
「今日は普通」
「へえ」
「何だよ」
真琴の口元が上がる。
「よかったね」
「何が!」
陽翔が二人を交互に見る。
「何? 何の話?」
「天野は知らなくていい」
「またそれ!?」
陽翔が不満そうな顔をする。
そして。
ふと思い出したように蓮司を見る。
「でもさ」
「何だよ」
「みおちゃん、最近お前のこと意識してんだろ?」
「……」
昨日の言葉が。
また頭の中に響いた。
――前は意識してなかったから。
蓮司の耳が、ほんの少し赤くなる。
真琴が即座に気づく。
「あ」
「何だよ」
「思い出した?」
「思い出してねえ」
「何を!?」
今度は陽翔が机を叩く。
「何があった!?」
「お前には関係ない」
「俺も仲間だろ!」
「違う」
「即答!」
蓮司は逃げるように、もう一口甘酢炒めを食べた。
うまい。
それが。
陽翔は余計に腹立たしかった。
◇
同じ頃。
一年B組。
みおも友人たちと机を囲み、自分の弁当を食べていた。
そして。
弁当箱の中にある卵焼きを見て。
朝の一言を思い出す。
――先輩、好きだから。
「……」
みおの箸が止まった。
「みおちゃん?」
「ん?」
「なんで卵焼き見て赤くなってるの?」
「赤くない!」
即答。
別の女子も覗き込む。
「何かあった?」
「何もないよ!」
一人が、何気なく言った。
「黒瀬先輩?」
「なんで!?」
自分でも驚くくらい。
反応が早かった。
女子たちが一斉に笑う。
「ほら!」
「何が!?」
「最近分かりやすいもん」
「何が分かりやすいの!」
「黒瀬先輩って言ったときの反応」
「普通だよ!」
「じゃあ実験しよ」
「実験?」
友人が指を一本立てる。
「白鷺先輩」
「白鷺先輩?」
別に普通だ。
「天野先輩」
「天野先輩?」
これも普通。
そして。
にやりと笑って。
「黒瀬先輩」
「……何!」
一拍。
遅れた。
「ほら!」
「違う!」
みおは真っ赤になる。
「もう! 食べる!」
逃げるように弁当へ視線を落とした。
友人たちはまだ笑っている。
けれど。
みおは反論しながらも。
心のどこかで思っていた。
――もしかして。
本当に。
周りから見れば。
もう、そんなに分かりやすいのだろうか。
「……」
みおは自分の胸元へ、そっと手を当てる。
まだ。
好き。
そこまで自信を持って言えるわけではない。
けれど。
蓮司を意識している。
それだけは。
もう。
否定するほうが難しくなっていた。
◇
放課後。
みおが昇降口で靴を履き替えていると。
「佐倉」
聞き慣れた声がした。
「はい」
振り返る。
蓮司が立っている。
その手には。
朝渡した弁当箱。
「ほら」
「ありがとうございます」
みおが受け取る。
弁当箱は、すっかり軽い。
きっと今日も。
全部食べてくれたのだろう。
それだけで少し嬉しい。
「……」
けれど。
蓮司がなぜか、その場を動かない。
「?」
みおが首を傾げる。
「何ですか?」
「今日の」
「お弁当?」
「ああ」
蓮司は少しだけ視線を逸らした。
「うまかった」
みおの表情が緩む。
「よかったです」
「甘酢のやつ」
「はい」
「……」
蓮司が一瞬迷ったあと。
「また作れ」
みおが止まった。
「……」
蓮司自身も。
言ったあとで気づいたらしい。
「いや」
「今」
「違う」
「また作れって言いました?」
「……」
みおの顔が。
少しずつ嬉しそうになる。
「先輩から言いましたよね?」
「忘れろ」
「嫌です」
「なんでだよ」
「初めてですもん」
「何が」
「先輩から、『また作って』って言われたの」
蓮司が黙った。
確かに。
今まで。
みおが作る。
蓮司は文句を言いながら受け取る。
そして食べる。
それを繰り返してきた。
自分から。
これが食べたい。
もう一度作ってほしい。
そう頼んだことはなかった。
「……嫌ならいい」
ぼそり。
「誰も嫌だって言ってないじゃないですか」
みおは笑った。
「じゃあ、また今度」
「……おう」
蓮司も小さく答えた。
二人は並んで昇降口を出る。
◇
帰り道。
火曜日の夕方。
今日は、みおも蓮司から距離を取らなかった。
蓮司も。
それについて何も言わない。
いつもの歩幅。
いつもの距離。
ただ。
昨日までとは、少しだけ違う。
お互いがその距離を。
意識してしまっている。
公園へ向かう途中。
蓮司がふと口を開いた。
「そういや」
「はい?」
「昨日の」
みおの身体が固まった。
「……何の話ですか?」
「昼」
「忘れてください」
「まだ何も言ってねえ」
「絶対あれじゃないですか!」
蓮司が少し笑う。
そして。
何でもないことを聞くような口調で言った。
「今日も俺のこと意識してんの?」
「……!」
みおの顔が。
一瞬で赤くなった。
「……」
けれど。
聞いた蓮司自身も。
少し驚いたような顔をしていた。
どうやら。
口にしてから。
自分でも随分と直球なことを聞いたと気づいたらしい。
「……」
みおは言葉を探す。
いつもなら。
違います。
そう言えばいい。
否定すれば。
この話は終わる。
でも。
昨日。
結衣に話した。
――気になる人、なのかもしれません。
昨夜。
さきに聞かれた。
――黒瀬先輩のこと、好きになってきてる?
自分はもう。
「何とも思っていない」と言えるところにはいない。
だったら。
ここで「違う」と言うのは。
たぶん。
嘘になる。
みおは俯いたまま。
小さく息を吸った。
「……してますよ」
蓮司の足が止まった。
「……は?」
みおも止まる。
顔を上げられない。
「だから」
もう一度。
今度は。
ほんの少しだけはっきりと。
「ちょっとだけ、意識してます」
「……」
夕方の住宅街。
車が遠くを走る音だけが聞こえる。
二人の間が。
妙に静かになった。
蓮司は。
何も言わない。
みおも。
これ以上何を言えばいいのか分からない。
数秒。
十秒。
耐えきれなくなったのは。
みおだった。
「な、何か言ってください!」
「いや……」
「何ですか!」
「お前」
蓮司が少しだけ顔を逸らす。
耳が赤い。
「そういうの、急に素直になるなよ」
「先輩が聞いたんじゃないですか!」
「そうだけど!」
「じゃあどう答えればよかったんですか!」
「知らねえよ!」
「ひどい!」
二人とも。
顔が赤い。
少し離れたところを歩いていた小学生が、喧嘩でもしているのかという顔で二人を見る。
それに気づいたみおは、ますます恥ずかしくなった。
「もう帰ります!」
「俺もこっちだ!」
「知ってます!」
「じゃあ置いてくな!」
蓮司がすぐ追いつく。
再び。
二人並ぶ。
さっきまでと。
距離そのものは変わっていない。
なのに。
今は。
お互いにその近さを、少しだけ意識している。
「……」
「……」
しばらく歩いて。
みおが前を向いたまま口を開いた。
「先輩は?」
「あ?」
「……」
聞きたい。
先輩は。
私のことを。
意識したことがありますか。
でも。
そこまで口にする勇気は。
まだなかった。
「……何でもないです」
蓮司が横を見る。
「何だよ」
「何でもありません」
「またそれか」
「今日は聞かないでください」
「……」
蓮司は少し黙った。
「分かった」
今度も。
無理には聞いてこなかった。
みおは少しだけ安心する。
けれど。
蓮司のほうも。
みおが何を聞きかけたのか。
なんとなく。
分かってしまった気がしていた。
――先輩は?
その先。
もし。
『先輩は私を意識してる?』
そう聞かれていたら。
自分は。
何と答えただろう。
「……」
蓮司は。
答えを考えるのをやめた。
というより。
まだ。
答えを出せなかった。
二人の距離は。
まだ。
恋人と呼ぶには遠い。
好きだと伝え合ったわけでもない。
自分の気持ちを。
はっきり理解したわけでもない。
けれど。
少なくとも今日。
みおは。
蓮司を意識していると認めた。
そして蓮司も。
その言葉を聞いて。
嬉しくなかったとは。
もう言えなかった。
二人の間から。
「意識しているのは、自分だけかもしれない」
そんな逃げ道が。
少しずつ。
なくなり始めていた。




