第21話 余ったから、ということにして
その日の夕方。
家に帰ったみおは制服から部屋着へ着替えると、そのままキッチンに立った。
冷蔵庫を開け、中を確認する。
「鶏肉……ある。にんじんと玉ねぎもあるし」
今夜は鶏肉と野菜の甘酢炒めにしよう。
あとは豆腐とわかめの味噌汁。それから、昨日の夕食で少し残ったひじきの煮物もある。
献立を決めると、みおは手際よく材料を並べた。
鶏肉を食べやすい大きさに切り、にんじんと玉ねぎも準備する。フライパンを温めて油を引くと、ジュウっと鶏肉の焼ける音がキッチンに広がった。
いつもなら。
料理をしている間は、それだけに集中できる。
火加減。
味付け。
盛りつけ。
明日の弁当のおかずをどうするか。
料理をしている時間は、余計なことを考えずに済むはずだった。
けれど今日は――。
『俺?』
「……」
昼休みの蓮司の声が、頭の中に蘇った。
続いて、帰り道。
『違わねえんだ』
「……っ」
みおの手が止まる。
思い出しただけで、また頬が熱くなった。
「違う違う」
誰に聞かせるわけでもなく、小さく呟いて首を振る。
その瞬間。
ぱちっ。
フライパンから油が跳ねた。
「あつっ!」
みおは慌てて一歩下がり、火を少し弱めた。
「もう……」
今日は朝から、ずっとこんな調子だ。
黒瀬蓮司の顔。
黒瀬蓮司の声。
朝の距離。
昼休みの失言。
そして帰り道。
『そのうち聞く』
『今日は聞かねえ』
『それは嫌だ』
「……」
みおはフライパンを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「なんで嫌なの」
どうして蓮司は。
自分が何を意識しているのか、あんなに知りたがるのだろう。
そして。
どうして自分は。
聞かれるだけで、こんなにも落ち着かなくなるのだろう。
「……」
少し考えて。
みおは両手で自分の頬を押さえた。
まだ熱い。
「映画のせい」
言ってみる。
「絶対、映画のせい」
もう一度。
少し強く言ってみる。
「あと、お姉ちゃんが変な漫画読ませるから」
きっとそう。
恋愛映画を見て。
恋愛漫画を読んで。
変に意識するようになっただけ。
だから。
黒瀬蓮司だからではない。
「……たぶん」
最後だけ。
少し自信がなかった。
◇
午後七時。
夕食はすっかり完成していた。
ダイニングテーブルには、二人分のご飯と味噌汁。大皿には鶏肉と野菜の甘酢炒めが盛られ、ひじきの煮物も小鉢に分けてある。
けれど。
向かいの席は空いたままだった。
「遅いな……」
さきが、まだ帰ってこない。
普段もみおより遅くなることは珍しくないが、この時間ならそろそろ連絡くらいあってもいい。
みおはスマートフォンを手に取った。
メッセージは来ていない。
少し迷ってから送る。
『今日、遅くなる?』
送信。
一分。
二分。
数分経っても、既読にはならなかった。
「まだ大学かな」
一人で先に食べようかとも思った。
けれど。
せっかく二人分作ったのだから、できれば一緒に食べたい。
みおは料理にラップをかけ、ソファーへ座った。
テレビをつける。
適当にチャンネルを変える。
「……」
何を見ても。
内容が、ほとんど頭に入ってこない。
またスマートフォンを見る。
まだ未読。
「……」
メッセージアプリを閉じようとして。
指が止まった。
画面には、連絡先の一覧。
そして。
無意識に探してしまった名前。
黒瀬蓮司。
「……」
いつか皆で重箱を持ち寄って屋上で昼食を食べる予定を決めたとき、陽翔や真琴たちと一緒に連絡先を交換していた。
けれど。
蓮司と個人的にメッセージをやり取りしたことは、ほとんどない。
みおは、その名前をじっと見る。
「……何してるんだろ」
今夜。
蓮司は何を食べるのだろう。
コンビニ。
冷凍チャーハン。
もしかすると。
またカップ麺。
「……」
みおはダイニングテーブルを見る。
甘酢炒め。
どう考えても。
多い。
みおとさきの二人だけでは、一度で食べきれないくらいある。
「……なんで三人分くらいあるんだろ」
自分で作ったのに。
理由が分からない。
いや。
本当は。
少しだけ分かっている。
調理している途中。
――先輩なら、これくらい食べるかな。
そう考えた。
ほんの一瞬だった。
でも。
確かに考えた。
「……」
みおはテーブルへ額をつける。
「私、何してるんだろ……」
その瞬間。
がちゃ。
玄関から鍵の開く音がした。
「ただいまー」
みおはすぐに顔を上げた。
「お姉ちゃん!」
急いで玄関へ向かうと、ちょうどさきが靴を脱いでいた。
大学の鞄を肩から下ろしながら、申し訳なさそうに笑う。
「ごめん。ゼミの人に捕まってた」
「連絡してよ」
「ごめんごめん。スマホ鞄の奥に入れっぱなしだった」
「心配したんだから」
少し不満そうに言うみおに、さきが素直に頭を下げる。
「ごめんなさい」
「……もう」
「ご飯、待ってた?」
「うん」
「先に食べててよかったのに」
みおはキッチンへ戻りながら答えた。
「一人で食べるの嫌だったから」
「……」
一瞬。
さきの表情が柔らかくなった。
「ありがと」
「別に」
みおはラップを外し、料理を電子レンジへ入れる。
その背中を見ながら。
さきが、ぽつりと言った。
「黒瀬先輩みたい」
みおが勢いよく振り返る。
「何が!?」
「今の『別に』」
「……」
「最近増えたよね」
「増えてない!」
「影響されてない?」
「されてない!」
即答。
さきが笑う。
「はいはい」
「その言い方もやめて!」
いつもの調子が戻った。
◇
料理を温め直し。
二人で食卓につく。
「いただきます」
「いただきまーす」
さきはさっそく甘酢炒めを口へ運んだ。
数回噛んで。
「うま」
みおの顔が少し明るくなる。
「ほんと?」
「うん。今日、かなりいい感じ」
「よかった」
みおも一口食べる。
甘酸っぱいたれが鶏肉と野菜によく絡んでいる。
自分でも悪くない出来だと思った。
しばらくは普通に食べていた。
大学の話。
今日の授業。
さきがゼミの先輩に捕まっていた理由。
そんな、いつもの会話。
ところが。
さきが大皿を見て、何かに気づいた。
「みお」
「何?」
「今日、量多くない?」
みおの箸が止まる。
「……そう?」
「そうだよ」
さきは皿を見る。
「これ、二人分じゃないでしょ」
「明日も食べればいいじゃん」
「まあ、それはそうだけど」
さらに残っている量を見る。
「三人分くらいない?」
「……」
みおは黙って味噌汁を飲んだ。
さきの目が細くなる。
「黒瀬先輩の分?」
「違う!」
反射的だった。
さきが瞬きをする。
「反応早いね」
「だって今言ったでしょ!」
「言ったけど」
「じゃあ何!」
「で、なんでこんなに多いの?」
「……作りすぎただけ」
「なんとなく?」
「なんとなく」
「ふーん」
信用していない顔だ。
みおは視線を逸らす。
さきはしばらく妹を見ていたが。
やがて。
「学校で何かあった?」
「……」
今度こそ。
みおの動きが止まった。
「あるな」
「なんで分かるの」
「今日のみお、すごく分かりやすいから」
「……」
今日。
ありすぎた。
朝。
蓮司が近づくたびに距離を取ってしまった。
昼。
みんなの前で。
『前は意識してなかったから』
なんて言ってしまった。
そして放課後。
『俺?』
真正面から聞かれた。
「……」
思い出しただけで。
また頬が熱くなってくる。
さきは箸を置いた。
「話す?」
急かす声ではなかった。
言いたくないなら、それでもいい。
そんな聞き方だった。
みおは少し迷ってから。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「人ってさ」
みおはご飯を箸の先で少しだけ触りながら尋ねる。
「急に誰かを意識することってある?」
さきの動きが止まった。
ほんの一瞬。
それから、何でもないような顔で答える。
「あるんじゃない?」
「少し前まで普通だったのに?」
「あると思うよ」
「近くに来られるだけで、変な感じしたり?」
「うん」
「目が合うと恥ずかしくなったり?」
「うん」
みおは考えながら続ける。
「その人が別の人と付き合ってるって勘違いして、機嫌悪くなったり?」
「それは黒瀬先輩側?」
「……」
みおが固まった。
さきも止まる。
数秒後。
「ふっ」
吹き出した。
「途中から混ざってるよ」
「もう!」
みおの顔が真っ赤になる。
「今の忘れて!」
「無理」
「お姉ちゃん!」
笑っていたさきだったが。
少しすると、表情を柔らかくした。
「みお」
「……何」
「もしかして」
みおを見る。
「黒瀬先輩のこと、好きになってきてる?」
「……」
返事ができなかった。
以前なら。
きっとすぐに否定していた。
違う。
仲のいい先輩。
食生活が心配なだけ。
近所だから一緒に帰るだけ。
それだけ。
そう言えた。
でも今は。
「……」
言葉が出てこない。
みおは自分の胸元へ、そっと手を当てた。
頭に浮かぶ。
最初に廊下でぶつかった。
目つきの怖い三年生。
帰り道で話すようになった人。
雨の日。
一つの傘に入れてくれた人。
自分の弁当を、毎回きれいに食べてくれる人。
この家で。
さきと三人で夕飯を食べた人。
そして今日。
自分が離れたことに、すぐ気づいた。
なぜ離れるのか。
知ろうとしてくれた。
でも。
嫌だと言えば。
無理には聞かなかった。
「……分かんない」
やっと出た言葉は。
否定ではなかった。
さきはそれを聞くと。
少しだけ笑った。
「じゃあ、今はそれでいいんじゃない?」
「……うん」
「分かんないのに、無理やり名前つけなくてもいいよ」
好き。
恋。
まだ。
そこまで言い切れなくてもいい。
みおは小さく頷いた。
「……でも」
「ん?」
みおは大皿に残った甘酢炒めを見る。
「明日のお弁当」
「うん」
「余ったから……黒瀬先輩に持っていこうかな」
さきが笑う。
「うん」
「余ったからだからね」
「うん」
「本当にそれだけだから」
「はいはい」
「だから、その言い方!」
さきの笑い声が、夜の食卓に響いた。
◇
夕食のあと。
みおはキッチンへ三つの弁当箱を並べた。
一つ目。
自分。
二つ目。
さき。
そして。
三つ目。
最近。
少しずつ見慣れてきてしまった弁当箱。
蓮司の分。
明日の朝、詰めやすいように、甘酢炒めやひじきの煮物を保存容器へ分けていく。
そこまで終えたところで。
みおは冷蔵庫を開けた。
卵のパックを見る。
「……」
残りは十分ある。
少し考えて。
小さく呟く。
「明日の朝……卵焼きも作ろうかな」
後ろで食器を拭いていたさきが、すぐ反応した。
「卵焼きも?」
「……うん」
「甘酢炒めは余ったんだよね?」
「余った」
「卵焼きは?」
「……余ってない」
「わざわざ作るんだ」
「悪い?」
「全然」
その言い方が、妙に楽しそうだ。
みおは冷蔵庫を閉じる。
「でも」
「ん?」
少しだけ笑った。
「好きだから」
さきの手が止まった。
みおも、一秒遅れて気づく。
「あ」
さきがゆっくり振り返る。
「へえ」
「違う!」
「まだ何も言ってないよ?」
「黒瀬先輩が!」
みおは慌てて続ける。
「卵焼きを!」
「はいはい」
「今、絶対わざと勘違いしたでしょ!」
「してないしてない」
「嘘!」
「好きなんだねえ」
「卵焼きが!!」
夜のリビングに。
さきの楽しそうな笑い声と。
みおの抗議する声が響く。
明日の朝。
少し早く起きて。
卵焼きを焼こう。
甘酢炒めと。
ひじきの煮物と。
ブロッコリー。
それに。
蓮司が好きな、だし巻き卵。
――余ったから。
一応。
そういうことにしておく。
ただ。
卵焼きだけは。
最初から余る予定などなかった。




