第20話 ちょっとだけ、意識してます
週が明けた月曜日の朝。
いつもの公園前で、黒瀬蓮司は自動販売機の横に立っていた。片手には、すでに半分ほど減った缶コーヒー。
住宅街の向こうへ目を向けていると、数分して見慣れた姿が現れた。
佐倉みお。
「おはようございます」
「おう」
いつも通りの挨拶。
そこまではよかった。
みおが蓮司の横へ並び、二人で学校へ向かって歩き出す。
けれど。
「……」
「……」
蓮司が横を見る。
妙に遠い。
いつもなら、手を伸ばせば肩へ届くくらいの場所を歩いているのに、今日は二人の間が一メートル近く空いていた。
「お前」
「はい?」
「なんでそんな離れてんだ」
「え?」
みおは二人の間を見る。
「普通ですよ?」
「普通じゃねえだろ。この前まで、もっとこっち歩いてたじゃねえか」
蓮司が自分のすぐ横を指した。
「……」
その瞬間。
みおの頭に、土曜日の映画館が蘇った。
薄暗い客席。
隣に座る蓮司。
二人の間にあるのは、肘掛け一つ。
スクリーンの光で時々浮かび上がる横顔。
そして――。
映画の終盤で交わされた、あのキス。
「っ!」
みおが、さらに半歩離れた。
蓮司が足を止める。
「なんで離れた」
「離れてません!」
「今離れただろ!」
「道、広いですから!」
「この前まで道幅なんか気にしてなかっただろ!」
みおは蓮司を見ない。
「今日は広く使いたい気分なんです!」
「何だそれ」
蓮司には、本当に意味が分からないらしい。
再び歩き出す。
数十秒。
蓮司が、少しだけみおのほうへ寄る。
みおも同じだけ外側へ寄った。
もう一度、蓮司が寄る。
みおも寄る。
「……おい」
「はい?」
「俺から逃げてる?」
「逃げてません!」
「じゃあ止まれ」
蓮司が一歩近づいた。
「わっ!」
みおが反射的に後ろへ下がる。
完全に逃げた。
「逃げてんじゃねえか!」
「ち、違います!」
「何が違う!」
みおは顔を赤くして言葉に詰まった。
本当の理由なんて、言えるはずがない。
――土曜日に先輩とBL映画を見てから、なんか先輩を意識するようになりました。
絶対に無理だ。
「……朝だから」
「また朝かよ」
「朝は、距離感が……」
「朝だけ距離感変わる人間、初めて見たわ」
蓮司は呆れ果てている。
結局その朝、二人は普段より少し離れたまま登校することになった。
◇
三年A組。
朝のホームルーム前。
「おはよ」
陽翔がいつものように蓮司の机へやってきた。
「……」
返事がない。
「蓮司?」
「何だよ」
「機嫌悪い?」
「普通」
ちょうど教室へ入ってきた真琴が、その会話を聞いて足を止めた。
「また?」
「またって何だよ」
「今度は何を勘違いしたの?」
「してねえ!」
陽翔が笑う。
「白鷺事件パート2?」
「殺すぞ」
「怖っ」
真琴は鞄を置きながら尋ねる。
「じゃあ何」
「佐倉が変なんだよ」
陽翔と真琴が同時に止まった。
「みおちゃんが?」
「ああ」
陽翔が一気に身を乗り出す。
「どう変?」
「朝、俺から逃げる」
「逃げる?」
「隣歩こうとすると離れてく」
真琴は一瞬黙った。
そして。
土曜日の映画館を思い出す。
座席は、真琴、みお、蓮司、陽翔。
上映中。
みおは何度も蓮司を意識していた。
雨の場面。
キスシーン。
上映後に少しからかっただけで、耳まで真っ赤になっていた。
「……ああ」
納得した声が漏れた。
蓮司が即座に反応する。
「何だ」
「なるほどね」
「だから何が!」
「別に?」
「その『別に』、絶対何か知ってんだろ!」
今度は陽翔が真琴を見る。
「何? 何が分かった?」
「天野にはそのうち分かる」
「俺だけ仲間外れ!?」
真琴は相手にせず、蓮司を見る。
「まあ」
「何だよ」
「嫌われたわけじゃないと思うよ」
蓮司の動きが一瞬止まった。
「……別に、そんなこと気にしてねえ」
陽翔がすぐ反応する。
「あれ? 嫌われたと思った?」
「思ってねえ!」
「でも今ちょっと安心しただろ」
「してねえ!」
真琴は鼻で笑った。
「ほんと面倒くさい」
「誰がだ!」
朝から蓮司の声が教室に響いた。
◇
一方。
一年B組。
「……最悪」
みおは自分の机へ突っ伏していた。
近くにいた友人が顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「なんでもない……」
「黒瀬先輩?」
がばっ。
みおが勢いよく顔を上げた。
「なんで!?」
「当たり?」
「違う!」
「最近みおちゃんの『なんでもない』、だいたい黒瀬先輩関係じゃない?」
「そんなことないよ!」
友人が笑っている。
そのとき。
教室の入口から声がした。
「佐倉さん」
みおが振り返る。
七瀬結衣だった。
「七瀬先輩」
「おはよう」
「おはようございます」
結衣は教室の中へ少しだけ入ると、みおの机の前で足を止めた。
「今日のお昼、一緒に食べませんか?」
「お昼?」
「真琴先輩たちも一緒に。土曜日は私だけいなかったから」
「あ、いいですね」
みおはすぐに頷いた。
「行きます」
「よかった」
結衣が笑う。
そして、みおの顔を見て首を傾げた。
「……佐倉さん、何かありました?」
「え?」
「ちょっと疲れてるように見える」
「そんなに出てます?」
「ちょっとだけ」
みおは迷った。
けれど。
結衣なら、真琴とはまた違う意味で話しやすい気がした。
「……土曜日、映画見たんです」
「聞きました」
「え?」
「真琴先輩から。買い物のあと、みんなで映画見たって」
プレゼントを買いに行ったことまでは、もちろん結衣には秘密なのだろう。
けれど映画へ行ったことくらいは話していたらしい。
結衣が少し笑う。
「楽しかったですか?」
「楽しかったです」
「何見たんです?」
「……」
みおの返事が止まる。
結衣が首を傾げた。
「?」
「BL映画です」
「……」
結衣が数秒固まった。
そして。
「真琴先輩?」
「はい」
「やったなあ……」
「やりました」
みおは力なく答える。
結衣は笑いを堪えながら尋ねた。
「席は?」
「……」
「佐倉さん?」
「黒瀬先輩の隣でした」
「……ああ」
「なんでみんな同じ反応するんですか!」
結衣がとうとう笑う。
「ごめんなさい」
「私だけ何か分かってないみたいじゃないですか」
「たぶん」
結衣は少し考えて。
「佐倉さんが一番分かってないのかもしれません」
「七瀬先輩まで……」
でも。
その言葉は少し引っかかった。
みおは周囲をちらりと確認し、声を落とす。
「……そんなに分かりやすいですか?」
結衣の表情が少しだけ変わる。
「黒瀬先輩のこと?」
「……」
答えられなかった。
それだけで。
十分な答えになったらしい。
けれど、結衣はからかわなかった。
「気になってます?」
「分かりません」
みおは正直に答える。
「でも……前まで普通に隣歩けたのに、今日はなんか、近いと変な感じがして」
「変な感じ?」
「落ち着かないっていうか」
土曜日の映画。
その前の雨の日。
家で一緒に夕食を食べたとき。
いろいろな蓮司が頭に浮かぶ。
「顔を見ると、土曜日の映画とか思い出して……」
結衣が少しだけ笑った。
「それは大変ですね」
「笑わないでください」
「ごめんなさい」
結衣は少し考えてから、柔らかく言った。
「でも、無理に答えを出さなくてもいいんじゃないですか?」
「桐谷先輩にも似たこと言われました」
「真琴先輩が?」
「好きとか、付き合うとか、最初から自分で分かるとは限らないって」
「うん。私もそう思います」
結衣は頷く。
「気になるなら、今は『気になる』でいいんじゃないですか?」
「……気になる」
みおは小さく繰り返した。
好き。
そう言うのは、まだ怖い。
でも。
「気になる」なら。
今の自分でも認められる気がした。
「……気になる人、なのかもしれません」
口にした瞬間。
一気に恥ずかしくなる。
「っ!」
みおが両手で顔を覆った。
「やっぱり今のなし!」
「もう聞きました」
「忘れてください!」
「無理です」
「七瀬先輩!」
結衣は楽しそうに笑った。
◇
昼休み。
中庭には、みお、蓮司、陽翔、真琴、結衣の五人が集まっていた。
土曜日は結衣がいなかったこともあり、こうして五人で昼食を取るのは久しぶりだった。
「でさ」
陽翔がパンの袋を開けながら、結衣を見る。
「土曜、白鷺に会ったんだよ」
「白鷺先輩に?」
「彼女と一緒だった」
「ああ」
結衣の反応は薄かった。
陽翔が止まる。
「……知ってた?」
「彼女いるのは」
「大学生の美人!」
「そこまで知りませんでした」
「だろ!?」
なぜか勝ち誇った。
真琴が呆れた顔をする。
「何に勝ったの」
「情報量」
「どうでもいい」
みおはそのやり取りに笑いながら弁当を開く。
その瞬間。
視線を感じた。
「……」
顔を上げる。
蓮司と目が合った。
「……!」
反射的に。
みおは弁当へ視線を戻した。
蓮司の眉が寄る。
まただ。
「佐倉」
「はい!」
返事だけ、異様に元気だった。
「今日やっぱ変だろ」
「普通です」
「朝から一回もまともに目ぇ合ってねえ」
「合ってます!」
「今も逸らしただろ」
「卵焼き見ただけです!」
「その前、俺見てただろ」
「見てません!」
陽翔がパンを食べる手を止めた。
真琴も黙る。
結衣まで。
三人が完全に観客になっている。
蓮司が少しだけ身を乗り出した。
「俺、なんかした?」
「してません!」
「じゃあ何だよ」
「何でもないです!」
「そればっかじゃねえか」
もう少し。
蓮司の顔が近づく。
「ちゃんと言え」
「……!」
近い。
みおの脳裏に。
また。
あの映画のキスシーンが蘇った。
「ち、近いです!」
みおの手が反射的に伸びた。
ぺし。
蓮司の額を、手のひらで押し返す。
「いてっ」
蓮司が離れた。
「……」
「……」
全員が固まる。
やった本人であるみおも。
数秒遅れて、自分が何をしたのか理解した。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、別に痛くねえけど」
蓮司は額を押さえた。
「何なんだよ」
「だから近いんです!」
陽翔が口元を押さえている。
真琴も明らかに笑いを堪えていた。
結衣に至っては。
朝の会話を聞いているので、もうほとんど状況を理解している。
蓮司が不満そうに言った。
「前は平気だっただろ」
その一言で。
みおが止まった。
「……前は」
「?」
「前は……意識してなかったから」
口から出た。
「……」
時間が止まった。
みおの目が大きくなる。
蓮司も固まる。
陽翔は口を開けたまま動かない。
真琴の眉が、ゆっくり上がった。
結衣だけが。
「あ」
と小さく呟いた。
みおの顔が。
一気に赤くなっていく。
「ち、違います!」
蓮司がようやく口を開く。
「何が」
「今のは!」
「何を意識してんだよ」
「言えません!」
「なんで!」
「言えるわけないでしょ!」
みおは慌てて弁当箱を閉じた。
「私、教室戻ります!」
「まだ半分残ってるぞ!」
「あとで食べます!」
勢いよく立ち上がる。
「ごちそうさまでした!」
そして。
逃げた。
残された四人が、その背中を見送る。
「……」
数秒後。
陽翔が、ゆっくり蓮司を見る。
「……蓮司」
「何だよ」
「今の――」
「言うな」
「でも」
「言うな!」
真琴がとうとう笑った。
「よかったじゃん」
「何が!」
「意識されてるって」
蓮司の耳が。
ほんの少し赤くなる。
「意味が違うかもしれねえだろ」
結衣が首を傾げた。
「どう違う意味だったら、あんなに真っ赤になるんですか?」
「……」
蓮司が黙った。
陽翔が結衣を見る。
「結衣ちゃん、強い」
真琴が少し得意そうに言う。
「私の彼女だから」
「なんで真琴が得意げなんだよ!」
三人は笑っている。
ただ。
蓮司だけは。
みおが去っていった方向を見ていた。
――前は、意識してなかったから。
その一言が。
頭から離れなかった。
◇
放課後。
みおはいつもより早く昇降口を出た。
「……最悪」
今日は。
先に帰ろう。
さすがに蓮司と顔を合わせるのは無理だ。
昼休みの自分を思い出すだけで、まだ顔が熱くなる。
――前は意識してなかったから。
「何言ってるの、私……」
あれでは。
今は意識していると言ったのと同じだ。
早く帰ろう。
そう思って歩き出したところで。
「佐倉」
背後から。
一番聞きたくて、一番聞きたくなかった声がした。
「……」
足が止まる。
ゆっくり振り返る。
案の定。
蓮司だった。
「……黒瀬先輩」
「なんで先帰ろうとしてんだ」
「用事が」
「あるのか?」
「……ないです」
「嘘下手だな」
蓮司が隣へ来る。
そのまま歩き出した。
みおも仕方なく隣へ並ぶ。
しばらく。
会話はなかった。
みおはずっと地面を見ている。
「……」
「……」
やがて。
蓮司が口を開いた。
「昼の」
「忘れてください!」
「まだ何も言ってねえ」
「『昼』って言った時点で分かります!」
「じゃあ聞くけど」
「聞かないでください!」
蓮司がみおを見る。
「何を意識してんだよ」
「だから言えません!」
「俺?」
みおの足が止まった。
蓮司も止まる。
夕方の道。
向かい合う二人。
「……」
みおは顔を上げられない。
「……そういう聞き方、ずるいです」
「何が」
「はいか、いいえしかないじゃないですか」
「普通そうだろ」
「普通じゃないです!」
「じゃあ、違うのか?」
「……」
答えられない。
違う。
その一言を言えば終わる。
けれど。
言えなかった。
蓮司が、しばらくみおを見る。
「……違わねえんだ」
「……」
みおの頬がさらに熱くなった。
「先輩」
「何」
「今日だけ、この話やめません?」
「なんで」
「私が無理だからです」
「……」
蓮司は少し黙った。
それから。
「分かった」
思っていたより、あっさり引いた。
みおが少し驚いて顔を上げる。
「いいんですか?」
「嫌だっつってんのに、無理に聞くほどガキじゃねえよ」
「……」
「そのうち聞く」
「そのうち!?」
「今日は聞かねえ」
「ずっと聞かなくていいです!」
蓮司が少しだけ笑った。
「それは嫌だ」
「……」
胸が。
また一つ。
強く鳴った。
蓮司は気づかないまま歩き出す。
「帰るぞ」
「……はい」
みおも、その横へ並ぶ。
朝より。
少しだけ近い。
けれど。
肩が触れないくらい。
蓮司はそれ以上近づいてこなかった。
みおも。
今度は逃げなかった。
「……」
「……」
帰り道。
二人とも、ほとんど何も話さなかった。
それなのに。
朝のような居心地の悪さはなかった。
むしろ。
今までとは少し違う距離を、お互いに確かめながら歩いているようだった。
みおはようやく。
ほんの少しだけ認め始めていた。
黒瀬蓮司は。
もう。
ただの「仲のいい先輩」ではないのかもしれない。
少なくとも。
ほかの誰かとは違う。
目が合えば落ち着かなくて。
近づかれれば意識して。
自分がどう思っているのか聞かれただけで、こんなにも心臓が騒がしくなる。
その感情が。
恋なのかどうかは。
まだ分からない。
でも。
黒瀬蓮司は。
間違いなく。
みおにとって「気になる人」になり始めていた。




