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第2話 怖い先輩は、ご近所さんでした

二人は住宅街へ続く道を歩いていた。


横に並んでいるわけではない。


けれど、さっきまで何メートルも開いていた距離は、いつの間にか一歩分ほどまで縮まっていた。


みおは、ときどき隣を歩く蓮司を盗み見る。


学校で初めて会ったときは、ただ怖かった。


銀灰色の髪に鋭い目つき。着崩した制服に、ぶっきらぼうな話し方。


もし廊下ですれ違っただけなら、これから先も自分から話しかけることはなかったかもしれない。


けれど、実際に話してみると少し違った。


みおが警戒したことに気づけば、自分から距離を取ってくれた。


住んでいる場所を聞きすぎたと思えば、すぐに謝った。


口は悪い。


顔も怖い。


声だって、まだちょっと怖い。


でも。


少なくとも、見た目だけで想像したような人ではなさそうだった。


「……先輩」


「あ?」


低い声が返ってくる。


やっぱりちょっと怖い。


みおは一瞬だけ怯んだものの、蓮司が手にしているコンビニ袋へ目を向けた。


「晩ごはん、コンビニなんですか?」


袋の隙間から見えているのは、カップ麺とペットボトルの水だった。


蓮司も自分の袋を見る。


「悪いか」


「悪くはないですけど……」


「じゃあいいだろ」


「野菜がないです」


「母親か、お前は」


「だって、それだけじゃ身体に悪いですよ」


思わず口を尖らせる。


蓮司は面倒そうな顔をした。


「一日くらい平気だ」


「昨日は?」


「……」


「一昨日は?」


「……」


返事がない。


みおは横からじっと顔を覗き込んだ。


「毎日じゃないですか」


「うるせえな」


「やっぱり」


蓮司は諦めたように頭を掻いた。


「料理すんの、めんどくせえんだよ」


「簡単なのもありますよ。野菜炒めとか」


「包丁出す時点で簡単じゃねえ」


「えぇ……」


あまりにも堂々と言われ、みおは本気で引いた。


料理が好きな自分とは、どうやら根本的なところから感覚が違うらしい。


そんなみおの顔を見て、蓮司が眉を寄せる。


「なんだよ」


「先輩、本当に何食べて生きてるんですか?」


「人を野生動物みたいに言うな」


「ふふっ」


耐えきれず、みおは吹き出した。


蓮司の足が止まる。


気づかず数歩進んだみおが振り返った。


「……先輩?」


「いや」


蓮司は少しだけ目を逸らした。


「学校じゃ、ずっと固かったから」


「私がですか?」


「ああ」


「……分かりました?」


「分かるだろ。ずっと肩上がってたぞ」


「そんなに?」


「ロボットみてえだった」


「ひどい!」


「事実だろ」


みおはむっとする。


「先輩だって、ずっと怖い顔してました」


「生まれつきだ」


「知りませんよ」


言い返した瞬間。


蓮司の口元が、ほんの少し緩んだ。


今度は見間違いではない。


「あ」


「何だよ」


「やっぱり笑ってる」


蓮司の表情が瞬時に元へ戻った。


「笑ってねえ」


「今のは絶対笑いました!」


「見間違いだ」


「そんなわけ――」


言い返そうとして。


みおの足が止まった。


「あれ?」


いつの間にか、見慣れた公園まで戻ってきていた。


引っ越してからまだそれほど経ってはいないけれど、毎日家を出るたびに通る場所だ。今では、この公園が見えれば帰ってきたと思える程度には馴染んでいる。


その向こうには、さきと暮らしているマンションへ続く道がある。


「あ」


みおは蓮司を見る。


「私、こっちです」


すると蓮司も、公園を見て妙な顔をした。


「……マジか」


「?」


蓮司が公園の反対側を指す。


そこには、少し年季の入った三階建てのアパートがあった。


「あっち」


「はい?」


「俺んち」


「えっ」


思わずアパートと蓮司を交互に見る。


「近っ!」


「俺に言うな」


「だって……学校だけじゃなくて、家までこんな近いなんて」


「俺も今日知った」


確かにそうだ。


みお自身、この街へ引っ越してきてからまだ日が浅い。


近所にどんな人が住んでいるのかなど、ほとんど知らなかった。


まさか転校初日に会った三年生が、歩いて数分のところに住んでいるとは思わない。


蓮司がふと尋ねる。


「お前、朝も歩き?」


「はい」


学校まで歩いて通えることも、引っ越し先を決めるときにさきが気にしてくれた条件の一つだった。


蓮司は学校の方向へ目を向ける。


「じゃあ、学校までほぼ同じ道か」


「……たぶん」


一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。


つまり。


これから朝や放課後に、顔を合わせる可能性がかなり高いということだ。


みおがその事実を考えていると、蓮司が先に口を開いた。


「まあ、見かけても別に挨拶とかいらねえから」


「なんでですか?」


「面倒だろ」


「私はしますよ」


「……勝手にしろ」


「はい。勝手にします」


蓮司が何とも言えない顔をした。


みお自身も不思議だった。


朝、学校で初めて会ったときには、まともに目を見ることさえ少し怖かった。


それなのに今は、こうして普通に言い返している。


「じゃあ、私こっちなので」


「ああ」


みおはマンションへ続く道へ進む。


けれど数歩歩いたところで、もう一度振り返った。


「黒瀬先輩」


「あ?」


「今日はありがとうございました」


「何が」


「職員室、教えてくれたので」


「あんなもんで礼言うな」


「でも、助かりました」


蓮司はしばらくみおを見たあと、面倒そうに片手を上げた。


「じゃあな」


「はい。また明日」


「……」


蓮司が一瞬だけ止まった。


けれど、何も言わずにアパートの方向へ歩いていく。


みおも自宅へ向かった。


数歩進んだところで。


ふと、自分が口にした言葉を思い出す。


――また明日。


転校初日の朝。


見知らぬ教室の前で足が止まっていた自分は、今日の終わりにそんな言葉を誰かへ言えるなんて思っていなかった。


しかも相手は。


今日出会ったばかりの、ものすごく怖そうな三年生。


「……ふふっ」


なんだか少しおかしくて。


みおは一人で笑った。


◇


「ただいまー」


夕方。


玄関を開けると、すぐにリビングから声が返ってきた。


「おかえりー!」


今日は珍しく、さきのほうが先に帰っているらしい。


リビングへ入ると、ソファーに座ったさきがノートパソコンを開いていた。


「どうだった? 初日」


「普通だったよ」


「普通?」


「うん。クラスの子も優しかったし、お昼も一緒に食べた」


「よかったじゃん」


さきが安心したように笑う。


今朝は軽く振る舞っていたけれど、やはり心配していたのだろう。


「学校も?」


「うん。先生も普通だったし」


「そっか」


その一言に、少しだけ安堵が混じった。


桜羽学園を選ぶまで、両親もさきもかなり学校について調べてくれた。事前に何度も相談し、みお本人の希望も確認してくれた。


それでも、実際に通ってみなければ分からないことはある。


少なくとも初日は、心配していたようなことは何もなかった。


「よかった、よかった」


さきが頷く。


そして。


「で?」


「で?」


「男子」


「なんでいきなり男子なの?」


「姉として重要だから」


「何が」


「高校生活における華」


「お姉ちゃんの大学生活と一緒にしないで」


「失礼な。私だって健全な大学生だよ」


みおは疑わしそうな目を向けながら、買ってきたものを冷蔵庫へ入れていく。


「今日、豚肉買ってきたから生姜焼きにするね」


「最高。結婚して」


「妹」


「じゃあ養って」


「働いて」


みおがエプロンを身につける。


その後ろから、さきが何気ない調子で尋ねてきた。


「本当に何もなかった?」


「何もって?」


「転校初日らしいイベント。迷子になったとか、先輩に絡まれたとか」


みおの手が止まった。


「……」


数秒。


さきの目が光った。


「あるな?」


「なんで分かるの」


「今の間」


「別に大したことじゃないよ」


「聞こう」


ぱたん。


さきがノートパソコンを閉じた。


完全に聞く体勢だ。


「ちょっと校舎で迷って、三年生の先輩に職員室の場所を教えてもらっただけ」


「男?」


「男の先輩だけど」


「顔は?」


「そこ大事?」


「非常に」


「なんで」


「いいから」


みおは冷蔵庫からキャベツを取り出しながら、今朝会った相手を思い浮かべる。


「……怖い」


「怖い?」


「すっごく目つき悪くて、髪も銀っぽくて。ピアスいっぱいしてて、制服も着崩してて」


「不良?」


「元不良らしい」


さきの眉が少し上がった。


「らしい?」


「学校でそういう噂があるみたい」


「名前は?」


「黒瀬蓮司先輩」


「へえ」


さきは顎に手を当てた。


「黒瀬蓮司……」


「何?」


「いや。字面からして強そうだなって」


「そこ?」


みおは苦笑しながらキャベツを切り始める。


「でも、悪い人じゃなかったよ」


「ほう」


「プリント拾ってくれたし、道も教えてくれたし」


「ほうほう」


「帰りにも偶然会って――」


包丁の音が止まる。


背中に妙な気配を感じた。


恐る恐る振り返る。


さきが、ものすごく楽しそうな顔をしていた。


「帰りにも?」


「……たまたまだよ」


「それで?」


「家が近所だった」


「それで?」


「ちょっと話しながら帰っただけ」


「それで?」


「それだけ!」


思わず声が大きくなる。


さきはソファーへ身体を預け、楽しそうに笑った。


「転校初日から強いなあ」


「何が!」


「怖い元不良の三年生。しかも実は優しい。さらに近所」


「変なまとめ方しないで!」


「属性盛りすぎじゃない?」


「知らないよ!」


笑っていたさきだったが、やがて少しだけ表情を変えた。


「まあ、冗談は置いといて」


「うん」


「怖いと思ったら、無理して近づかなくていいからね」


今度の声は真面目だった。


「みお、人のこと悪く思いたくなくて我慢するときあるから」


「……」


それは。


少しだけ心当たりがある。


みおは包丁を置き、さきを見た。


「大丈夫」


「本当に?」


「うん」


少し考えてから続ける。


「怖いのは本当だけど。でも、嫌な感じはしなかったから」


「ならいい」


さきはそれ以上言わなかった。


妹が大丈夫だと言ったなら、まずは信じる。


そういうところは、昔から変わらない。


――と思ったのも束の間。


「で、イケメン?」


「まだ言うの!?」


「そこだけ答えて」


「もういいでしょ!」


「重要」


「何が!」


さきがじっと待っている。


みおは生姜をすりおろしながら、小さく息を吐いた。


そして。


「……まあ」


「まあ?」


「顔は、かっこいいと思うけど」


言った瞬間。


さきの口元が上がった。


「はい出ました」


「もうご飯なし!」


「ごめんなさい!」


◇


翌朝。


玄関の鏡の前で、みおは制服のリボンを整えた。


昨日ほどではない。


けれど、新しい学校へ向かう緊張はまだ少し残っている。


「行ってきます」


「いってらっしゃーい」


リビングから、さきの声。


そして。


「黒瀬先輩によろしくー」


「言わない!」


朝から余計なことを言われ、みおは勢いよく玄関の扉を閉めた。


「もう……」


昨日話したことを、完全に面白がっている。


ため息をつきながら住宅街を歩く。


公園の前まで来たところで。


「あ」


向こうから、見覚えのある銀灰色の髪が歩いてきた。


黒瀬蓮司だった。


蓮司もこちらに気づく。


「……」


「……」


昨日の別れ際の会話を思い出した。


――見かけても別に挨拶とかいらねえから。


――私はしますよ。


――勝手にしろ。


なら。


本当に勝手にしよう。


「おはようございます、黒瀬先輩」


元気よく頭を下げる。


蓮司が眉を寄せた。


「言ったよな。挨拶いらねえって」


「私は勝手にするって言いました」


「……」


「おはようございます」


二回目。


蓮司は数秒黙ったあと、諦めたように息を吐いた。


「……はよ」


みおの顔が明るくなる。


「おはようございます」


「三回目はいらねえ」


二人は同じ方向へ歩き始めた。


昨日とは違う。


今日は最初から、自然に横へ並んでいた。


しばらくすると、蓮司の視線がみおの手元へ落ちる。


「それ弁当か」


「はい」


「自分で?」


「お姉ちゃんの分も作りました」


「へえ」


「先輩は?」


「購買」


「……」


みおがじっと見る。


「なんだよ」


「朝ごはんは?」


蓮司の視線がわずかに泳いだ。


「……コーヒー」


「飲み物です」


「ブラックだから腹に溜まる」


「溜まりません」


「うるせえな」


本気でそう思っているのだろうか。


昨日のカップ麺といい、この先輩の食生活は想像以上に危険かもしれない。


そう思った、そのときだった。


チリン、チリン!


後ろから、自転車のベルがけたたましく鳴った。


「すみませーん!」


みおが振り返る。


細い住宅街の道を、高校生らしい男子がかなりの速度で自転車を走らせてきていた。


「……!」


みおは慌てて道を譲ろうとした。


右へ一歩。


ところが。


自転車も同じ方向へ避ける。


「あっ」


ぶつかる。


そう思った瞬間だった。


ぐいっ。


腕を強く引かれる。


「危ねえ!」


身体が一気に横へ動いた。


直後、自転車が二人のすぐ横を駆け抜けていく。


「ごめんなさーい!」


遠ざかっていく声。


「……」


みおは呆然としていた。


目の前にあるのは、白いシャツ。


近い。


あまりにも近い。


自分の手は、反射的に蓮司の胸元を掴んでいた。


そして蓮司の腕は、みおの肩を抱き寄せるような形になっている。


「……」


「……」


ゆっくり顔を上げる。


目が合った。


近い。


いつも鋭く見える蓮司の目が、今はすぐ目の前にある。


急に自分たちの体勢を意識した。


胸の奥が、どくんと鳴る。


先に視線を逸らしたのは蓮司だった。


「……大丈夫か」


「は、はい」


「なら離れろ」


「先輩が引っ張ったんじゃないですか!」


「お前が掴んでんだろ!」


「え?」


自分の手を見る。


蓮司のシャツを、しっかり握っていた。


「あっ!」


慌てて手を離す。


「ご、ごめんなさい!」


蓮司もすぐに腕を離した。


二人の間に一歩分の距離ができる。


「……」


みおの顔は熱かった。


きっと赤くなっている。


蓮司も何となく目を合わせようとしない。


「……行くぞ」


「はい……」


再び歩き始める。


さっきまで自然に並んでいたはずなのに。


今度は、ほんの少しだけ間が空いていた。


会話もない。


みおは前だけを見ながら、なぜか先ほどの感触を思い出してしまう。


腕を引かれたこと。


胸元を掴んだこと。


あんなに近い距離で、蓮司の顔を見たこと。


「……」


考えないようにしよう。


助けてもらっただけだ。


それ以上でも、それ以下でもない。


そう自分へ言い聞かせているうちに、桜羽学園の校門が見えてきた。


その前に、一人の男子生徒が立っている。


黒髪。


眼鏡。


制服はネクタイからシャツまで隙なく整えられている。


白鷺怜央。


三年B組の生徒であり、桜羽学園の風紀委員長だ。


登校時間の見回りをしているらしい。


怜央の視線が、みおへ向いた。


次に。


その隣を歩く蓮司へ。


ほんの一瞬だけ、間があった。


「佐倉」


「はい?」


「昨日が初日だったな」


「あ、はい」


「何か困ったことはなかったか?」


みおは少し驚いた。


まだ直接話したことはない。


けれど、転校生へのサポートも風紀委員会の役割だと、事前の学校説明で聞いていたことを思い出す。


「大丈夫です。クラスの人も優しかったですし」


「そうか。ならいい」


淡々とした言い方だったが、冷たい感じはしない。


「ありがとうございます」


みおが頭を下げる。


そこで怜央は、もう一度蓮司を見た。


「それで」


「あ?」


「なぜお前と一緒に登校してる」


蓮司の顔が露骨に嫌そうになる。


「たまたまだ」


「近所だったんです」


みおも説明する。


怜央は小さく頷いた。


「なるほど」


それだけだった。


本当に。


それだけだった。


なのに。


蓮司はなぜか気に入らないような顔をしている。


「……何だよ」


「何も言ってない」


「その顔がムカつく」


「普通の顔だ」


「お前もかよ」


「?」


怜央には意味が分からないらしい。


昨日、蓮司と交わした会話を思い出して、みおは思わず笑いそうになった。


すると、校舎側からさらに大きな声が飛んでくる。


「おーい、蓮司!」


天野陽翔だった。


隣には桐谷真琴もいる。


二人はこちらへやってきて。


みおと蓮司が並んでいるのを見る。


「……」


陽翔が止まった。


真琴も止まった。


二人の視線が、まず蓮司へ。


次にみおへ。


そして。


もう一度、蓮司へ。


陽翔の口元が、ゆっくり持ち上がった。


「……へえ?」


蓮司の眉間に深い皺が刻まれる。


「その顔やめろ」


「俺、まだ何も言ってないけど?」


真琴はみおを見る。


「佐倉さん、おはよ」


「おはようございます」


「黒瀬と一緒だったの?」


「近所だったんです」


「へえ」


今度は真琴まで、陽翔とよく似た顔をした。


「お前もやめろ!」


蓮司の声が、朝の校門前に響く。


その横で、怜央だけが冷静だった。


「黒瀬。校門前で騒ぐな」


「全部俺のせいかよ!」


「一番声が大きい」


「こいつらが――!」


みおはとうとう耐えきれず、笑ってしまった。


「ふふっ」


「……何笑ってんだよ」


「だって」


昨日までなら、絶対に近づかなかったと思う。


怖い目をした三年生。


口が悪くて。


制服も着崩していて。


元不良だと噂されている先輩。


けれど。


その周りには、こんなにも遠慮なく話しかける友人たちがいて。


本人も悪態をつきながら、その輪の中にいる。


転校二日目の朝。


みおは少しずつ分かり始めていた。


黒瀬蓮司という人は。


最初に見たときに思ったよりも、ずっと普通の高校生で。


そして。


その周りは思っていた以上に騒がしい。


「なんか、楽しそうだなって」


「は?」


「何でもないです」


「言えよ」


「言いません」


「お前な……」


みおは笑った。


昨日まで知らない人ばかりだった学校が。


ほんの少しずつ。


自分の知っている場所へ変わり始めていた。


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