第1話 転校初日と、怖い先輩
九月。二学期が始まって数日が経った、月曜日の朝。
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、ダイニングテーブルに並んだ二つの弁当箱を照らしていた。
「……よし」
佐倉みおは、最後に小さなミニトマトを隙間へ詰めると、満足そうに弁当箱の蓋を閉じた。
今日は転校初日だ。
だから早起きをした――わけではない。正確には、緊張して夜中に何度も目が覚めてしまい、とうとう眠ることを諦めただけだった。
せっかく起きたのだからと朝食を作り、そのままいつもの癖で弁当まで用意していたら、普段よりずいぶん早く準備が終わってしまった。
「みおー。コーヒー……」
眠気の塊みたいな声とともに、姉のさきがリビングへ入ってきた。
片手にはジャケット。髪にはまだ少し寝癖が残っている。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよ……って、もう弁当できてんの?」
冷蔵庫へ向かいかけたさきが、テーブルの上を見て足を止める。
「うん」
「今日くらい買えばよかったのに。転校初日でしょ?」
「だからだよ。お昼になってから何食べようって悩むの嫌だし」
「あー、なるほど」
納得したように頷いたさきは、テーブルに置かれていた自分の弁当箱を手に取った。そして、にやりと笑う。
「姉としては妹の緊張をほぐしてあげたいところなんだけど」
「うん」
「私の弁当まで作ってくれるなら、このまま緊張しててもらうのもアリかな」
「返して」
「ごめんなさい」
さきは即座に弁当箱を胸へ抱え込んだ。
あまりの速さに、みおは呆れて息を吐く。
「……ちゃんと洗い物してね」
「もちろん」
「昨日もそう言ったよね?」
「昨日の私は昨日の私。今日の私は生まれ変わった私」
「じゃあ昨日の人が残したお皿を、今日の人が洗って」
「世知辛いなぁ……」
そんなくだらないやり取りをしているうちに、張りつめていたものが少しだけ緩んでいく。
たぶん、さきは最初からそれを狙っている。
本人に言えば、絶対に否定するだろうけれど。
さきはコーヒーを一口飲むと、改めてみおの姿を眺めた。
ネイビーのブレザーに白いシャツ。チェック柄のプリーツスカート。胸元には、落ち着いたピンク色のリボン。
今日から通う、桜羽学園高等部の制服だ。
「似合ってる」
「……ほんと?」
思わず聞き返してしまった。
「ほんと。かわいいよ」
「……ありがと」
鏡では何度も確認した。髪もきちんと整えたし、制服だって自分に似合っていると思う。
それでも、誰かからそう言ってもらえるだけで安心する。
特に今日は、この制服を着て初めて学校へ行く日なのだから。
少し前まで、みおはこの街に住んでいなかった。
家族の事情で生活環境が変わり、現在は海外で暮らしている両親と離れ、大学生の姉・さきと二人でこの街に暮らしている。
それに伴って、学校も変わった。
二学期の途中という中途半端な時期の転校。
けれど、みおが本当に不安だったのは、転校そのものではなかった。
新しい学校で、自分がどう受け入れられるのか。
そのことだった。
みおはトランスジェンダーだ。
出生時には男性として扱われていたが、自分自身は女の子として生きている。中学生の頃から治療を続けており、今では初対面の人ならごく自然に女子だと思うほど、外見も声も女性的になっていた。
けれど、学校生活は見た目だけで済む話ではない。
制服はどうするのか。トイレや更衣室はどうなるのか。そして何より、毎日同じ教室で過ごす同級生たちは、自分をどう見るのか。
だからこそ、この街で通う学校として桜羽学園を選んだ。
私立の共学校で、中高一貫ではあるものの、高校からの入学生や転校生も受け入れている。進学校寄りではあるが、勉強だけを最優先するような学校ではなく、生徒それぞれの個性や進路を尊重する校風だ。
そして何より、性別や家庭環境など、生徒一人ひとりの事情に応じた対応を行っている。
制服も本人が希望するものを選ぶことができる。
学校との事前の話し合いでも、みおは女子生徒として学校生活を送ることになっていた。
条件だけを見れば、かなり安心できる学校だ。
――それでも。
制度が整っていることと、人の気持ちは別だ。
実際に同級生と顔を合わせるまでは、やはり不安だった。
そんなみおの表情を見ていたさきが、いつもの軽い口調を少しだけ和らげる。
「まあ、今日一日で無理に馴染もうとしなくていいからね」
「うん」
「嫌なこと聞かれたら答えなくていい。困ったら先生に言う。それでも駄目なら私に電話」
「分かってるって」
「あと、変な男に絡まれたら?」
「お姉ちゃんに連絡」
「よし」
「でも、大学の講義中だったら?」
「教授に『妹に変な男が近づいてるので帰ります』って言う」
「絶対やめて」
「冗談、冗談」
笑いながら、さきがみおの頭を軽く撫でる。
「行ってらっしゃい、みお」
「……行ってきます」
玄関の扉を開けると、朝の少し冷たい空気が頬に触れた。
みおは一度、大きく息を吸う。
新しい街。
新しい学校。
新しいクラス。
そして、新しい人間関係。
今日から、自分の高校生活がもう一度始まる。
期待よりも、不安のほうが少しだけ大きい。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いて、みおは歩き出した。
◇
桜羽学園高等部。
校門の前までやってきたみおは、足を止めて校舎を見上げた。
事前の説明や手続きで何度か訪れている。それでも、今日から自分がここの生徒になると思って見る校舎は、以前とは少し違って見えた。
比較的新しい建物で、大きな窓を多く使った明るい造りになっている。校舎の中央には中庭があり、その真ん中には一本の大きな桜の木が立っていた。
今は青々とした葉を揺らしているが、春になればきっと綺麗なのだろう。
登校していく生徒たちにも、それぞれ個性がある。
制服をきっちり着ている生徒もいれば、少しだけ着崩している生徒もいる。女子でもスカートではなくスラックスを選んでいる姿が珍しくない。
自由ではある。
ただし、何でも好き勝手にしていいわけではない。
他人の尊厳を傷つける行為には厳しい――それが、この学校の考え方だった。
みおにとっては、その空気そのものがありがたかった。
校門をくぐる。
周囲を歩いている生徒たちは、友人と話したり、眠そうに欠伸をしたり、スマートフォンを確認したりしている。
誰もみおのことばかり見ているわけではない。
当たり前のことなのに、その当たり前が少し嬉しかった。
職員室で簡単な説明を受けたあと、みおは担任と一緒に一年B組へ向かった。
教室の前まで来ると、扉一枚向こうから何人もの話し声が聞こえてくる。
みおの足が止まった。
ここを開ければ、全員が自分を見る。
そう思った瞬間、心臓が速くなる。
「佐倉さん」
担任が振り返った。
「大丈夫?」
「……はい」
返事までに、少し間が空いた。
けれど、担任は急かさなかった。
「最初から完璧に馴染もうとしなくていいからね」
今朝、さきにも似たようなことを言われた。
みおは少しだけ笑って頷く。
「はい」
みおが転校してくることについて、クラスにはすでに必要な範囲で説明がされている。
みおは女子生徒として学校生活を送ること。
特別扱いをする必要はないこと。
そして、本人が嫌がるようなことを興味本位で聞いたり、詮索したりしないこと。
みお自身が初日の教壇で、自分の事情を一から説明する必要はない。
学校側からそう言ってもらえたときは、かなり安心した。
それでも。
実際にどう迎えられるのかは、この扉を開けなければ分からない。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
担任が教室の扉を開けた。
それまで賑やかだった教室が、少しずつ静かになる。
一斉に向けられる視線。
やっぱり、緊張する。
担任が黒板へ名前を書いた。
――佐倉みお。
「今日からこのクラスに入る佐倉みおさんです。佐倉さん、一言お願いします」
「はい」
教壇の前へ出る。
二十数人の顔が、こちらを見ている。
声が震えたらどうしよう。
変なことを言ったらどうしよう。
いくつもの不安が一瞬で頭を巡った。
けれど。
「佐倉みおです。前の学校から、二学期に転校してきました」
ちゃんと声が出た。
それだけで少し安心した。
「料理が好きです。まだ学校のことも全然分からないので……いろいろ教えてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」
頭を下げる。
一拍遅れて、ぱちぱちと拍手が起こった。
「かわいい」
どこかから、小さな声が聞こえる。
「ね。思った」
「髪きれいじゃない?」
みおはそっと顔を上げた。
転校生に対する好奇心くらいはある。
けれど、少なくとも今のところ、悪意のある視線は見当たらなかった。
担任が窓際の空席を指す。
「佐倉さんは、あそこね」
「はい」
席へ向かう途中、何人かの女子生徒と目が合った。
みんな、普通に笑ってくれる。
それが嬉しかった。
席へ座った直後、前の席の女子がくるりと振り返った。
「佐倉さん、みおちゃんって呼んでいい?」
「え?」
まだ座って十秒も経っていない。
あまりの早さに、みおは目を丸くした。
「う、うん」
「私、小野。分かんないことあったら聞いてね」
「ありがとう」
すると、その横から別の女子まで顔を出した。
「お昼、一緒に食べよ」
「えっ、いいの?」
「もちろん」
「……ありがとう」
自然に笑えた。
思っていたより、ずっと普通だった。
ただ転校してきた一人の女の子として、話しかけてもらえている。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。
みおは職員室へ提出する書類を抱えながら、廊下を歩いていた。
「職員室……こっちだったよね」
事前に校内を案内してもらってはいる。
けれど、まだ位置関係が頭の中でつながっていない。
一階へ降りるつもりだったはずなのに、気づけば見覚えのない渡り廊下へ出ていた。
「……違う」
完全に迷った。
校舎が広い。
さっき通った階段はどこだっただろう。
「戻ろ……」
そう思って振り返った、その瞬間。
どんっ。
「きゃっ!」
誰かとぶつかった。
抱えていたプリントが手から滑り、白い紙が廊下へ散らばる。
「あ、ご、ごめんなさい!」
みおは慌ててしゃがみ込んだ。
すると相手も、無言で一枚の紙を拾った。
大きな手だった。
「前見ろ」
低い声。
「ごめんなさ――」
顔を上げる。
そこで、みおの言葉が止まった。
銀灰色の髪。
鋭い目。
ネクタイを緩め、白いシャツの第一ボタンを開けた着崩し気味の制服。
耳には複数のピアス。
怖い。
それが、黒瀬蓮司への第一印象だった。
目つきだけなら、今まで会った高校生の中で一番怖いかもしれない。
当の蓮司は、みおの内心など知る由もなく、床に散らばったプリントを拾っていた。
「一年?」
「……はい」
「見ねえ顔だな」
「あ、今日から転校してきて……」
「ふーん」
興味があるのかないのか分からない声だった。
蓮司は拾い終えた紙をまとめ、みおへ差し出す。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
受け取ろうとした、そのとき。
一枚だけ、蓮司が手を引いた。
「え……」
みおの身体がわずかに固まる。
何かしただろうか。
そんな不安が顔に出たのかもしれない。
蓮司は一枚の紙を見せた。
「名前」
「はい?」
「これ、お前のじゃねえだろ」
「……え?」
見ると、確かに自分の持っていた書類ではない。
どうやら、もともと廊下に落ちていた紙まで一緒に拾ってしまったらしい。
「あ……」
蓮司は数メートル先の教室を指した。
「三年A組。そいつの」
「あ、ありがとうございます」
「二回言わなくていい」
「……すみません」
「それも別にいらねえ」
「……」
では、どうすればいいのだろう。
お礼を言えば止められ、謝っても止められる。
みおが完全に困っていると。
「蓮司ー!」
遠くから、やけに明るい声が飛んできた。
目の前の怖い先輩が、露骨に嫌そうな顔をする。
廊下の向こうから、スポーツバッグを肩に掛けた男子生徒が走ってきた。
その少し後ろには、長い黒髪の女子生徒。
「蓮司、また一年生ビビらせてんの?」
男子生徒――天野陽翔が、みおを見るなり笑った。
「ぶつかっただけだ」
「その言い方が怖いんだって」
「うるせえ」
黒髪の女子――桐谷真琴も、みおを見る。
「今日転校してきた子じゃない?」
「あ」
みおは慌てて立ち上がり、軽く頭を下げた。
「佐倉みおです」
「あー! 噂の転校生」
陽翔が人懐っこく笑う。
「俺、天野陽翔。三年。で、こっちが桐谷真琴」
「どーも」
真琴が軽く片手を上げる。
そして蓮司を指した。
「で、その怖いのが黒瀬蓮司」
「誰が怖いんだよ」
「お前」
即答だった。
陽翔が吹き出す。
「やっぱ怖がられてんじゃん」
「うるせえ」
みおは三人を順番に見る。
少し、不思議だった。
さっきまで蓮司は、絶対に近づかないほうがいい怖い先輩に見えていた。
なのに友人からは、ごく普通に弄られている。
しかも本人も、本気で嫌がっているようには見えない。
真琴がみおの抱えている書類を見る。
「職員室?」
「あ、はい」
「逆方向」
「……やっぱり」
みおが肩を落とす。
陽翔が笑った。
「転校初日あるあるだな」
「笑うなよ」
真琴が陽翔の腕を軽く叩く。
そのとき。
「階段降りて右」
蓮司が言った。
「え?」
「突き当たり左。職員室」
「あ……はい」
それだけ言うと、蓮司はさっさと歩き始めた。
陽翔がみおへ顔を寄せ、小声で言う。
「あいつ、あれで教えてるつもりだから」
数メートル先を歩いていた蓮司が振り返った。
「聞こえてんぞ」
「耳いいなー」
「殺すぞ」
「ほら怖い」
「天野」
「はいはい、行きます行きます」
真琴は、みおへ苦笑を向けた。
「まあ、あいつ顔と口があれなだけだから」
「あれってなんだよ!」
「全部」
「お前らマジで――」
三人の声が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
みおはその背中を、しばらく見ていた。
確かに怖い。
目も、声も、話し方も。
けれど。
床に落ちた紙を全部拾ってくれた。
間違えて拾った紙にも気づいてくれた。
職員室への道も教えてくれた。
「……悪い人では、ないのかな」
少なくとも、最初に見た印象だけとは少し違う。
みおは教えられた方向へ歩き出した。
◇
昼休み。
みおはクラスの女子たちと机を囲んで弁当を食べていた。
「え、これ自分で作ったの?」
「うん」
「すごっ」
「卵焼きめっちゃ綺麗」
「朝から?」
「昨日の夜に少し下ごしらえしてたから」
朝とは違う。
もう、普通に話せている。
自分でも少し驚くくらいだった。
転校初日。
もっと一日中緊張していると思っていた。
けれど今は、普通に笑えている。
それだけで十分だった。
◇
その頃、三年A組。
「なあ、蓮司」
購買のパンを咥えた陽翔が、蓮司の机へ肘をついた。
「なんだよ」
蓮司は顔を上げない。
「さっきの一年生、かわいかったな」
「知らねえ」
「名前覚えてる?」
「知らねえ」
すると、隣から真琴が口を挟んだ。
「佐倉みお」
ぴくり。
蓮司の視線が一瞬だけ真琴へ向く。
真琴は、それを見逃さなかった。
「覚えてんじゃん」
「……うるせえ」
陽翔がにやにやし始める。
「おー?」
「何だ、その顔」
「別に?」
「殴るぞ」
「ほら真琴、照れてる」
「早すぎでしょ」
「てめえら……」
そのとき、教室の後ろの扉が開いた。
「黒瀬」
静かな声。
蓮司の眉間に、分かりやすく皺が寄る。
立っていたのは、黒髪に眼鏡をかけた男子生徒。
白鷺怜央。
三年B組の生徒であり、桜羽学園の風紀委員長だ。
「……何だよ」
「昼休みの見回りだ」
怜央は淡々と答える。
「昨日、生徒指導から言われただろ。廊下で騒ぐな」
陽翔が片手を上げた。
「すみませーん。主犯、俺です」
「知ってる」
「即答!?」
怜央は陽翔を無視して、再び蓮司を見る。
「それと黒瀬」
「あ?」
「一年の転校生に絡んでいたという話が来てる」
「は?」
蓮司の声が裏返りかけた。
陽翔が噴き出し、真琴も口元を押さえる。
「もう噂になってる」
「絡んでねえ!」
蓮司が机を叩いた。
しかし怜央は、まったく動じない。
「なら問題ない」
「お前な……」
「ただし」
怜央は眼鏡を軽く押し上げた。
「怖がらせるな」
「……」
数秒の沈黙。
そして。
「っははははは!」
陽翔がとうとう机へ突っ伏した。
真琴も肩を震わせている。
蓮司の額に青筋が浮かんだ。
「……全員、覚えてろよ」
◇
放課後。
転校初日を終え、校門を出たところで、みおは大きく息を吐いた。
「つ、疲れたぁ……」
悪い一日ではなかった。
むしろ、想像していた以上に楽しかった。
クラスメイトは優しかったし、先生も自然に接してくれた。朝まであれほど心配していたことが、拍子抜けするくらい普通に一日が終わった。
もちろん、まだ初日だ。
これから何も起こらないとは限らない。
それでも、桜羽学園へ来たことは、少なくとも今のところ間違っていなかったと思える。
ただ、一日中知らない人たちの中で過ごした緊張だけは、思った以上に身体へ残っているらしい。
みおは駅とは反対方向へ歩き出した。
さきと暮らしているマンションは学校から徒歩圏内にある。
途中の商店街で夕飯の材料を買って帰るつもりだった。
十五分ほど歩いた頃。
「あれ」
道の向こう。コンビニの前に、見覚えのある銀灰色の髪が見えた。
「……黒瀬先輩」
学校では着ていたブレザーを、今は肩に引っ掛けている。
片手にはコンビニの小さな袋。
まさか、今日だけで二度も会うとは思わなかった。
みおは反射的に歩く速度を落とした。
――できれば、気づかれませんように。
そう思った瞬間。
蓮司がこちらを見た。
目が合う。
「……」
「……」
気づかれた。
みおは迷った末、小さく頭を下げる。
「こんにちは」
蓮司が眉を寄せた。
「……お前」
そのまま、こちらへ歩いてくる。
みおの身体がほんの少し固まった。
すると蓮司は、それに気づいたように二歩ほど手前で止まった。
「まだ俺怖えの?」
「えっ」
図星だった。
「い、いえ」
「顔に出てる」
「……ちょっとだけ」
正直に答えると、蓮司は小さくため息をついた。
「正直だな」
「すみ――」
言いかけて、止める。
――すぐ謝るなって言われた。
蓮司も気づいたらしい。ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「……学習したな」
「今、笑いました?」
「笑ってねえ」
「笑いましたよね?」
「笑ってねえ」
やっぱり、少しだけ笑ったように見えた。
みおは学校で会ったときよりも、ほんの少し警戒を解く。
蓮司の視線が、みおの手にある買い物袋へ向いた。
「家、こっちなのか」
「はい。この先の住宅街です」
「どの辺」
「えっと、公園の近くの――」
そこまで言って、みおははっとした。
初対面に近い男性へ、自宅の場所を細かく教える。
さすがにそれはよくない。
みおが言葉を止めたことで、蓮司もすぐに気づいたらしい。
「あ」
わずかに目を逸らした。
「……悪い。聞き方が悪かった」
「え?」
「言わなくていい」
あっさりと引いた。
みおは少し驚く。
もっと強引な人なのかと思っていた。
「先輩も、この辺なんですか?」
「ああ」
「そうなんですね」
「一人暮らし」
「え?」
思わず蓮司を見る。
高校生で一人暮らし。
理由は気になった。
けれど、さっき自分が住んでいる場所を聞かれて警戒したばかりだ。
ここで相手の事情を詳しく聞くのも違う気がした。
「……そうなんですね」
結局、それだけにした。
蓮司も特に続けなかった。
少しして、蓮司が歩き出す。
方向はみおと同じだった。
みおも後ろを歩く。
十メートル。
八メートル。
五メートル。
微妙な距離を保ったまま、二人は住宅街へ向かう。
しばらくして、蓮司が振り返った。
「……何で後ろ歩いてんだよ」
「家がこっちなので!」
思わず声が大きくなる。
「別に追ってるとは言ってねえ」
「すみません」
「だから、すぐ謝んな」
「あっ」
まただ。
「すみ――」
途中まで言って、慌てて口を閉じる。
蓮司が一瞬黙った。
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……学習したな」
「それ、さっきも言いました!」
「そうだっけ」
「言いました!」
「覚えてねえ」
「絶対覚えてますよね?」
「知らねえ」
「あと今、また笑いました」
「笑ってねえ」
「絶対笑いました!」
学校で初めて見たときは、ただ怖かった。
目も怖い。
声も怖い。
話し方だって怖い。
けれど。
今はほんの少しだけ、普通の高校生に見える。
みおは歩幅を少し速めた。
五メートルあった距離が、三メートルになり、二メートルになり。
やがて、一歩分ほどまで縮まる。
まだ、隣に並ぶほどではない。
それでも。
転校初日の帰り道。
佐倉みおは初めて、黒瀬蓮司という先輩を――
ただの「怖い人」ではないのかもしれないと、ほんの少しだけ思い始めていた。




