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第10話 まだ名前のない気持ち

その日の昼休み。


四時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると、一年B組の教室は一気に賑やかになった。


教科書を片づける音に、机を動かす音。購買へ急ぐ生徒たちが教室を飛び出していく。


「みおちゃん、今日どうする?」


「中庭行かない?」


「いいね。今日はそんな暑くないし」


クラスメイトに誘われ、みおも弁当袋を手に立ち上がった。


「行く行く」


転校してきたばかりの頃は、お昼を誰と食べればいいのかということさえ不安だった。


それが今では、こうして当たり前のように誘ってもらえる。


ほんの少し前まで知らない人ばかりだった教室が、ずいぶん居心地のいい場所になっていた。


何人かのクラスメイトと一緒に教室を出ようとした、そのとき。


廊下を歩いていた女子生徒と目が合った。


「あ」


「あ」


長い黒髪。


どこか気だるげで、大人びた雰囲気。


桐谷真琴だった。


「桐谷先輩」


「佐倉さん」


真琴は一人だった。


いつもなら陽翔や蓮司と一緒にいることも多いし、昼休みには恋人の結衣と顔を合わせている姿もよく見る。


みおは少し不思議に思った。


「今日は一人なんですか?」


「結衣、休み」


「七瀬先輩が?」


「朝から熱出たらしい」


真琴はいつもと変わらない調子で答えた。


けれど。


ほんの少しだけ、元気がないようにも見えた。


「大丈夫なんですか?」


「大丈夫。朝より下がったって連絡来た」


「よかった……」


「今日は寝てろって言っといた」


そう言った真琴の声には、わずかに安心した色が混じっている。


普段は淡々としているのに、結衣の話になるとほんの少しだけ雰囲気が柔らかくなる。


その変化に、みおもだんだん気づくようになっていた。


真琴が、みおの後ろにいる一年生たちへ目を向ける。


「これから昼?」


「はい。みんなで中庭に行こうかなって」


「そっか」


真琴は軽く片手を上げた。


「じゃあ、また」


「あ、はい」


そのまま歩き出す。


一歩。


二歩。


けれど、そこで真琴は足を止めた。


少しだけ考えるような間を置いてから、振り返る。


「佐倉さん」


「はい?」


「……一緒に食べる?」


「え?」


みおは目を丸くした。


真琴はどこか気まずそうに視線を逸らす。


「結衣いないし、今日は静かなところで一人で食べようと思ってたんだけど」


「はい」


「一人も暇だなって思って」


そして、付け足すように。


「嫌なら別にいいけど」


みおはすぐに笑った。


「食べたいです」


クラスメイトたちを振り返る。


「ごめん。今日は桐谷先輩と食べてくるね」


「おー」


「いってらっしゃい」


すると、一人の女子が意味ありげに笑った。


「みおちゃん、先輩との交友関係広すぎない?」


「普通だよ!」


「この前は黒瀬先輩で、今日は桐谷先輩」


「この前はみんなで食べたの!」


「はいはい」


「なんで信じてないの!」


笑われながら、みおは真琴の隣へ戻った。


真琴が少しだけ口元を緩める。


「人気者だね」


「違いますよ……」


「じゃ、行こ」


「はい」


◇


真琴が選んだのは、校舎の裏手にある小さなテラスだった。


中庭ほど広くはなく、植え込みの向こうにはグラウンドが見える。木製のベンチがいくつか置かれているものの、昼休みでもここまで来る生徒は少ないらしい。


「こんなところあったんですね」


「結衣とたまに来る」


「あ」


みおは笑った。


「七瀬先輩との場所だったんですね」


「別に専用じゃないよ」


そう言いながら真琴はベンチへ腰を下ろした。


そして、ごく自然に隣を空ける。


たぶん。


そこはいつも結衣が座る場所なのだろう。


みおは気づいたものの、何も言わず隣へ座った。


二人で昼食を広げる。


真琴は購買で買ったサンドイッチと小さなサラダ。


みおの弁当には、今日も卵焼きや煮物など何種類かのおかずがきれいに詰められている。


真琴が弁当箱を覗き込んだ。


「相変わらずちゃんとしてるね」


「そんなにですよ」


「またそれ」


「え?」


「料理できる人の『そんなに』は信用できないって、この前言ったでしょ」


「あ」


みおも思い出して笑う。


「言われました」


真琴の視線が、弁当の中のだし巻き卵へ落ちた。


「それ、黒瀬が好きなやつ?」


「え?」


「屋上で最後まで残して食べてたじゃん」


「……よく覚えてますね」


「分かりやすかったから」


みおも卵焼きを見る。


「黒瀬先輩、好きって認めないんですよ」


「言いそう」


「何聞いても『普通』って」


「それも言いそう」


思わず二人で笑った。


考えてみれば、真琴とこうして二人きりで話すのは初めてだ。


けれど、不思議と緊張しない。


真琴は言葉こそ少しぶっきらぼうだが、相手が話したくないところへ無理に踏み込んではこない。


必要なときには話す。


でも、それ以上は入ってこない。


その距離感が、みおには心地よかった。


しばらく食事を続けたあと。


みおは箸を置いた。


「……あの、桐谷先輩」


「ん?」


「ちょっと聞いていいですか?」


「内容による」


「黒瀬先輩のことで」


真琴の手が止まった。


「……へえ」


「なんでその顔するんですか」


「してないよ」


している。


明らかに、少し面白そうな顔だ。


「最近、黒瀬先輩ずっと機嫌悪かったじゃないですか」


「そうだね」


「やっぱり悪かったですよね?」


「かなり」


「ですよね!」


自分の思い過ごしではなかったと分かり、みおは思わず身を乗り出した。


「でも今日、急に普通に戻ったんです」


「ふーん」


真琴は何でもない顔でサンドイッチを一口食べる。


あまりにも白々しい。


みおはじっとその顔を見た。


「……何か知ってます?」


「どうだろ」


「知ってますよね?」


「なんで?」


「顔です」


真琴が小さく笑った。


「佐倉さん、黒瀬に似てきたね」


「え!?」


「最近あいつも、人の顔見て『その顔やめろ』ってよく言うから」


「似たくないです!」


「本人に言ったら傷つくんじゃない?」


「そこまで言ってません!」


真琴は楽しそうに笑う。


みおは頬を膨らませたものの、すぐ本題へ戻った。


「私……何かしたんですかね」


さっきまでより少しだけ、声が弱くなる。


「何回聞いても『何もしてない』って言うし。でも明らかに距離取られてたし」


真琴は何も言わず聞いていた。


「白鷺先輩の名前を出したときなんか、もっと機嫌悪くなったんですよ」


真琴の口元が、ぴくりと動いた。


みおは見逃さない。


「……何ですか?」


「いや」


「絶対何か知ってる」


「まあね」


「教えてください!」


真琴は少し考えた。


全部話してしまうのは簡単だ。


みおが倒れかけたところを怜央が支えた。


その一部分だけを見た蓮司が、二人が抱き合っていると勘違いした。


そして、勝手に嫉妬していた。


おそらくそれが答えだ。


けれど。


蓮司自身がまだ、その感情をきちんと理解していない。


第三者が勝手に「嫉妬だ」と教えてしまうのは、少し違う気がした。


「たぶん佐倉さんは、何もしてないよ」


「たぶん?」


「……そこは断言していいか」


真琴は言い直す。


「何もしてない」


「じゃあ、なんで……」


「黒瀬が勝手に何か勘違いして、勝手に不機嫌になってただけ」


「勘違い?」


「うん」


「何の?」


「それは本人に聞けば?」


「絶対教えてくれませんよ!」


「だろうね」


「桐谷先輩!」


真琴は悪びれもせず笑っている。


「でも今日、元に戻ったんでしょ?」


「はい」


「なら、その勘違いが解けたんじゃない?」


「……」


みおは考える。


何かを勘違いしていた。


それが今日までに解けた。


そして今朝。


校門で、怜央と蓮司が妙な会話をしていた。


――余計なこと言うなよ。


――分かった。


みおの頭の中で、その会話がつながる。


「……白鷺先輩?」


思わず呟いた。


真琴は何も答えない。


けれど。


答えないこと自体が、答えに近かった。


「えっ、私と白鷺先輩のことで何か勘違いしてたんですか?」


「さあ」


「絶対それじゃないですか!」


真琴は涼しい顔でサラダを食べている。


みおは頭を抱えた。


「何を勘違いするんだろ……」


「それは本人じゃないと分からないんじゃない?」


真琴は一応そう答えた。


内心では。


ほとんど分かっている。


みおが倒れかけたところを怜央が支えた。


蓮司は、その途中だけを見た。


そして何日も不機嫌になった。


これほど分かりやすい話もない。


対するみおは、本気で悩んでいる。


しばらく考え込んだあと。


ぱっと顔を上げた。


「もしかして」


「ん?」


「私、白鷺先輩に怒られてるように見えたとか?」


「……」


今度は真琴が固まった。


「違います?」


「佐倉さん」


「はい」


「たぶん、自力で答え出すの無理だと思う」


「なんでですか!?」


とうとう真琴は吹き出した。


「ごめん」


「ひどい!」


「いや、佐倉さんが悪いんじゃない」


笑いながら続ける。


「たぶん黒瀬も似たようなもんだから」


「何がです?」


「鈍い」


「……私、鈍いですか?」


「かなり」


「初めて言われました……」


みおは本気で落ち込んだ。


真琴はまだ笑いながら、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。


◇


食事を続けているうちに、話題は自然と別の方向へ移った。


「七瀬先輩とは、長いんですか?」


みおが尋ねる。


「付き合って一年ちょい」


「結構長いですね」


「まあね」


「桐谷先輩から告白したんですか?」


「それ聞く?」


「嫌ならいいです!」


慌てて引っ込めようとすると、真琴は首を振った。


「別に嫌じゃない」


少しだけ遠くを見る。


「結衣から」


「えっ」


「意外?」


「ちょっとだけ……」


「私も意外だった」


そう言った真琴の表情が、わずかに柔らかくなる。


やっぱり。


結衣の話をしているときだけ違う。


みおは自然に笑った。


「好きなんですね」


考えるより先に口から出た。


真琴がみおを見る。


「……まあ」


照れるわけでもなく。


否定もしない。


その返事が、なんだか真琴らしかった。


「いいなぁ」


「何が?」


「そういうの」


みおは自分の弁当へ視線を落とす。


「好きな人がいて、その人も自分を好きって……いいなって」


真琴はしばらく、みおの横顔を見ていた。


「佐倉さんは?」


「え?」


「好きな人」


「いませんよ!」


返事は一瞬だった。


「ほんと?」


「ほんとです!」


「気になる人も?」


「……」


そのとき。


ほんの一瞬だけ。


みおの頭の中に銀灰色の髪が浮かんだ。


毎朝、一緒に学校へ向かう人。


自分の弁当を食べて、「うまい」と言ってくれた人。


雨の日には、一つの傘へ入れてくれた人。


ここ数日、機嫌が悪かっただけで。


どうしてなのか、ずっと気になっていた人。


「……」


真琴の視線を感じた。


「今、誰か浮かんだ?」


「浮かんでません!」


「間あったけど」


「何も!」


みおは逃げるように卵焼きを一つ口へ放り込んだ。


真琴はそれ以上追及しなかった。


「まあ」


空になりかけたサラダの容器を閉じながら、ぽつりと言う。


「好きとか、付き合うとか。最初から自分で分かるもんでもないよ」


みおが顔を上げた。


「私も結衣に告白されるまで、ずっと友達だと思ってたし」


「そうなんですか?」


「うん」


「じゃあ、告白されてから好きになったんですか?」


「違う」


真琴は少しだけ笑った。


「告白されてから、自分もとっくに好きだったって気づいた」


「……」


その言葉が。


なぜだか、みおの胸に残った。


――自分も、とっくに好きだった。


そんなことがあるのだろうか。


好きになった瞬間が分からないまま。


いつの間にか好きになっている。


そして、誰かに言われて初めて。


その気持ちの名前に気づく。


真琴は立ち上がった。


「だから、分かんないなら今は分かんなくていいんじゃない?」


「……はい」


みおも小さく頷く。


「それより」


「?」


真琴が弁当箱を指した。


「卵焼き一個余ってる」


「あ。食べます?」


「いいの?」


「どうぞ」


真琴は一つ取って口へ入れる。


数回噛んで。


「うま」


「よかった」


「これ、黒瀬が好きなの分かる」


「だから先輩、好きって認めないんです」


「じゃあ私が言っとく」


「何をですか?」


「黒瀬より私のほうが卵焼き好きって」


みおは思わず笑った。


「張り合うんですか?」


「反応面白そうだから」


「絶対怒りますよ」


「知ってる」


その答えがあまりにも真琴らしくて。


また二人で笑った。


◇


昼休み終了の予鈴が鳴った。


二人は弁当を片づけ、一緒に校舎へ戻る。


階段まで来ると。


三年生の真琴は上へ。


一年生のみおは下へ。


ここで別れることになる。


「今日はありがとうございました」


みおが頭を下げる。


「こっちこそ。一人で食うより楽しかった」


真琴はそう返してから、ふと思い出したようにみおを呼び止めた。


「佐倉さん」


「はい?」


「黒瀬の機嫌のこと」


「はい」


先ほどまでより、少しだけ真面目な声だった。


「本当に、あんたが悪いわけじゃないから」


「……」


「だから変に気にして、謝ったりしなくていいよ」


みおは少し驚いた。


もしかすると。


自分が思っていた以上に、蓮司の態度を気にしていたことまで真琴には伝わっていたのかもしれない。


やがて。


みおは笑った。


「はい」


「あと」


「?」


「どうしても気になるなら、本人に聞きな」


「答えてくれますかね」


「十回くらい聞けば、一回くらい本音出るんじゃない?」


「そんなに!?」


「黒瀬だから」


「……頑張ります」


「頑張るんだ」


真琴が笑う。


「じゃあね」


「はい。また」


真琴は三階へ続く階段を上がっていく。


みおも自分の教室へ戻るため、一階へ向かった。


歩きながら。


頭の中には、やっぱりさっきの話が残っている。


――黒瀬が勝手に何か勘違いして、勝手に不機嫌になってただけ。


何を勘違いしたのだろう。


誰について。


そして。


どうして自分に関係することで、蓮司が何日も機嫌を悪くしたのだろう。


「……分かんない」


小さく呟く。


本当に。


分からない。


けれど。


分からないまま放っておけばいいはずなのに、その答えが少し気になっている。


そして、もう一つ。


真琴が何気なく口にした言葉も、妙に胸に残っていた。


――告白されてから、自分もとっくに好きだったって気づいた。


「……」


また。


銀灰色の髪が頭に浮かぶ。


「……何考えてるんだろ、私」


みおは少しだけ熱くなった頬へ手を当てる。


まだ。


その気持ちに名前をつけるには早かった。


だから今は。


答えを出さなくてもいい。


そう自分に言い聞かせながら。


みおは一年B組の扉を開けた。


【佐倉みお(さくら みお)】


■学年

高校1年生


■所属

桜羽学園高等部・1年B組


2学期から転校してきた転校生。


■性別

女性。


トランスジェンダーの女の子。

出生時に割り当てられた性別は男性だが、性自認は女性。


中学生の頃からホルモン治療を受けており、現在は女子生徒として学校生活を送っている。


■外見

黒に近いダークブラウンの長いストレートヘア。


前髪を自然に下ろし、ピンク色の小さなヘアピンを着けていることが多い。


大きく柔らかな瞳と、優しい顔立ちが特徴。

全体的に可愛らしく、穏やかな雰囲気を持っている。


制服はネイビーのブレザーに白シャツ、ピンク系のチェック柄リボンとプリーツスカート。


細身で華奢な体型。

外見や声、仕草も女性的で、事情を知らない人からは自然に女の子として見られる。


■性格

優しく、穏やかで、人に気を遣う性格。


周囲の人を大切にしており、困っている人を見ると放っておけない。


少し人見知りで慎重なところがあるものの、慣れてくるとよく笑い、冗談やツッコミも言うようになる。


世話焼きな一面があり、自分よりも相手のことを気にしてしまうことが多い。


一方で、人に迷惑をかけることを強く気にするため、自分が困っていたり体調が悪かったりしても「大丈夫」と無理をしてしまうことがある。


感情が表情に出やすく、驚いたり照れたりするとすぐ顔に出る。


■特技

料理。


家庭料理を中心に、幅広い料理を作ることができる。


普段から自分で食事やお弁当を作っており、料理をすることそのものが好き。


卵焼きや唐揚げ、煮物などのお弁当のおかずも得意。


見た目にも気を配り、彩りよく丁寧に盛り付ける。


誰かに料理を食べてもらい、「おいしい」と喜んでもらうことも好き。


■苦手

自分のことを人に頼ること。


困っていても周囲に心配をかけたくないと思い、一人で何とかしようとしてしまうことがある。


人から突然褒められたり、距離を詰められたりすることにもあまり慣れておらず、照れて慌ててしまいやすい。


また、自分自身の感情について考え始めると、必要以上に悩み込んでしまうところがある。


■学校での立ち位置

2学期から1年B組へやってきた転校生。


転校当初は緊張していたものの、柔らかい性格と親しみやすい雰囲気から、少しずつクラスへ馴染んでいる。


学校では女子制服を着用し、女子生徒として生活している。


派手に目立とうとするタイプではないが、可愛らしい外見と優しい性格から自然と周囲の目を引くことがある。


友人には穏やかで話しやすい存在として受け入れられており、クラスではどちらかというと癒やし系の立ち位置。

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