第9話 勘違いの答え
その翌日の放課後。
風紀委員会の仕事を終えた白鷺怜央は、書類の束を職員室へ届け、一人で階段を下りていた。
授業はすでに終わっている。開いた窓の向こうからは、グラウンドで活動する運動部の掛け声が遠く聞こえてきた。
二階の踊り場まで来たところで、怜央の足が止まる。
階段の下から、見覚えのある銀灰色の髪が現れた。
黒瀬蓮司。
蓮司も怜央に気づき、同じように足を止めた。
「……」
「……」
数秒。
どちらも何も言わない。
昔から、顔を合わせれば素直な会話にならない二人である。
先に口を開いたのは怜央だった。
「何だ」
「別に」
「なら、そこをどけ。通れない」
「広いだろ」
「お前が真ん中にいる」
「横通れ」
「面倒な奴だな」
「お前に言われたくねえ」
いつもの調子だった。
怜央は相手にするのをやめ、蓮司の横を通り過ぎようとする。
その瞬間。
「……おい」
呼び止められた。
怜央が振り返る。
「何だ」
「……」
蓮司は口を開きかけて、閉じた。
聞きたいことがある。
みおが倒れかけたあの日から、ずっと頭のどこかへ引っかかっていたことだ。
――お前、佐倉と付き合ってんのか?
聞けば済む。
たったそれだけの話なのに、どうにも口にしづらい。
そんなことを尋ねれば、自分がみおと怜央の関係を気にしていたと認めるようなものだからだ。
「黒瀬?」
怪訝そうに見られ、蓮司は壁へ寄りかかった。
なるべく興味のないような声を作る。
「お前さ」
「何だ」
「最近、一年の教室によく行ってんだろ」
「風紀委員会の仕事でな」
「ふーん」
「それが?」
「……別に」
怜央がじっと蓮司を見る。
「何だよ」
「いや」
「言えよ」
「お前が聞きたいことを、遠回しに聞いているように見えた」
「はあ?」
図星だった。
だからこそ、蓮司の声が少し大きくなる。
怜央は気にせず続けた。
「佐倉のことか?」
「……」
蓮司が黙った。
今度は、それだけで答えになってしまった。
怜央は小さく息を吐く。
「何が聞きたい」
「だから別に――」
「ないなら帰る」
「待て」
結局、自分から止めてしまう。
蓮司は露骨に嫌そうな顔をしながら、頭を掻いた。
「……あいつと、仲いいのか」
「佐倉と?」
「ああ」
「普通だ」
「普通って何だよ」
「後輩として気にかけている。それだけだ」
「……」
それだけ。
怜央の口からはっきりそう言われたのに。
蓮司は、まだ妙な顔をしている。
怜央が首を傾げた。
「何か問題があるのか?」
「ねえよ」
「そうか」
「……」
「……」
「その顔やめろ」
「普通の顔だ」
「お前ら、それ好きだな!」
怜央には何を怒られているのか、本気で分からないらしい。
少し考えたあと。
あまりにも何でもないことのように、付け加えた。
「そもそも俺には彼女がいる」
「…………は?」
今度こそ。
蓮司が完全に固まった。
怜央は眉を寄せる。
「何だ」
「今、なんつった?」
「彼女がいる」
「……お前に?」
「そうだ」
「マジで?」
「なぜそこまで驚く」
「いや……」
蓮司は思わず、怜央を上から下まで見た。
いつも冷静。
堅物。
風紀委員長。
誰に対してもほとんど態度が変わらず、恋愛というものから一番遠そうに見える男。
そんな相手の口から出てきた言葉が「彼女がいる」だったのだから、驚くなというほうが難しい。
「……お前が?」
「二度言うな」
そこでようやく、蓮司の口元が少し歪んだ。
反撃材料を見つけた顔だった。
「へえ」
「何だ」
「物好きな女もいるもんだな」
完全な嫌味。
しかし怜央は顔色一つ変えない。
「そうかもしれないな」
「……そこ否定しろよ」
「本人に言えば怒ると思うが」
「当たり前だろ」
どういう相手なのか。
少しだけ興味が湧いた。
「誰だよ」
「何が」
「彼女」
「言う必要があるか?」
「同じ学校?」
「いや」
怜央はあっさり答えた。
「この学校じゃない」
「へえ」
「中学の頃から付き合ってる」
「……長えな」
「そうだな」
その返事には、普段の怜央からはあまり感じない柔らかさが、ほんの少しだけ混じっていた。
蓮司はそれに気づく。
「なんだよ。ちゃんと好きなんじゃねえか」
「彼女だからな」
「……ムカつく」
「なぜだ」
「知らねえよ」
怜央はそんな蓮司をしばらく見ていた。
そして。
「なら、佐倉の件は解決したな」
「……別に解決とかじゃねえ」
「勘違いだったんだろ」
「勘違いしてねえ」
「俺と佐倉が抱き合っていると思っていた」
「もう忘れろ!」
珍しく。
怜央の口元が、わずかに上がった。
「なるほど」
「何がなるほどだ」
「いや」
一拍置いて。
「別に」
「……お前」
今度は蓮司が言われる側だった。
「じゃあな」
「待て!」
呼び止めても、怜央はそのまま階段を下りていく。
あとに残されたのは蓮司一人。
夕方の踊り場が、急に静かになった。
「……」
頭に残っている言葉を、もう一度整理する。
怜央には彼女がいる。
中学の頃から付き合っている。
みおを気にかけていたのは、あくまで風紀委員長として。
そして、あの日。
怜央はみおを抱きしめていたわけではない。
倒れそうになったみおを、ただ支えていただけだった。
「……はぁ」
蓮司は長く息を吐いた。
ここ二日ほど胸の奥へ引っかかり続けていたものが、嘘みたいに消えている。
軽い。
自分でも驚くほど。
「……」
そして。
そこで初めて、別の疑問が浮かんだ。
「……待てよ」
なぜ。
自分は、こんなに安心している?
みおと怜央が付き合っていない。
ただそれだけのことだ。
自分には、本来何の関係もない。
それなのに。
あの日からずっと苛立って。
みおが怜央の名前を出すだけで機嫌が悪くなって。
今は誤解だったと分かっただけで、こんなにも気が楽になっている。
「……」
答えが。
もう少しで形になりそうだった。
蓮司は数秒考え。
そして。
「……帰ろ」
考えるのをやめた。
まだ。
そこまで踏み込むつもりはないらしい。
◇
さらに、その翌朝。
みおはいつもの道を歩きながら、少しだけ緊張していた。
公園が近づくにつれて、歩く速度がわずかに遅くなる。
ここ二日。
蓮司の様子がおかしかった。
体調を崩した日の帰りから、何となく素っ気なくなって。
翌朝には、隣へ並ぼうとするたび歩く速度まで上げられた。
何かしたのかと聞いても。
『何もしてねえ』
それしか答えてくれない。
昨日一日も、学校ですれ違えば普通に話してはくれたものの、どことなく以前とは違っていた。
だから。
今日もまた、あの微妙な空気が続くのかもしれない。
公園が見えた。
そして。
いつもの場所に、蓮司がいる。
「……」
みおはほんの少しだけ歩く速度を落とした。
蓮司がこちらを見る。
目が合う。
「……おはようございます」
「おう」
「……」
みおが目を瞬かせる。
いつもの声だった。
低くて。
愛想はない。
でも。
ここ数日のような、変な刺々しさがない。
蓮司は何事もなかったように歩き始める。
みおも、その隣へ並んだ。
今日は。
蓮司が離れない。
「……」
試しに。
みおは少しだけ距離を縮めた。
何も起きない。
蓮司は同じ速度で歩いている。
もう少し。
近づいてみる。
「何だよ」
「いえ」
「さっきから何してんだ」
みおは蓮司の歩幅を確認してから答えた。
「……競歩じゃないなと思って」
「……」
蓮司の足が止まった。
みおも止まる。
数秒。
昨日までの自分の行動を思い出したらしい。
露骨に目を逸らした。
「……忘れろ」
「やっぱり何かあったんじゃないですか!」
「ねえよ」
「ありました!」
「ない」
「じゃあ、なんで今日は普通なんですか!」
「普通で悪いのかよ!」
「悪くないですけど!」
朝の住宅街に、また二人の声が響いた。
通勤途中の会社員が振り返る。
それに気づいた二人は、同時に声を小さくした。
「……」
「……」
先に耐えられなくなったのは、みおだった。
「ふふっ」
「何笑ってんだ」
「なんか……」
みおは少しだけ安心したように笑う。
「いつもの先輩に戻ったなって」
「……」
蓮司が黙った。
その表情を見て。
みおは本当に安心している。
自分が嫌われたわけではなかったらしい。
蓮司は、そんなみおの顔から視線を逸らした。
「……悪かったな」
小さく呟く。
「え?」
「何でもねえ」
「今、何か言いましたよね?」
「言ってねえ」
「言いました!」
「知らねえ」
「またそれ!」
蓮司は少しだけ歩幅を速めた。
けれど。
今度は逃げるためではない。
みおが普通に隣を歩けるくらいの速さだった。
◇
やがて、桜羽学園の校門が見えてきた。
ちょうど前方から、怜央が歩いてくる。
朝の見回り中らしい。
「佐倉」
「おはようございます、白鷺先輩」
「もう体調は問題ないか?」
「はい。大丈夫です」
「そうか」
「この前は本当にありがとうございました」
「気にするな」
ごく普通の会話だった。
みおが怜央へ笑いかける。
その隣で。
蓮司は二人を見る。
「……」
昨日までなら。
きっと、また胸の奥がざらついていただろう。
けれど今日は。
怜央に彼女がいると知っている。
みおを助けた理由も分かっている。
だから。
本当に何も感じ――。
「黒瀬」
「何だ」
怜央から声をかけられ、思考が途切れた。
怜央はいつもの無表情で蓮司を見る。
「今日は機嫌がいいな」
「普通だ」
「そうか」
眼鏡の奥の目が。
ほんの少しだけ面白がっているように見えた。
蓮司はすぐに察した。
「……お前」
「何だ」
「余計なこと言うなよ」
みおが首を傾げる。
「余計なこと?」
「何でもねえ」
ますます分からない。
みおは今度は怜央を見る。
「何の話ですか?」
怜央は数秒だけ蓮司を見た。
昨日。
階段の踊り場で何を聞かれたのか。
そして、どうして蓮司が自分とみおの関係を気にしていたのか。
言おうと思えば、いくらでも言える。
けれど。
「分かった」
怜央はそれだけ答えた。
蓮司が僅かに安堵する。
「じゃあな」
怜央は校門へ向かって歩き始めた。
「え?」
みおだけが取り残されたような顔をする。
「ちょっと待ってください。何の話ですか?」
「知らねえ」
蓮司が歩き出す。
「絶対知ってますよね!」
「学校遅れるぞ」
「あ、待ってください!」
みおが慌てて追いかける。
数歩で蓮司の隣へ並んだ。
その後ろ姿を。
怜央は一度だけ振り返った。
朝の光の中。
少し前まで必死に距離を取っていた蓮司のすぐ隣を、みおが当たり前のように歩いている。
何やら文句を言うみお。
それに、ぶっきらぼうに返す蓮司。
「……」
怜央は小さく息を吐いた。
「面倒な奴だな」
もちろん。
黒瀬蓮司のことである。
数日間続いた勘違いは。
これで、ようやく終わった。
けれど。
誤解が解けたことで、逆にはっきりしてしまったものもある。
みおと怜央が何でもなかったと知って。
蓮司は、安心した。
あまりにも分かりやすく。
ただ。
その理由を。
黒瀬蓮司本人だけが、まだ認めようとしていなかった。




