第8話 オンライン予選、開始
配信を切ったあとも、コメント欄の残像がしばらく残っていた。
黒須玲司、YU_KAZEを認定。
試合そのものを読んでる。
負けたのに。
2対3で負けたのに、知らない誰かが、そういう見出しを付けていた。
悠は机の上のコントローラーを見た。
親指の腹が、まだ少し痛い。
握りすぎたせいだ。
画面の端では、配信終了後の数字が並んでいる。
最大同接、三千八百二十一。
アーカイブ視聴、更新中。
切り抜き作成、十七件。
昨日までなら、一つでも変な数字だった。
今はそれが、現実のものとして机の上に転がっている。
スマホがまた震えた。
凛からだった。
『今、寝られる?』
悠は返信欄を開いた。
寝られる。
寝られない。
分からない。
少し考えて、短く打つ。
『無理』
送信。
すぐに既読がつく。
『じゃあ、五分だけ通話』
五分だけ。
その言い方が少し変で、悠は少しだけ口元を動かした。
通話を押す。
「おつかれ」
凛の声は、昼間より少し低かった。
眠いのかもしれない。
「さっきも言った」
「二回言ってもいいと思った」
「そう」
「負けたね」
「……うん」
「でも、見てた人は増えた」
「負けたのに」
「負けたから、かもしれない」
悠は椅子にもたれた。
背中に、今日ずっと入っていた力が少しだけ抜ける。
「意味分かんない」
「黒須に勝ってたら、たぶん別の燃え方をしてた」
「どんな」
「代行、AI、黒須が手を抜いた。そういうやつ」
「それ、今も言われてるだろ」
「言われてる。でも、負けたから残ったものもある」
凛の向こうで、ノートをめくる音がした。
たぶん、また書いている。
「黒須の認定台詞、もう切り抜かれてる。試合そのものってところ」
「見た」
「あと、最後の攻撃。あれ、悔しかったけど、すごかった」
悠の指が止まる。
「……すごかった?」
「うん」
「黒須の守備が?」
「それも」
「それもって何」
「風見くんが、最後まで勝ちに行ったところ」
その言い方は、少しだけずるかった。
悠はすぐに返せなかった。
褒められたからではない。
嬉しいより先に、負けた画面が戻ってきた。
ポスト。
ライン上。
黒須のセンターバック。
笛。
「見てる側は、いいよな」
言いかけて、途中で止めた。
でも、半分は通話に乗った。
凛も黙った。
一秒。
二秒。
悠はスマホを握り直した。
「今のは、違う」
「うん」
「違うっていうか」
「うん」
凛は、変に慰めなかった。
その沈黙が、少し痛かった。
「ごめん。私も、黒須の最後の戻り、すごいと思った」
凛が言った。
「見てて、ちょっと……いや、かなり」
「そっちかよ」
「うん。そう思った自分が、少し嫌だった」
悠は目を伏せた。
負けた側の自分を見ていた凛が、相手の強さにも息を止めていた。
それは当たり前のことだ。
当たり前なのに、少しだけ刺さる。
「でも」
凛が続ける。
「そのあとで、風見くんが悔しいって返したの見て、まだ終わってないと思った」
「配信じゃないだろ」
「うん。私だけが見た」
「じゃあ効いてない」
「私には効いた」
返す言葉がなかった。
凛は少し間を置く。
「明日、オンライン予選のエントリー確認しよう」
「もう?」
「締切、近い」
「知ってるけど」
「出るって言った」
「言ったな」
「黒須にも言った」
「言った」
「じゃあ、出る」
凛の声は簡単だった。
簡単だから、重かった。
悠は机の上のメモを見る。
勝ちたい。
小さく書いたその文字は、折れ目の近くで少し歪んでいる。
「白瀬」
「何」
「俺、まだ黒須にも勝ててない」
「うん」
「予選なんて、もっと変なのいるだろ」
「いると思う」
「そこは少しくらい否定しろよ」
「変なのはいそう」
「……」
「でも、今日の試合を見た後なら、風見くんがそこにいても変じゃない」
気の利いた励ましではない。
少し雑で、少し変な言い方だった。
でも、悠はその方が受け取りやすかった。
「五分経った?」
「まだ二分くらい」
「ちゃんと測ってるのか」
「測ってない」
「じゃあ適当じゃん」
「うん」
凛が小さく笑った。
悠は、パソコンの電源を落とした。
画面が黒くなる。
自分の顔が、うっすら映る。
寝不足で、目の下が暗い。
でも、昨日の朝とは少し違う顔に見えた。
どこが違うのかは分からない。
「明日、昼」
凛が言った。
「屋上前?」
「うん。ノート持っていく」
「また?」
「また」
「今度はミニトマト落とすなよ」
「それ、まだ覚えてるの」
「忘れる方が難しい」
「じゃあ、明日は入れない」
「弁当に?」
「うん」
「そこまでしなくても」
「もう入れた」
「早いな」
会話が少しだけ噛み合っていない。
でも、それでよかった。
切る前に、凛が言った。
「風見くん」
「何」
「負けたのに残ったものって、たぶんあるよ」
悠は、すぐには返事をしなかった。
画面の黒い反射の中で、自分が少しだけ目を伏せている。
「……まだ、よく分からない」
「うん」
「でも、捨てたくはない」
「それでいいと思う」
通話が切れた。
部屋が戻ってくる。
パソコンのファンは止まっている。
外を走る車の音が、一台だけ過ぎていく。
悠はベッドへ向かおうとして、机の上のメモをもう一度見た。
捨てるつもりはなかった。
でも、しまう場所も分からなかった。
結局、キーボードの横に置いたままにした。
◇ ◇ ◇
翌日の昼休み。
屋上前の踊り場には、凛が先にいた。
弁当箱とノート。
それから、今日は紙パックの紅茶ではなく、ペットボトルの水が置いてある。
「来た」
「来たけど」
「言い方」
「眠い」
「顔に出てる」
「白瀬も出てる」
凛は少しだけ目を細めた。
「それは言わなくていい」
悠は隣に座る。
昨日より、少し距離が近かった。
凛は何も言わない。
悠も動かない。
二人の間に、弁当のふたを開ける音だけが挟まる。
今日も卵焼きが入っていた。
味は分かる。
でも、眠気のせいで少しぼやける。
「まず、昨日の数字」
凛がノートを開く。
「飯食ってからじゃないのか」
「食べながらでも聞ける」
「俺が?」
「うん」
「無理かもしれない」
「じゃあ短くする」
凛はページを指で押さえた。
手書きの数字が並んでいる。
最大同接。
コメント比率。
切り抜き数。
黒須の認定台詞が出た後のフォロワー増加。
見ているだけで、少し頭が痛くなる。
「昨日、最初は黒須目当てが多かった。でも、2対2になったところで、風見くん目当てのコメントが増えてる」
「そんなの分かるのか」
「コメントの主語が変わる」
「主語?」
「黒須すごい、から、YU_KAZEこれ見えてる?になる」
凛はさらっと言う。
悠は弁当の唐揚げを箸でつついた。
「見えてなかったけどな」
「全部はね」
「最後も負けた」
「負けた」
「何回も言わなくていい」
「風見くんが言った」
「……そうだった」
凛は少しだけ笑う。
でも、すぐノートへ目を落とした。
「オンライン予選、エントリーは今日中に確認した方がいい」
「分かった」
「予選は配信できる試合とできない試合があるみたい」
「規約?」
「うん。大会側の画面に従う必要がある」
「白瀬、なんでそこまで調べてるんだよ」
「気になったから」
「もうそれで全部通す気だろ」
「便利だから」
凛はそう言って、水を飲む。
ペットボトルのふたを締める時、少し斜めになって、もう一度開け直していた。
悠はそれを見なかったことにした。
凛が顔を上げる。
「あと、代表戦」
「代表戦?」
「日本の初戦。明日の早朝」
「ああ」
「見る?」
悠は一瞬、返事に詰まった。
ワールドカップ。
日本対オランダ。
テレビでも、SNSでも、学校でも、その話題ばかりになっている。
サッカーが好きなら見る。
普通はそうだ。
でも、今の悠には少し重かった。
「見るとは思う」
「一人で?」
「家で」
「通話しながら見る?」
「朝五時だぞ」
「起きられたら」
「起きる気なのか」
「たぶん」
凛は弁当の白米を少しだけ残している。
食べるのが遅いわけではない。
ただ、話す時に箸が止まる。
「現実の試合と、WEの試合は違うよ」
悠が言った。
「うん」
「見ても、そのまま使えるわけじゃない」
「それは分かる」
「じゃあ何で」
「風見くんが、どう見るのか見たい」
悠は箸を止めた。
「俺を見るのかよ」
「代表戦も見る」
「ついでみたいに言うな」
「両方見る」
凛は真顔だった。
悠は少しだけ目を逸らす。
下の方から、サッカー部の声が聞こえた。
昼休みの短い試合。
誰かがシュートを外して、笑い声が上がる。
その音を聞くと、少しだけ体が固まる。
凛は気づいたのか、気づかないふりをしたのか、ノートを閉じた。
「今日、配信する?」
「少しだけ」
「内容は?」
「予選エントリーの確認と、昨日の試合を少し見返す」
「黒須戦?」
「うん」
「ゴールじゃなくて、取られたところも見た方がいい」
「分かってる」
少しきつい声になった。
悠はすぐに、弁当箱の中へ目を落とした。
「ごめん」
「ううん」
凛は短く返した。
「負けたところを見るの、嫌だよね」
「嫌だな」
「でも、見るんでしょ」
「見る」
「うん」
凛はそれ以上言わなかった。
予鈴が鳴る。
悠は弁当箱のふたを閉めた。
凛はノートを鞄にしまう。
立ち上がる時、二人のペットボトルが軽くぶつかった。
小さな音だった。
でも、悠はなぜかその音を覚えていた。
◇ ◇ ◇
夜。
悠は配信を始めた。
タイトルは、凛が送ってきたものを少しだけ変えた。
《オンライン予選に出ます。黒須戦も少し見返します》
同時接続は、開始直後から千を超えた。
黒須戦のあとだからだ。
分かっていても、数字を見ると喉が乾く。
「こんばんは」
声はまだ小さい。
でも、前よりは止まらなかった。
「オンライン予選にエントリーします」
コメント欄が流れる。
『来た』
『本当に出るんだ』
『黒須に言われたから?』
『青いとこ見てる?』
『まず一回戦突破できるのか』
『昨日の2-3なら見たい』
悠は大会ページを開いた。
WORLD ELEVEN公式オンライン予選。
参加条件。
配信規定。
試合形式。
細かい文字が並んでいる。
読み上げようとして、少し噛んだ。
「えー、予選は、えっと、グループ……いや、ブロック制です」
『噛んだ』
『説明下手で安心した』
『試合中と差がありすぎる』
悠は画面の端を見る。
少しだけ笑っているコメントもあった。
全部が刺してくるわけじゃない。
まだ慣れない。
それでも、前よりは読める。
エントリーボタンにカーソルを合わせる。
一度、止まった。
黒須の最後の声が、頭に戻る。
次は公式でやれ。
配信の遊びじゃなくて、大会で。
遊び。
今まで、自分ではそう思っていなかった。
でも、大会という文字の前に立つと、急に配信部屋の壁が薄くなった気がした。
ここから先は、負けたら切り抜かれる。
勝っても疑われる。
何もしなければ、昨日の負けだけが残る。
悠はマイクに口を近づけた。
クリックする前に、言った。
「勝ちたいです」
コメント欄が止まった。
本当に一瞬だけ。
自分で言ってから、手のひらが熱くなる。
もう押さない理由がなくなった。
悠はクリックした。
登録完了。
画面に短い文字が出る。
派手な演出もない。
音楽もない。
でも、部屋の空気が少し変わった気がした。
『言った』
『登録した』
『逃げなかった』
『予選楽しみ』
『負けても切り抜かれるぞ』
『勝て』
悠は水を飲んだ。
それから、黒須戦のアーカイブを開く。
前半二分の失点。
何度も見たくない場面だった。
黒須が中央へ入れる。
悠のボランチが出る。
背中へ流される。
ミドル。
こぼれ球。
失点。
悠は映像を止めた。
「ここ、ボランチを出したのが早かったです」
声が少し固い。
「出したら裏を取られるのは分かってたと思うんですけど、たぶん、怖くて出しました」
『怖くて?』
『本人解説』
『自分で言うのいいな』
悠は続ける。
「待ったら打たれると思ったので。でも、出たらもっと悪かった」
言葉が少し詰まる。
自分の失敗を自分で説明するのは、思ったよりきつい。
画面の中の自分は、ずっと間違えている。
でも、その間違いの上に、昨日の一点があった。
「予選までに、ここを減らします」
言い切ってから、少しだけ後悔した。
減らせるのか。
分からない。
でも、もう言ってしまった。
その時、コメント欄に見覚えのある青い盾のアイコンが流れた。
《BLUE LYNX scouting》
『エントリー確認しました。予選でお待ちしています』
コメント欄が一気に騒ぐ。
『青いとこ来た』
『本物?』
『スカウト見てるぞ』
『無名くん、もう逃げられない』
逃げられない。
その言葉は、少し怖かった。
でも、全部が嫌な怖さではなかった。
スマホが震える。
凛からだった。
『今のコメント、スクショした』
悠は返信しなかった。
配信中だった。
でも、少しだけ息を吐いた。
大会ページには、登録完了の文字がまだ残っている。
黒須戦の失点映像は、一時停止されたままだ。
勝ちたい。
その言葉を、もう配信で言ってしまった。
消せない。
なら、見返すしかない。
悠は再生ボタンを押した。
画面の中で、また黒須のボールが動き出した。
予選は、黒須戦とは別の怖さがある。
今さらそれに気づいた。
でも、もう登録完了の文字は消えない。




