第7話 試合そのもの
前半十五分。
スコアは、1対2。
黒須のボールで、試合が再開した。
悠はコントローラーを握り直す。
さっきまでとは、少し違っていた。
黒須のパスが、ほんの少し遅い。
手を抜いているわけではない。
一つずつ、こちらの位置を確認している。
中央へ入れる。
落とす。
サイドへ出す。
すぐには縦へ行かない。
悠の中盤がどこまで動くか、黒須は見ていた。
『黒須、変えた?』
『今のゴール効いてる?』
『事故ゴールじゃないの?』
事故。
そう言われても仕方ない。
さっきの得点は、きれいな形ではなかった。
でも、その前の回収位置だけは偶然じゃない。
そこにボランチが来るように、ひとつ前で止めた。
最後の当たり方までは読めていない。
全部分かっていたわけじゃない。
だから、まだ手の中が落ち着かない。
黒須が右サイドへ展開する。
縦に来る。
悠は一歩下がる。
切り返し。
読んでいた。
でも、操作が遅い。
黒須のウイングが半歩先に抜ける。
クロス。
ファーへ流れる。
黒須の選手が足を振る。
シュート。
ポスト。
跳ねたボールを、キーパーが押さえた。
『あぶな』
『操作が追いついてない』
その通りだった。
見えても、間に合わないことがある。
読めても、指が遅れれば終わる。
悠はキーパーから短く出した。
前へ急がない。
黒須の一枚目が来る。
二枚目が中央を切る。
三枚目が右への逃げ道を見ている。
やっぱり右だ。
黒須は右へ追い込んでから、中央の弱いパスを狙う。
同じ。
でも、同じに見せて違う。
前半十八分。
悠は左へ逃がした。
戻す。
もう一度左。
中央のボランチへ入れる。
黒須の二枚目が来る。
ワンタッチで戻す。
また左へ。
黒須が追う。
追ってくるなら、ここは通らない。
悠は縦をやめた。
キーパーまで戻す。
『負けてるんだぞ』
『攻めろよ』
点を取らないと意味がない。
分かっている。
けれど、今無理に出せば取られる。
三点目を取られたら、たぶんもう戻れない。
悠は、同じように左へ出した。
黒須が寄る。
また戻す。
もう一度左。
今度は、左サイドバックが受けた瞬間に縦へ出した。
黒須の右サイドバックが反応する。
速い。
追いつかれる。
左ウイングは、ボールに触る前に相手を背負った。
前は向けない。
悠はキープしない。
ワンタッチで内側へ落とす。
トップ下。
さらに落とす。
ボランチ。
黒須の中盤が食いつく。
ここで右。
黒須が追い込みたかった場所。
でも、今だけは違う。
黒須の三枚は左に寄っている。
悠は大きく右へ振った。
右サイドバックが受ける。
前が空く。
縦へ出す。
右サイドハーフ。
中へ戻す。
インサイドハーフ。
すぐ前へ。
フォワードが足元で受ける。
背中にセンターバック。
反転はできない。
悠はボールを止めた。
一拍。
黒須のセンターバックが足を出す。
その前に、斜め後ろへ落とした。
走り込んだボランチ。
さっきの一点目と似た場所。
今度は打つ。
低いシュート。
黒須の足に当たる。
少し跳ねる。
キーパーが弾く。
こぼれ球。
悠のフォワードが詰める。
しかし、黒須のセンターバックが先だった。
クリア。
前半二十一分。
得点にはならなかった。
でも、初めて黒須の守備を下げた。
『今の惜しい』
『形あったな』
『事故だけじゃない?』
『試合になってきてない?』
まだ、試合になったとは言えない。
黒須の方が明らかに上だ。
ただ、前半二分の時みたいに、潰されているだけではなかった。
前半二十八分。
黒須の攻撃。
中央から右へ。
悠は縦を切る。
黒須は中へ戻す。
そこで悠はボランチを出した。
取れる。
そう思った。
けれど黒須は、半拍早く浮き球を出した。
悠のボランチの背中。
そこに黒須のトップ下。
「うわ」
声が出た。
エリア内。
シュート。
キーパーが触る。
横へ流れる。
黒須のフォワードが詰める。
悠はスライディングを選んだ。
遅い。
でも、当たった。
ボールだけに触れた。
コーナーキック。
『今の守った!?』
『最低限あるな』
最低限。
その言葉が、少しだけ残った。
派手な操作は、昔からできなかった。
何人も抜くスキルムーブは、何度練習しても手がもつれる。
でも、パスの方向。
カーソルの切り替え。
最初の一歩。
そこだけは何度も練習した。
指が速くなったわけではない。
必要な入力だけ、遅れないようにした。
黒須のコーナー。
ニア。
悠はクリアする。
ボールはハーフライン近くへ飛ぶ。
悠のフォワードが追う。
黒須のセンターバックも追う。
速度では勝てない。
だから、競り合いに行かせなかった。
少し手前で止まる。
相手が先に触る。
そのパスの先へ、トップ下を置く。
カット。
一瞬だけ、前が空いた。
左へ出す。
左ウイングが受ける。
黒須の右サイドバックが寄る。
縦へ行く。
止められる。
切り返す。
遅い。
でも、切り返しが目的じゃない。
相手が止まった瞬間、中央へ戻す。
ボランチ。
さらに右へ。
右サイドハーフが走る。
エリア右。
クロスではない。
マイナス。
黒須のセンターバックがニアへ寄っている。
中央が空く。
そこへ、トップ下が入る。
シュート。
黒須のディフェンダーが足を出す。
当たった。
ボールが、跳ねる。
キーパーは右へ動きかけていた。
軌道が、逆へ折れる。
間に合わない。
ネットが揺れた。
前半三十二分。
2対2。
悠は、ゴールの効果音を聞き逃した。
画面の中の選手が走り出す。
同点。
黒須相手に。
『は?』
『追いついた!?』
『黒須相手に2-2?』
『今のカウンターえぐい』
『昨日だけじゃないわ』
悠は返事をしない。
手が震えていた。
でも、さっきとは少し違う震えだった。
黒須のキックオフ。
前半三十三分。
黒須はすぐに前へ来なかった。
中央で一度止める。
横へ出す。
戻す。
また中央。
悠は、黒須がこちらを見ているのを感じた。
実際に見えているわけではない。
それでも、さっきまでとは違っていた。
黒須はもう、ただ潰しに来ていない。
こちらが何を見るのかを、見ようとしている。
前半終了。
2対2。
悠はコントローラーを膝に置いた。
親指の腹が少し痛い。
机の左側のメモは、角が折れている。
凛は今、見ているだろうか。
たぶん、見ている。
コメント欄にはそれらしい名前はない。
でも、どこかでノートを開いている気がした。
後半が始まる。
黒須は必ず変えてくる。
前半の同点を許したまま、同じ試合を続ける相手ではない。
◇ ◇ ◇
後半開始。
黒須はフォーメーションを変えていた。
前線を一枚下げる。
中盤を厚くする。
プレスの位置が少し低い。
悠はすぐ嫌な感じがした。
前から潰すのをやめた。
たぶん、誘っている。
悠にボールを持たせる。
考える時間を与える。
そのうえで、選んだ先を奪う。
前半とは逆だ。
悠は自陣でボールを回す。
黒須は来ない。
中央が空いているように見える。
でも、空きすぎている。
入りたくなる。
入れたくなる。
そこへ入れたら、たぶん終わる。
後半五分。
我慢する。
後半七分。
また我慢する。
後半九分。
『攻めろよ』
『同点で満足?』
『いや互いに見合ってる』
悠は唇を噛んだ。
同点で終われば、たぶん評価は変わる。
でも、ここで引き分け狙いを始めたら、たぶん届かない。
勝ちたい。
メモの端に、自分で書いた文字がある。
後半十二分。
悠は中央へ入れた。
ずっと避けていた場所。
ボランチが受ける。
黒須の中盤が寄る。
速い。
ワンタッチで戻す。
黒須の一枚目が前に出る。
戻しを狙っている。
分かっている。
悠は戻しきらず、斜めに流した。
トップ下。
黒須のセンターバックが出る。
さらに左へ。
左ウイングが走る。
黒須の右サイドバックが追う。
その裏へ出す。
通る。
初めて、後半で黒須の背中を取った。
クロス。
中央にフォワード。
ヘディング。
枠の上。
外れた。
悠は一瞬、肩の力が抜けた。
入ってほしかった。
黒須のゴールキック。
後半十四分。
黒須は短くつないだ。
中央へ。
戻す。
また中央。
悠は前へ出る。
取りに行く。
さっきの形で気持ちが前に出た。
黒須はそこを待っていた。
中央の選手がワンタッチで裏へ流す。
悠のボランチの背中。
そこに黒須のトップ下。
二択。
悠は右を切った。
黒須は左へ出した。
フォワードが受ける。
キーパーと一対一。
シュート。
ゴール。
後半十五分。
2対3。
悠は画面を見たまま動けなかった。
やられた。
自分が前に出たところを、そのまま使われた。
勝ちたいと思った場所に、罠を置かれていた。
『黒須うめええ』
『今のは黒須が上』
『でも2-3ならまだ分からん』
まだ分からない。
本当にそうか。
時間はある。
でも、黒須はもうこちらの見方を少し知っている。
中央を避ける癖。
左で作る癖。
勝ちに行く時、悠が半歩早く前へ出ること。
そこまで見られた。
悠はすぐには前へ出さなかった。
もう一度、後ろへ戻す。
黒須は待っている。
後半二十四分。
後半二十九分。
何度か惜しい形は作った。
でも、最後の一本が通らない。
黒須の守備は、同じ場所を二度空けなかった。
悠が一秒先を見ようとすると、黒須はその一秒を潰してくる。
後半三十五分。
悠は選手交代をした。
前線を一枚増やす。
中盤が薄くなる。
危ない。
でも、もう行くしかない。
後半三十八分。
悠は右サイドから崩す。
戻す。
中央。
左。
また中央。
少しだけ、黒須の中盤が遅れた。
そこへ縦パス。
フォワードが受ける。
背負う。
落とす。
トップ下。
シュートフェイント。
黒須のセンターバックが止まる。
左へ流す。
低いクロス。
フォワードが足を出す。
黒須のキーパーが、ぎりぎりで触った。
ボールがゴールライン上を転がる。
悠の選手が詰める。
黒須のセンターバックが滑り込む。
クリア。
まだ生きている。
悠はボランチで拾う。
もう一度中へ。
黒須の足に引っかかった。
カウンター。
黒須はミドルを選んだ。
悠はキーパーを動かす。
少し早い。
シュートは逆に飛んだ。
ポストに当たる。
跳ね返る。
悠のセンターバックが拾った。
まだ終わっていない。
後半アディショナルタイム。
表示は三分。
スコアは2対3。
悠のボール。
左サイド。
黒須が寄せる。
悠は戻す。
中央。
黒須のボランチが前へ出る。
そこを越す。
浮き球。
フォワードが胸で落とす。
トップ下が受ける。
黒須のセンターバックが来る。
悠はシュートを打たない。
右へ流す。
右サイドハーフ。
角度は狭い。
黒須のキーパーが、半歩だけ前へ出た。
悠はマイナスへ戻した。
そこにボランチ。
前半と同じ。
黒須も分かっている。
白いユニフォームが、もう足を出していた。
悠は、その足のさらに後ろへ短くずらした。
もう一枚。
後半に入れたフォワード。
受ける。
シュート。
低い球。
黒須のキーパーが反応する。
指先が触れる。
ボールは軌道を変え、ポストの内側へ向かった。
当たる。
跳ねる。
ゴールラインの上を転がる。
入るか。
出るか。
黒須のセンターバックが戻る。
悠のフォワードも詰める。
黒須のセンターバックが、先だった。
クリア。
笛。
試合終了。
2対3。
悠は、コントローラーを持ったまま画面を見た。
負けた。
あと少しだった。
いや、あと少しに見えただけかもしれない。
黒須は最後まで、必要な場所にいた。
何も言えなかった。
悔しい。
たぶん、悔しい。
その言葉を出すと、何かが崩れそうだった。
配信画面の通知が鳴る。
黒須側から、対戦後メッセージが届いていた。
《通話、出ろ》
悠の指が止まった。
通話を受ける。
少し遅れて、黒須の声がスピーカーから流れた。
「聞こえてる?」
「……聞こえてます」
黒須はすぐには話さなかった。
「負けたな」
「はい」
「最後、シュートじゃなくて戻したのは?」
「キーパーが、前に出たので」
「その前」
「センターバックが、足を出してたから」
「見えてた?」
「少しだけ」
「少しだけ、ね」
黒須が小さく笑った。
馬鹿にしている笑いではなかった。
「操作は俺の方が上だ」
「……はい」
「経験も、俺の方がある」
「はい」
「なのに、何回か先に行かれた」
悠は返事をしなかった。
黒須は続ける。
「お前が読んでるのは、操作じゃない」
黒須の声だけが、部屋に残る。
「試合そのものだ」
悠は何も言えなかった。
違う。
ただ負けた。
最後も届かなかった。
そう返したかった。
でも、声にならなかった。
「次は公式でやれ。配信の遊びじゃなくて、大会で」
「……出ます」
「知ってる。青いとこが声かけてたな」
「見てたんですか」
「見るだろ、今日のは」
黒須はそこで、少しだけ声を落とした。
「あと、見る専の素人って言ったのは撤回しない」
「撤回しないんですか」
「しない。まだ勝ってないから」
「……そうですか」
「でも」
黒須の声が、少しだけ変わった。
「素人で終わるかどうかは、お前次第だろ」
通話が切れた。
『認めた!?』
『試合そのものだ、出た』
『いや負けは負け』
『でもこれは追う』
悠は、まだ通話終了の表示を見ていた。
負けた。
それは消えない。
黒須は強かった。
最後まで届かなかった。
なのに、手のひらの熱だけが引かない。
スマホが震えた。
凛からだった。
『おつかれ』
少し置いて、もう一通。
『悔しい?』
悠は返信欄を開いた。
悔しい。
すごく。
でも、送るには少し怖い言葉だった。
認めてしまえば、次も戦いたいことまで一緒に出てしまう。
悠は、ゆっくり打った。
『悔しい』
送信。
すぐに既読がついた。
凛からの返事は短かった。
『それでいいと思う』
誰かがさっきの黒須の言葉を切り抜いたらしく、通知が鳴った。
《黒須玲司、YU_KAZEを認定「試合そのものを読んでる」》
悠はそのタイトルを見て、少しだけ眉を寄せた。
そういう言い方には、まだ慣れない。
でも、消したいとは思わなかった。
配信終了ボタンにカーソルを合わせる。
今日は、押せた。
部屋の音が戻ってくる。
パソコンのファン。
外を走る車。
階下のテレビ。
机の上のメモは折れたままだった。
勝ちたい。
小さな字が、まだ残っている。
悠はその紙を、捨てなかった。




