第5話 画面の中のピッチ
翌朝、悠はいつもより早く目が覚めた。
眠れなかったわけではない。
寝た。
たぶん、三時間くらいは。
ただ、目を開けた瞬間から、昨日の配信画面が頭の中に残っていた。
《明日21時。逃げるなよ、YU_KAZE》
黒須玲司からのその一文は、スマホを伏せても消えなかった。
机の上には、昨日使ったメモが置きっぱなしになっている。
配信ログは消さない。
今日は受けない。
明日の夜、自分の配信をつけた状態で受ける。
その三行だけ、文字が少し濃くなっていた。
何度も見たからだ。
悠はベッドから起き上がり、スマホを開いた。
通知はまだ多い。
でも、昨日の朝とは少し違っていた。
『昨日の配信見た。説明は下手だけど本物っぽい』
『あの右攻めの伏線、普通に面白かった』
『黒須とやるの?』
『逃げなかったのは評価する』
『でも絶対負ける』
『公式予選出たら?』
その中に、一つだけ目につくコメントがあった。
アカウント名には、プロチームのロゴらしき青い盾がついている。
《BLUE LYNX scouting》
『次のオンライン予選、出ませんか? ログ拝見しました』
悠は、しばらくその一文を見た。
意味が分からないわけではない。
でも、自分に向けられた言葉として読めなかった。
オンライン予選。
WORLD ELEVENの公式大会。
上位に入れば、プロチームの練習生選考やスカウトにもつながる大会。
画面の中で強いやつらが、本当に集まる場所。
同接三人の配信者が、何となく出る場所じゃない。
スマホを閉じる。
数秒後、また開く。
コメントはまだあった。
消えていない。
見間違いではなかった。
ドアの向こうから、母親が階段を上がる音がした。
「悠、起きてる?」
「起きてる」
「今日、早いね」
「たまたま」
「朝ごはん、テーブルに置いとくから」
「うん」
母親の足音が遠ざかる。
悠はベッドの端に座ったまま、しばらく動けなかった。
スマホの画面には、青い盾のロゴが残っている。
出ませんか。
それだけの言葉なのに、昨日まであった部屋の壁が、少しだけ外へ押された気がした。
◇ ◇ ◇
学校では、昨日よりも露骨だった。
廊下で視線が来る。
教室に入ると、一瞬だけ会話が薄くなる。
そのあと、何もなかったみたいにまた音が戻る。
「風見、おはよ」
隣の男子が普通に声をかけてきた。
普通すぎて、逆に身構える。
「おはよう」
「昨日の配信、見たぞ」
悠は返事をしなかった。
男子は椅子にまたがるように座り、少し声を落とす。
「お前なんだろ」
「……」
「まあ、言わなくてもいいけど」
机の上で、悠の指が動いた。
言わない。
それは、否定しないのと同じだ。
でも、もう昨日みたいにすぐ「違う」とは言えなかった。
男子はスマホを出さなかった。
からかう顔でもない。
少しだけ、困ったような顔をしている。
「なんかさ、昨日の解説、うまくはなかったけど」
「うまくないは余計だろ」
思わず返してしまった。
男子が笑う。
「いや、マジでうまくはなかった。でも、何考えてたかは分かった」
悠は顔を上げる。
「そう」
「あと黒須とやるの、やばくね?」
「やばい」
「勝てんの?」
「勝てないと思う」
「そこは嘘でも勝つって言えよ」
「無理」
少し間を置いて、悠は付け足した。
「でも、何もできずに終わるつもりはない」
男子は少し笑って、スマホをしまった。
「でも見るわ」
それだけ言って、自分の席へ戻っていく。
悠は机に置いた手を見る。
何かが楽になったわけではない。
でも、昨日より少しだけ呼吸がしやすかった。
授業前、凛が悠の机の横に来た。
「おはよう」
「おはよう」
「青い盾のコメント、見た?」
悠は少しだけ驚いた。
「見た」
「本物だと思う」
「調べたのか」
「一応。BLUE LYNXはプロチーム。WORLD ELEVEN部門もある。スカウト用のサブアカウントっぽいけど、過去の投稿を見る限り偽物ではなさそう」
「朝から何してるんだよ」
「気になったから」
凛はいつも通り言った。
悠は小さく息を吐く。
「出るわけないだろ、予選なんて」
「出ないの?」
「出る理由がない」
そう言ったのに、胸のどこかが少しだけ反応した。
理由がない、ではない。
理由にしたら戻れなくなるものを、まだ見ないふりしているだけだった。
「あると思う」
凛は即答だった。
悠は顔をしかめた。
「黒須とやるだけでも無理なのに、公式予選なんてもっと無理だろ」
「勝てるかどうかは別」
「別じゃない」
「別だよ」
凛は少しだけ声を落とす。
「出なかったら、昨日の配信で終わる。黒須に負けたかどうか以前に、風見くんは“バズって消えた人”になる」
「それでいいかもしれない」
「本当に?」
悠は答えられなかった。
よくはない。
でも、嫌だと言うのも怖い。
何かを欲しがっているのを、自分で認めることになる。
凛は、手に持っていたノートを机に置いた。
表紙には、小さく「WE」とだけ書かれている。
「何それ」
「昨日の試合と、黒須の配信を見たメモ」
「……怖いな」
「自分でも少し思った」
凛はノートを開く。
ページには、時間、配置、コメントの反応、視聴者数の増え方が書いてあった。
字はきれいだが、ところどころ線が歪んでいる。
急いで書いたのが分かる。
「私は操作はできない。たぶん、やっても全然勝てない」
「だろうな」
「そこは否定して」
「……少しはできるかも」
「遅い」
凛は短く返して、ノートの端を指で押さえる。
「でも、配信の流れは見られる。どこで人が残るか、どこで疑われるか、どこを切り抜けば伝わるか。あと、風見くんが何を説明しないと誤解されるか」
「そんなの、一人でやることじゃないだろ」
「だから、私がやる」
言われて、悠はすぐに返せなかった。
凛の言葉は軽くなかった。
でも、重すぎる言い方でもなかった。
「なんで」
また聞いてしまう。
凛は少し困った顔をした。
「昨日も言った」
「もったいないから?」
「うん」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど」
そこで予鈴が鳴った。
凛はノートを閉じた。
「昼、話そう」
「勝手に決めるなよ」
「嫌なら来なくていい」
そう言って、凛は自分の席へ戻る。
悠は、机の上に残ったノートの跡を見た。
凛は持っていったはずなのに、そこだけ少し温度が残っているような気がした。
◇ ◇ ◇
昼休み。
結局、悠は屋上前の踊り場へ行った。
昨日と同じ場所。
違うのは、凛が先にいたことだった。
購買のパンではなく、今日は弁当を持っている。
「来た」
「来るとは言ってない」
「来たじゃん」
「……まあ」
悠は少し離れて座った。
弁当箱を開ける。
今日はちゃんと食べるつもりだった。
卵焼きを口に入れる。
味は分かる。
ただ、喉を通るまでに少し時間がかかった。
凛はノートを広げる。
「まず、黒須戦」
「昼飯中にする話か」
「しないと間に合わない」
「何に」
「二十一時」
それを言われると、何も返せない。
凛はページをめくる。
「黒須は操作が速い。前から取りに来る。たぶん最初の十五分で潰しに来る」
「知ってる」
「そこで失点すると、コメント欄が一気に黒須側に寄る」
「それも知ってる」
「じゃあ、最初から勝ちに行かない」
悠は箸を止めた。
「どういうこと」
「勝たなくていいって意味じゃない。最初の十五分は、黒須の操作速度を見る。取られてもいい場所と、取られたら終わる場所を分ける」
凛は、ノートの端に簡単なピッチ図を描いた。
線は少し歪んでいる。
「黒須はたぶん、風見くんを“見る専”として潰しに来る。つまり、考える時間を奪いに来る」
「そんなの、どうすればいいんだよ」
「最初から全部読もうとしない」
「俺の強みなくなるだろ」
「全部読むのは無理。でも、一つだけなら見られる」
凛はペンで、中盤の一角を丸で囲む。
「黒須がどこを奪いどころにするか。そこだけ見る」
悠は、その丸を見た。
言っていることは単純だった。
でも、単純だからこそ、試合中にできるかどうかが分からない。
「白瀬」
「何」
「それ、サッカー部で覚えたのか」
「半分は」
「半分?」
「もう半分は、昨日の風見くんの試合を見て」
悠は黙った。
凛は弁当のミニトマトを箸でつまもうとして、滑らせた。
二回目も失敗する。
三回目でようやく取った。
「今のは見なかったことにして」
「見た」
「忘れて」
「無理」
少しだけ空気が緩む。
凛はトマトを食べてから、また真面目な顔に戻った。
「あと、オンライン予選」
「まだ出るって言ってない」
「うん。だから決める話」
「出ても、すぐ負ける」
「そうかもしれない」
「コメント欄も荒れる」
「荒れると思う」
「学校でもまた言われる」
「言われる」
凛は否定しない。
簡単に大丈夫とも言わない。
そのせいで、悠は逆に言葉を探せなくなる。
「じゃあ、なんで出るんだよ」
「風見くんが、まだ試合したそうだから」
悠は箸を置いた。
プラスチックの小さな音が、踊り場に響く。
「してない」
「そう?」
「怖いだけだ」
「怖いのと、勝ちたいのは、同時にあると思う」
凛の声は強くなかった。
でも、逃げる隙間を残さない言い方だった。
悠は階段の窓を見る。
グラウンドでは、昼休みのサッカーが始まっていた。
誰かが強く蹴りすぎて、ボールがフェンスに当たる。
笑い声が上がる。
その中に、自分は一度も入れなかった。
小学生の頃。
中学の時。
高校に入ってからも。
入ろうとして、やめた。
やめたというより、入れない理由を先に並べた。
足が遅い。
体が弱い。
対人が怖い。
ボールが足につかない。
見るだけなら分かる。
そう言われた時、自分でもそう思った。
見るだけなら。
でも、画面の中では違った。
見るだけで終わらなかった。
見たものを、選手の動きに変えられた。
パスコースを消せた。
逃げ道を作れた。
最後の一本を、空いた場所へ通せた。
凛が待っている。
急かさない。
でも、目は逸らさない。
悠は、スマホを取り出した。
BLUE LYNXのコメントをもう一度開く。
《次のオンライン予選、出ませんか? ログ拝見しました》
返信欄に指を置く。
何を書くか、決めていなかった。
何度か文字を打って消す。
凛は何も言わない。
悠は、短く打った。
『出ます』
送信。
すぐに後悔が来る。
でも、送ってしまった。
画面の向こうで、コメントが小さく反映される。
短い返事なのに、階段の踊り場が少し遠くなった気がした。
凛が、ノートの端を押さえたまま言う。
「決めたね」
「押しただけだ」
「それを決めたって言う」
悠はスマホを伏せた。
手が少し震えている。
「白瀬」
「何」
「手伝うって言ったよな」
凛はうなずく。
「言った」
「じゃあ、頼む」
言い方が少し固かった。
お願いというより、どこか契約みたいになった。
凛はそれを笑わなかった。
「うん。やる」
それだけだった。
でも、悠には十分だった。
◇ ◇ ◇
夜。
配信開始十分前。
悠の部屋は、昨日より少し片づいていた。
机の右側にはコントローラー。
左側には凛が作ったメモのコピー。
黒須戦、最初の十五分。
全部を読まない。
奪いどころを見る。
取られていい場所を決める。
コメント欄を見すぎない。
最後の一行だけ、凛の字が少し小さい。
怖くなったら、水を飲む。
悠はそれを見て、少しだけ顔をしかめた。
子ども扱いされているみたいで嫌だった。
でも、水は机に置いた。
配信を開始する。
同接は、開始直後から千を越えた。
昨日の四百が、もう小さく見える。
コメント欄が流れる。
『来た』
『黒須戦待機』
『予選出るってマジ?』
『BLUE LYNXに返信してて草』
『無名くん、人生変わりかけてる』
『今日で終わるかもしれないけどな』
悠はマイクに口を近づける。
「こんばんは」
自分の声が配信に乗る。
昨日より少しだけ、ましに聞こえた。
「今日は、黒須さんとの対戦を受けます」
コメントが加速する。
悠は画面を見すぎないようにして続けた。
「それと、オンライン予選に出ます」
言った瞬間、胸のあたりが少し苦しくなった。
自分の口で言うと、もう戻れない感じがした。
『マジか』
『出るんだ』
『無謀』
『応援する』
『まず黒須にボコられるぞ』
『でも出るなら見る』
通知が鳴る。
黒須玲司からの対戦招待。
昨日と同じ表示。
でも、昨日とは少し違う。
凛との通話はつないでいない。
助言が聞こえたら、それだけでまた何かを言われる。
だから今日は、彼女は視聴者側にいる。
コメント欄に、凛らしい名前は出ていない。
でも見ているのは分かる。
たぶん、ノートを開いて。
ペンを持って。
少し曲がった字で、何かを書いている。
悠はコントローラーを握った。
手は冷たい。
でも、昨日ほどではない。
《承諾》
ボタンの上にカーソルを置く。
今度は押せた。
画面が切り替わる。
マッチングルーム。
相手側に、REIJI_KUROSUの名前。
チーム選択画面。
設定画面。
フォーメーション。
全部、配信に残っている。
コメント欄が騒ぐ。
『本当に受けた』
『逃げなかった』
『黒須側から来た』
『操作画面出してるな』
『これならゴースティングは無理そう』
悠は息を吸う。
黒須の声は聞こえない。
相手の配信も見ていない。
目の前にあるのは、自分の画面だけだ。
選手を配置する。
中盤を少し厚くする。
前線は一枚下げる。
勝つためというより、最初に壊されないための形。
黒須はたぶん笑う。
逃げ腰だと見るかもしれない。
でも今は、それでいい。
最初の十五分。
全部を読まない。
奪いどころを見る。
悠は、凛のメモを一度だけ見た。
試合開始の画面に切り替わる。
スタジアムの照明。
芝の影。
二十二人の選手。
現実のピッチには立てなかった。
その言葉が、ふいに頭に浮かんだ。
立てなかった、というより、立たなかった。
怖くて、遅くて、下手で、何度も逃げた。
でも、ここには来てしまった。
画面の中のピッチ。
誰かが作ったゲームのフィールド。
本物じゃないと言われれば、そうなのかもしれない。
それでも今、自分の指先には十一人の選手がいる。
相手の逃げ道も。
奪いどころも。
崩れる順番も。
全部ではない。
まだ何も分からない。
でも、見ようとはしている。
ホイッスルが鳴る。
黒須のボールで、試合が始まった。
悠は、コントローラーを握り直す。
現実のピッチには立てなかった。
でも、ここなら。
ここなら俺は、まだ走れる。
まだ、勝ちたいと思える。




