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WORLD ELEVEN ―ピッチに立てなかった俺は、画面の中で世界を獲る―  作者: スドタケ
第1章 無名配信者、世に現る編

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第4話 押せないボタン

《承諾》


《拒否》


二つのボタンが、スマホの画面に並んでいた。


風見悠は、そのどちらにも触れなかった。


黒須玲司の配信では、まだ自分の名前が流れている。


『早く受けろ』


『見てるだろ』


『逃げたら黒』


『未経験くん、今です』


画面の向こうには、一万人を超える視聴者がいる。


でも、この部屋には悠ひとりしかいない。


机の上にはコントローラー。


床には開いたままの鞄。


窓の外はもう暗くなりかけていて、隣の家のベランダから洗濯物を取り込む音が聞こえた。


普通の夕方だった。


普通の部屋だった。


なのに、スマホの画面だけが違う場所につながっている。


悠は、凛から来たメッセージをもう一度見た。


『今は押さなくていい』


その下に、入力欄がある。


指が何度か動く。


見てる。


無理。


どうしたらいい。


どれも打っては消した。


黒須の声が、パソコンのスピーカーから流れる。


「反応ないね。まあ、急に来られても困るか」


笑い声が混じった。


馬鹿にしているのか、様子を見ているのか分からない声だった。


チャット欄は勝手に盛り上がる。


『逃げた?』


『今ごろ震えてそう』


『そもそも本人じゃない説』


『代行なら受けられないよな』


悠は配信画面を閉じようとして、マウスに手を伸ばした。


でも閉じなかった。


閉じれば楽になる。


少しだけ。


でも、見えないところで何を言われるのか分からなくなる。


それも怖い。


何をしても、違う怖さにぶつかる。


スマホが震えた。


凛から、もう一通。


『いま承諾したら、相手の配信の流れに飲まれる』


悠は、画面を見たまま息を止めた。


すぐに次が来る。


『受けるかどうかは、風見くんが決めていい。でも、押すなら自分の配信で』


自分の配信。


同接三人の場所。


昨日まで誰も見ていなかった場所。


誰にも言えないサッカーの話を、こっそり置いていた場所。


そこが燃えたら、たぶん悠は本当にどこにも戻れない。


なのに、今はそこに戻るのが一番怖い。


悠はようやく返信した。


『見てる』


短い返事だった。


送信してから、少しだけ後悔した。


すぐに既読がつく。


『電話できる?』


悠は、パソコンの音量を下げた。


黒須の声が遠くなる。


通話ボタンを押すまで、少し時間がかかった。



◇ ◇ ◇



「押してない?」


凛の最初の声は、それだった。


「押してない」


「よかった」


受話口の向こうで、何か紙をめくる音がした。


「何してるの」


「メモ見てる。コメントの流れ」


「なんで」


「気になったから」


凛は当たり前みたいに言う。


悠は椅子にもたれた。


力が抜けたわけじゃない。


ただ、誰かの声が部屋に入ってきて、少しだけ空気が変わった。


「見ない方がいいって言ったのに」


「見た」


「だと思った」


「言い方」


「合ってたでしょ」


否定できなかった。


パソコンの画面では、黒須の配信が続いている。


対戦招待の話題はまだ流れているが、黒須本人は別の試合映像を見始めていた。


それでも、チャットには定期的にYU_KAZEの名前が出る。


凛が言う。


「黒須の言ってたこと、全部間違いじゃなかった」


「……そうだな」


「操作が普通とか、守備の切り替えが甘いとか」


「そこまで言わなくていい」


「ごめん」


少しだけ沈黙が入る。


凛は、言葉を選び直すみたいに間を置いた。


「でも、全部合ってたわけでもない」


「何が」


「見る専の素人、ってところ」


悠の手が止まった。


「そこは合ってるだろ」


「現実のサッカー経験が少ないって意味なら、そうかもしれない」


「じゃあ」


「でも、素人って言葉で片づけるには、昨日の試合は変だった」


悠は返事をしなかった。


褒められると、逃げたくなる。


否定されると、苦しくなる。


どちらも上手く受け取れない。


凛は続ける。


「黒須も、途中で止まった」


「止まった?」


「最後のゴールの前。左サイドを見た時。あれ、引っかかってた」


悠は画面を見る。


配信はもう別の話題に移っている。


でも、あの数秒だけは自分も覚えていた。


黒須が黙ったところ。


「たまたまだろ」


「たまたまなら、黒須はあそこで戻さない」


「……」


「たぶん、あの人も分かったんだと思う。全部じゃなくても」


凛の声は浮ついていない。


だから余計に、悠は逃げ場をなくす。


「でも結論は、上では通じない、だった」


「そう言わないと、自分の立場があるんじゃない?」


「白瀬、けっこう失礼だな」


「本人の前では言わない」


「配信で拾われたら終わるぞ」


「言わないって」


少しだけ、通話の向こうで凛が笑った気がした。


悠はスマホを耳に当て直す。


「受けたら、たぶん負ける」


「うん」


即答だった。


「そこは励ませよ」


「嘘はつきにくい」


「……そう」


「でも、受けたら終わりとは思わない」


悠は黙る。


凛の声は、ほんの少しだけ近くなった。


「今すぐ承諾して、黒須の配信に入るのは違う。向こうの土俵になるから。でも、自分の配信で、ログを残して、条件を出して受けるなら話が変わる」


「条件?」


「相手配信は見ない。こっちは画面を全部出す。試合前のフォーメーション変更も見せる。アーカイブも残す」


凛が、紙をめくる。


「あと、今日じゃなくて明日。今の状態でやると、風見くんが壊れる」


「壊れるって」


「壊れそうな声してる」


悠は何も言えなかった。


通話口の向こうでは、また紙の音がした。


「白瀬」


「何」


「なんで、そこまで考えてるの」


昨日も似たようなことを聞いた。


答えは、たぶん同じではない。


凛は少し黙った。


「私、サッカー部にいた時、試合に出てたわけじゃない」


「元選手じゃないのか」


「少しはやってた。でも長くはない。途中からマネージャー」


「そうなんだ」


「だから、見る側に回った人のことを、見る専って言われるの、少し嫌だった」


悠は返事ができなかった。


凛のことを、自分はほとんど知らない。


サッカー部の手伝いをしている人。


それくらいの雑な形でしか見ていなかった。


「見てるだけなら分かるんだろ、って、たまに言われる」


凛の声は大きくならなかった。


「分かることもある。でも、分かっても動かせないこともある。だからって、見てきたものが全部嘘になるわけじゃない」


悠は、スマホを握り直した。


小学生の頃に聞いた声が、少し離れる。


消えたわけじゃない。


ただ、凛の声が、その上に別の線を引いた。


「俺は、たぶん負ける」


「うん」


「……即答かよ」


「ごめん。でも、嘘はつきにくい」


「でも、逃げたら、昨日の試合まで終わる気がする」


言ってから、自分で驚いた。


守りたかったのは評価じゃない。


あの試合をしていた時の自分まで、なかったことにされたくなかった。


それだけでもなかった。


黒須に勝てるとは思わない。


けれど、負けるにしても、ただ潰される側には戻りたくない。


画面の中だけでも、一度くらい勝つ側に立ちたい。


そんなことを思っていたのか。


凛はすぐには返さなかった。


数秒後、短く言う。


「じゃあ、終わらせない方にしよう」



◇ ◇ ◇



夜八時。


悠は自分の配信画面を開いた。


配信タイトルは、まだ空欄だった。


マイクのテストをする。


声が小さい。


もう一度。


やっぱり小さい。


マイクの位置を少し近づける。


机の上を片づける。


教科書を端へ寄せる。


コップをどかす。


昨日の丸い跡は、まだ残っていた。


凛とは、通話を切らずにつないでいる。


イヤホン越しに、彼女の声が聞こえる。


「タイトル、これでいいと思う」


送られてきた文面を、悠は見る。


《昨日の試合ログを残したまま、次の対戦について話します》


硬い。


でも、変に煽っていない。


「もっと短くしない?」


「短くすると、煽りに見える」


「そういうものか」


「そういうもの」


悠はそのまま貼り付けた。


配信開始ボタンにカーソルを合わせる。


手が止まる。


「白瀬」


「何」


「始めたら、来るよな」


「何が?」


「変なコメント」


「来ると思う」


「だよな」


「でも、見てる人の全部が敵じゃない」


その言葉は、少しきれいすぎる気がした。


でも、凛が言うと、ぎりぎり嘘には聞こえなかった。


悠は配信開始を押した。


画面が切り替わる。


同時接続。


三十二。


昨日までの十倍。


それだけで喉が乾く。


コメントがすぐ流れ始めた。


『来た』


『本人?』


『逃げなかった』


『声出せ』


『黒須から逃げるな』


『配信ログ消してないのは偉い』


『AI戦術ですか?』


『ゴースティング否定して』


悠はマイクに口を近づけた。


言葉が出ない。


一秒。


二秒。


沈黙が長くなる。


コメント欄がざわつく。


『無言草』


『やっぱ代行?』


『喋れない系?』


イヤホンの奥で、凛が小さく言う。


「読まなくていい。最初に用意した文だけ」


悠は、メモ帳を画面外に開いた。


自分で打ったのに、もう文字が遠い。


それでも読む。


「昨日の試合について、配信ログは消しません。アーカイブも残します」


声が少し震えた。


コメントが流れる。


「相手の配信は見ていません。証明は難しいですけど、昨日の配信画面と操作ログは残します」


喉がつかえる。


水を飲む。


コップを置く音がマイクに入った。


「黒須さんから対戦招待が来ています」


コメント欄が一気に速くなる。


『受けろ』


『今やれ』


『逃げんな』


『黒須さん見てる?』


『明日でいいだろ』


悠は画面を見ないようにした。


見たら止まる。


「今日は受けません」


言った。


自分で言った。


コメント欄が跳ねる。


『逃げた』


『はい黒』


『終わり』


『いや準備なしでやる必要ないだろ』


『明日やれ』


悠は続ける。


「明日の夜、自分の配信をつけた状態で受けます。試合前の設定、フォーメーション変更、マッチング画面、全部残します」


指先が冷たい。


でも言葉は、少しずつ出るようになっていた。


「勝てるとは思ってません」


イヤホンの奥で、凛が何か言いかけて止まった。


悠は続ける。


「でも、勝ちたいとは思ってます」


コメント欄が、一瞬だけ変な止まり方をした。


自分で言ってから、手のひらが熱くなった。


悠は続ける。


「昨日の試合が、疑惑だけで終わるのは嫌です。だから、やります」


そこまで言って、息が切れた。


走ったわけでもないのに、肺が重い。


コメント欄の速度が変わった。


『今のはいい』


『逃げてはないな』


『明日か』


『負けそうだけど見たい』


『ちゃんとログ残すならいいんじゃね』


『黒須に勝てるわけない』


『でも昨日の試合、俺は好きだった』


最後のコメントだけが目に入った。


悠は、そこで初めて画面をちゃんと見た。


知らない名前。


知らない人。


でも、その一文だけは、疑うより先に読めた。


すぐに流れて消えた。


悠はメモ帳を閉じる。


もう用意した言葉はない。


「今日は、昨日の試合を少し見返します」


自分で言ってから、少し後悔した。


でも、配信を切る気にもなれなかった。


ゲーム画面を開く。


アーカイブを再生する。


後半八十一分。


右サイドで失敗した攻撃。


コメント欄がまた動く。


『そこから?』


『ゴールじゃないんだ』


『失敗したとこじゃん』


悠は、映像を止めた。


相手の左サイドバックが、内側を見ている。


ほんの少しだけ。


「ここで、相手が中を見るのを確認しました」


声はまだ小さい。


でも、さっきよりは出た。


「このあとも右から入れてます。点を取りたかったというより、たぶん、見たかったんだと思います」


たぶん。


自分のことなのに、断言できない。


でも、それでよかった。


あの時の自分は、全部を説明できるほど整理していたわけじゃない。


見て、迷って、置いていただけだ。


「ここで左を使わなかったから、最後に少し空きました」


コメント欄の流れが少しだけ変わる。


『本人解説助かる』


『地味』


『でも分かる』


『これAIじゃなくて人間の嫌らしさだろ』


『褒めてるのかそれ』


悠は少しだけ息を吐いた。


ほんの少しだけ。


それから、次の場面を再生した。



◇ ◇ ◇



配信を終えたのは、九時を少し過ぎた頃だった。


同時接続は、最後には四百を超えていた。


数字を見ても、現実味がなかった。


配信終了ボタンを押したあと、部屋の音が戻ってくる。


パソコンのファン。


遠くのテレビ。


廊下を歩く母親の足音。


悠は椅子にもたれたまま、しばらく動けなかった。


イヤホンの向こうで、凛が言う。


「おつかれ」


「……疲れた」


「こっちも疲れた」


「白瀬は見てただけだろ」


「見てるだけも、けっこう疲れる」


言われて、悠は返せなかった。


凛が少し笑う。


「最後、よかったと思う」


「どこが」


「たぶん、って言ったところ」


「そこ?」


「全部分かってやってます、より本当っぽかった」


「本当っぽいって」


「本当だったから」


悠は机の上のコントローラーを見る。


今日は、試合はしていない。


でも、何かを少し動かした気がした。


勝ったわけではない。


疑惑が消えたわけでもない。


明日、黒須とやれば、たぶん負ける。


それでも、昨日の試合を自分の口で少しだけ取り戻せた。


その感じだけが、手元に残っている。


スマホが震えた。


新しい通知。


黒須玲司の配信アカウントからだった。


《明日21時。逃げるなよ、YU_KAZE》


悠は画面を見た。


短い文。


それだけで、また胃のあたりが重くなる。


凛も同じ通知を見たのか、通話の向こうで少しだけ黙った。


「明日だね」


「……明日だな」


「寝た方がいい」


「寝られると思うか?」


「思わないけど、横にはなった方がいい」


「医者かよ」


「元マネージャー」


悠は少しだけ笑った。


笑えたことに、自分で遅れて気づく。


通話を切ったあと、部屋はまた一人になった。


でも、さっきまでとは少し違った。


スマホの画面には、黒須からの宣戦布告が残っている。


悠はそれを消さずに、机の上へ伏せた。


明日。


勝てるとは思っていない。


それでも、逃げたくないとは思ってしまった。


その気持ちが正しいのかどうかは、まだ分からなかった。

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