第26話 決勝トーナメントの壁
レオンとの引き分けから一夜明けても、悠の手にはまだ試合の感触が残っていた。
勝てなかった。
でも、負けなかった。
その二つは似ているようで、まったく違う。
学校では、誰もそこまで細かく分けなかった。
「レオン相手に引き分けってすごくね?」
「次勝てば突破なんだろ?」
「風見、決勝で再戦とかある?」
クラスメイトの声は、少し浮いていた。
悠は曖昧にうなずく。
決勝。
簡単に言える場所ではない。
そこへ行くには、まだ一試合ある。
グループステージ第3戦。
負ければ、終わる可能性がある。
引き分けでも、他会場次第。
勝てば突破。
条件は分かりやすい。
だから余計に、逃げ道がなかった。
昼休み、屋上前の踊り場で、凛はノートを開かなかった。
膝の上に置いたまま、ペンも持っていない。
「今日は、勝つ試合だね」
「簡単に言うな」
「簡単ではないと思う」
「なら言うなよ」
「でも、今日は勝つ試合」
凛は、少しだけ言い直した。
「勝たないと、続きがない試合」
悠は弁当箱を開けた。
卵焼きが二つ入っている。
一つを箸でつまむ。
落とさなかった。
「レオン戦の後だから、相手が少し普通に見える」
悠が言うと、凛は首を横に振った。
「それ、危ないと思う」
「分かってる」
「分かってない顔」
「どんな顔だよ」
「昨日のレオンだけ見て、今日の相手を小さく見ようとしてる顔」
悠は返せなかった。
凛はノートを開き、真ん中に一行だけ書いて見せた。
勝たなければ、次の話はない。
「小説みたいなこと書くな」
「風見くんが言いそうにないから」
「言わない」
「うん。だから書いた」
凛はノートを閉じた。
「今日は、レオンを忘れた方がいい」
「忘れられると思うか?」
「忘れなくていい。でも、見ない」
悠は、少しだけ笑った。
「白瀬、最近ちょっとコーチみたいになってる」
「やめて。そこまでは責任持てない」
その返しが早くて、悠は少しだけ肩の力が抜けた。
スマホには、すでに大会通知が届いている。
グループステージ第3戦。
開始まで、あと六時間。
世界大会は、待ってくれない。
◇ ◇ ◇
第3戦は、開始から荒れた。
相手は欧州代表のようにピッチを狭めてこない。
南米代表のようにリズムを変えてくるわけでもない。
もっと単純だった。
走ってくる。
強く当たってくる。
奪った瞬間に、青いユニフォームの背中へまっすぐ牙を立ててくる。
前半十二分。
日本は先に失点した。
中央で奪われ、ロングボール一本。
黒須が戻る前に、相手のストライカーが抜け出した。
シュートは鋭く、キーパーの手を弾いてネットへ突き刺さる。
0対1。
通信の中で、獅堂が短く舌打ちした。
「走り負けた」
水谷が言う。
「まだ前半」
黒須は何も言わない。
悠は画面を見ていた。
レオンとは違う。
この相手は、こちらの道を消してくるのではない。
道を作る前に踏み荒らしてくる。
「風見」
黒須の声。
「はい」
「今日の相手は、考えすぎるな」
悠は返事をしなかった。
黒須が続ける。
「こいつらは待ってくれない」
その通りだった。
考えている間に、青いユニフォームが一人ずつ押し戻されていく。
悠は、凛のノートの一行を思い出した。
勝たなければ、次の話はない。
前半二十八分。
水谷が体を入れて、相手の突進を止めた。
転がったボールを、黒須が拾う。
その瞬間、獅堂が外へ走る。
いつものように派手な走りではない。
泥を蹴るような、強引な走りだった。
「獅堂さん!」
悠が声を出す。
獅堂は答えない。
代わりに、画面の中で青い選手が速度を上げる。
黒須は中央へ相手を引きつける。
水谷が後ろで支える。
悠は、獅堂の走る先ではなく、獅堂が連れていく相手の背中を見た。
そこへ、黒須が入る。
パスが一本通る。
黒須がシュートを打つ。
キーパーが弾く。
こぼれ球。
獅堂が、外から中へ戻ってきていた。
遅れて入った足が、ボールを押し込む。
1対1。
「今の、俺のゴールっすよね?」
獅堂が言う。
黒須が即答した。
「誰が見てもそうだろ」
「黒須さんが素直だ」
「うるさい」
通信が少しだけ軽くなる。
悠は水を飲んだ。
まだ同点。
勝たなければならない。
後半、相手はさらに走ってきた。
日本は押し込まれる。
水谷が何度も体を入れ、黒須が低い位置まで戻る。
獅堂も外で耐える。
途中出場のKIRAが、短い時間だけピッチに入った。
大きな仕事ではない。
ただ、流れが荒くなった場所で一度ボールを受け、相手の勢いを止めた。
「戻します」
KIRAの声。
短い言葉。
でも、それだけで周囲が一拍待てた。
悠は、その一拍を逃さなかった。
黒須へ。
水谷へ。
もう一度、黒須へ。
相手が中央へ寄る。
獅堂は外にいる。
誰もが外を見た。
だが、悠は中央を見ていた。
黒須が、獅堂を見せたまま、少しだけ内側へ入る。
そこへ、ボールが入る。
黒須のシュート。
低く、強く、迷いがない。
ネットが揺れた。
2対1。
後半四十一分。
その後の数分は、長かった。
相手は前線へ人数をかける。
日本は蹴り出すだけになる時間もあった。
美しくはない。
配信映えもしない。
けれど、青いユニフォームは倒れなかった。
最後の笛が鳴った時、悠はコントローラーを握ったまま、画面を見ていた。
2対1。
日本、グループ突破。
勝った。
次が来た。
コメント欄が流れる。
『突破!』
『日本、決勝トーナメントへ!』
『黒須決めた!』
『獅堂もやばい』
『風見、最後よく見た』
悠は、すぐには笑えなかった。
勝ったのに、体が重い。
レオンとの引き分け。
第3戦の失点。
逆転。
最後の耐える時間。
全部が積み重なって、勝利の形をしていた。
通信の向こうで、黒須が言った。
「ここからだな」
水谷が返す。
「やっと?」
「やっと」
獅堂が笑う。
「世界大会、長すぎ」
高城コーチの声が入った。
「休むのは十五分だけだ。決勝トーナメントの組み合わせが出る」
悠は背もたれに体を預けた。
休む時間は、思ったより短かった。
◇ ◇ ◇
決勝トーナメント初戦は、守備に人数をかけるチームだった。
日本の攻撃は何度も止められたが、黒須が最後に一枚を剥がし、水谷が拾い、獅堂が外から突き刺した。
1対0。
派手ではない勝利。
でも、勝利だった。
準々決勝は、ボールを支配するチームだった。
日本は長い時間、追わされた。
青いユニフォームが画面の中で走らされ、少しずつ息を削られる。
悠は自分が目立つ選択を捨てた。
黒須が走れる場所。
水谷が守れる場所。
獅堂が外で勝負できる幅。
それだけを作り続けた。
終盤、獅堂が倒れ込みながらクロスを入れ、黒須が頭で合わせた。
2対1。
画面の向こうで、黒須が珍しく声を荒げた。
「残れ!」
その声に、水谷が残った。
こぼれ球を拾って、最後の数分を閉じた。
準決勝。
ここで、日本は一度、完全に止まりかけた。
相手は走力のあるチームだった。
前から来て、後ろからも来る。
青いユニフォームの周りに、相手の色が増えていく。
波のようだった。
一度下がると、もう前に出られない。
後半三十分を過ぎても、スコアは0対0。
次の一点を取られたら、終わる。
悠の手の中で、コントローラーが少し滑った。
汗のせいか、緊張のせいか分からない。
水谷が奪った。
黒須が前に走る。
獅堂が外へ開く。
相手の守備が一瞬だけ割れた。
悠の操作する選手の前に、シュートコースが見えた。
自分で打てる。
今までなら、絶対に打たない場所ではない。
いや、打つべき場所に見えた。
ここで決めれば、世界大会の準決勝で、自分が日本を決勝へ連れていける。
一瞬だけ、そんな考えが入った。
親指が押しかける。
ほんの少しだけ、力が入る。
高城コーチの声が飛んだ。
「風見、今は決めるな。生かせ」
遅れて、聞こえた。
黒須が走っている。
水谷が遅れて入る場所も、獅堂が外で待つ幅も、ちゃんとある。
全部が、自分のシュートで消えかけていた。
悠は奥歯を噛んだ。
打たない。
外へ流す。
獅堂が受ける。
相手が外へ寄る。
中が開く。
水谷が入る。
黒須が最後に走る。
ボールは、何人もの足元を通って、黒須の前へ落ちた。
シュート。
ネット。
1対0。
準決勝、勝利。
日本、決勝進出。
通信の中で、しばらく誰も声を出せなかった。
黒須が最初に言った。
「今の、お前が打ってたら負けてた」
悠はコントローラーを置けなかった。
「……打ちたかったです」
言ってから、少し驚いた。
自分でそんなことを言うつもりはなかった。
黒須は短く笑った。
「だから勝ったんだろ」
水谷が息を吐く。
「悠くん、今の守備も攻撃も、配信だと絶対伝わらないやつ」
獅堂が床に倒れ込みそうな声で言う。
「いや、俺には伝わった。めちゃくちゃ走らされたから」
悠は何か返そうとして、やめた。
手が震えていた。
打てた。
打ちたかった。
打たなかった。
その三つが、同じ場所に残っている。
勝った。
決勝へ行く。
そう分かっているのに、嬉しさより先に疲れが来た。
その時、画面に決勝の相手が表示された。
欧州王者候補。
レオン・ヴァイス。
グループステージで勝てなかった相手。
《次は決勝で》
あの言葉が、本当になった。
決勝は、オンラインではなかった。
開催地は、リヤドの特設アリーナ。
勝ち上がった代表選手たちが、現地に招待される。
同じ会場。
同じ機材。
同じ回線。
通信遅延の差はない。
逃げ道は、もう画面の外にはない。
黒須が、モニターを見たまま言った。
「決勝は、お前も前に出ろ」
悠は返事をしようとした。
けれど、声が出る前に、通知が鳴った。
凛からだった。
『行ってらっしゃい』
短いメッセージ。
まだ日本にいるのに、もう遠くへ送り出された気がした。
悠は、返信欄を開いた。
何度か文字を打って、消す。
最後に、短く返した。
『行ってきます』




