第25話 欧州王者候補
相手は、レオン・ヴァイス率いる欧州代表だった。
南米代表とは、まるで違った。
速さで飲み込んでくる相手ではない。
熱で押し潰してくる相手でもない。
白と濃紺のユニフォームが、画面の中で淡々と位置を取る。
ボールが動く前に、こちらの逃げ道が一つずつ消えていく。
試合前の控室で、悠はモニターに映るレオンを見ていた。
短く整えた銀色に近い髪。
表情の薄い顔。
派手なフェイントも、力任せの突破もない。
ただ、立っている場所が嫌だった。
レオンが中央に一歩立つだけで、黒須への道が細くなる。
水谷が受ける場所も、少しだけ狭くなる。
獅堂が走れそうな外側には広い芝があるように見えて、そこへボールが出る頃には白と濃紺の選手が先に体を入れていた。
「嫌ですね」
悠が小さく言った。
水谷が横でうなずく。
「嫌だね」
獅堂が椅子の背にもたれたまま、足を揺らしている。
「外、空いてるように見えて全然空いてないんすよね」
黒須はモニターを見たまま黙っていた。
いつもなら何か言い切る。
相手の欠点や、自分が潰す場所を短く言う。
でも、今は黙っている。
それが一番、レオンの厄介さを伝えていた。
高城コーチが映像を止める。
「相手は黒須を中心に消してくる」
誰も驚かなかった。
「黒須に入れても、そこを出口にするな。入口にしても閉じられる」
高城コーチはペンの先で、画面上の黒須の想定位置を指した。
「黒須を通過点にしろ」
悠はその言葉を聞いて、少しだけ指先を握った。
通過点。
言葉としては分かる。
でも、黒須をそう扱うことに、まだ体が追いつかない。
画面越しに見ていた壁。
ようやく同じチームに立てた相手。
その人を、自分が一手として使う。
理屈より先に、喉が重くなった。
スマホが震えた。
凛からだった。
『黒須さんを使うのは、黒須さんを軽く見ることじゃない』
悠は一瞬だけ、その文字を見た。
返事は打てなかった。
ただ、画面を閉じずに伏せた。
「風見」
黒須が言った。
「はい」
「俺だけ見たら負けるぞ」
悠は返事が半拍遅れた。
「……はい」
「何だよ、その間」
「言おうとしてたことを、先に言われました」
「お前が言うのが遅い」
「すみません」
「だから謝るな」
水谷が少し笑った。
獅堂が軽く手を上げる。
「俺も見てよ、風見」
「見ます」
「軽いな」
「軽くはないです」
「ならよし」
KIRAはサブメンバーとして、少し後ろの席にいた。
悠と目が合うと、小さくうなずく。
悔しさがまったくないわけではないと思う。
でも、彼は何も言わなかった。
サブでも、同じチームだ。
試合開始の通知が入る。
ホイッスルが鳴った。
◇ ◇ ◇
欧州代表は、前から激しく来なかった。
南米代表のようにリズムで揺さぶってくるわけでもない。
ただ、そこにいた。
いるべき場所に、先にいる。
黒須への道が、最初から細い。
水谷が受ける場所も、ほんの少しだけ狭い。
獅堂の外側には余白があるように見える。
だが、走り出した瞬間には閉じる。
悠はボールを持つたびに、ピッチが縮んでいく感覚を覚えた。
広いはずの芝が、画面の中で四角く折りたたまれていく。
前半七分。
黒須が中央で受けた。
レオンが近づく。
速くない。
だが、黒須が前を向く角度だけを消している。
黒須が一度、水谷へ落とす。
水谷は受けた瞬間に横へ流す。
そこにも白と濃紺の選手がいた。
獅堂が外へ走る。
「出して」
悠は一瞬、出したくなった。
空いている。
少なくとも画面上は空いていた。
けれど、パスが出る前に、レオンの視線がそこへ向いた。
まだ動いていない。
なのに、もう閉じたように見えた。
悠は出さなかった。
「今の、欲しかったんだけど」
「閉じてました」
「見た目は空いてた」
「見た目だけです」
「嫌なこと言うなあ」
獅堂は軽く返したが、声に少しだけ引っかかりがあった。
前半十三分。
欧州代表の攻撃。
レオンが中央で受ける。
黒須が寄せる。
レオンは逃げない。
黒須の足が出る前に、横へ置く。
一人が受ける。
すぐ返す。
黒須が追い直す。
その背中へ、レオンのパスが滑る。
白いユニフォームが抜け出す。
シュート。
日本のキーパーが触る。
こぼれ球を水谷が先に蹴り出した。
危ない。
だが、失点ではない。
「機械みたい」
獅堂が言った。
「褒めてる場合じゃない」
水谷が返す。
黒須は黙っていた。
前半二十一分。
日本は初めて、少しだけ形を作った。
水谷が低い位置で受ける。
黒須へ入れる。
黒須は前を向かない。
向けないのではなく、向かない。
レオンがそこを消しに来る前に、短く悠へ戻す。
悠はすぐ獅堂を見る。
外はまた閉じかけている。
でも、今度は獅堂が走っていなかった。
外へ立ったまま、相手のサイドバックを止めている。
その内側を、水谷が遅れて上がる。
「水谷さん」
悠が出す。
水谷が受ける。
相手の中盤が寄る。
黒須が、その背中へ入る。
レオンも動く。
日本の選手が一瞬、前を向いた。
悠はシュートではなく、さらに横へ流した。
獅堂。
外ではなく、少し内側。
獅堂が足を振る。
シュート。
白と濃紺のディフェンダーが体を投げ出す。
ボールは大きく跳ねて、ゴール裏へ逸れた。
コーナー。
決定機ではない。
でも、日本が初めて、欧州代表の守備を少しだけ動かした。
全部が閉じているわけではない。
閉じる瞬間がある。
そこを少しだけ遅らせれば、入れる場所ができる。
前半は0対0で終わった。
シュート数は欧州が多い。
日本は押されていた。
だが、崩され切ってはいない。
ハーフタイム。
通信に高城コーチの声が入る。
「黒須を入口にするな。出口にもするな。通過点にしろ」
黒須が鼻で笑った。
「ひどい扱いですね」
「勝つためだ」
「分かってます」
悠は、試合前に届いた凛のメッセージを思い出していた。
黒須さんを使うのは、黒須さんを軽く見ることじゃない。
後半が始まる。
日本は少し形を変えた。
黒須が前に張らず、少し下がる。
レオンの視線が黒須を追う。
当然だ。
黒須は危険な選手だ。
世界中が知っている。
だから、そこへ目が集まる。
黒須が下がることで、欧州の守備が一歩前へ出る。
水谷がその間に入る。
獅堂は外に張ったまま。
走らない。
まだ走らない。
後半八分。
黒須が受ける。
レオンが寄る。
もう一人も来る。
黒須の進路が消える。
通信で黒須が言った。
「風見」
悠は一拍だけ迷った。
そして言った。
「黒須さん、囮で」
通信が止まったように感じた。
黒須が短く笑う。
「言うようになったな」
「……すみません」
「謝るなって何回言わせる」
黒須はボールを持ったまま、あえて前を向いた。
欧州の二人が食いつく。
レオンも半歩寄る。
その重みで、逆側がわずかに空いた。
水谷が下がって受ける。
そこから、獅堂。
外ではない。
外へ行くと見せて、遅れて内側へ入る。
獅堂が受ける。
レオンが振り向く。
初めて、少し遅れた。
獅堂はシュートを打たない。
水谷へ落とす。
水谷がさらに横へ。
日本の別の選手が走り込む。
シュート。
出るはずだった。
その前に、レオンが戻っていた。
速いわけではない。
だが、そこにいた。
白と濃紺の足が、ボールの軌道を消す。
カット。
一瞬で、欧州のカウンターに変わる。
「戻れ!」
黒須の声。
獅堂が戻る。
水谷も下がる。
悠は、背中に冷たいものが落ちたような感覚になった。
読まれた。
囮にすることまで、読まれていた。
レオンが中央で受ける。
悠の操作する中盤が寄る。
行けば使われる。
行かなければ前を向かれる。
一瞬遅れた。
レオンのパスが、遅れた場所を通る。
シュート。
キーパーが触る。
ポスト。
外へ跳ねる。
助かっただけだった。
獅堂が息を吐く。
「今の、読まれた?」
水谷が答える。
「読まれたね」
黒須が短く言う。
「なら、もう一回やれ」
同じことをやれば、また止められる。
でも、同じに見せて違うことなら。
後半二十二分。
欧州代表が先に点を取った。
レオンが中央で受けた。
黒須を一歩引きつけ、水谷を動かし、悠が見ていた逃げ道を逆に使った。
こちらが空けたつもりの場所に、白と濃紺のユニフォームが先にいた。
パス。
シュート。
ゴール。
0対1。
コメント欄が荒れる。
『レオンうますぎ』
『読まれた』
『風見の読みを逆手に取られた?』
悠は唇を噛んだ。
見えていた場所を使われた。
自分が見ようとした道に、先に罠を置かれていた。
レオンの声が翻訳表示で流れる。
《KUROSUだけのチームではないなら、証明してみせろ》
黒須が通信で低く言った。
「だそうだ」
獅堂が笑う。
「言われてますよ、風見」
「なんで俺に」
「見てる人だから」
悠は返せなかった。
キックオフ。
時間は残り少ない。
日本は前へ出る。
だが、焦れば欧州の網にかかる。
黒須へ入れれば閉じる。
獅堂へ出せば外で止まる。
水谷へ戻せば背中を狙われる。
悠は画面全体を見る。
見すぎない。
でも、見ないと分からない。
試合前の凛のメッセージが、遅れて効いてくる。
黒須さんを使うのは、黒須さんを軽く見ることじゃない。
後半三十四分。
黒須が中央に立つ。
レオンがそこを見る。
欧州の守備が、黒須を中心に閉じる。
悠は、黒須へ出した。
黒須が受ける。
潰される。
そこへ出したこと自体が餌だった。
黒須は倒れない。
持ちこたえる。
一秒。
二秒。
それだけで十分だった。
「水谷さん」
水谷が横に入る。
黒須から水谷。
水谷から獅堂。
さっき止められた形と同じに見える。
レオンが戻る。
白と濃紺の足が、また先に入りかける。
悠はそこで、獅堂へ行かせなかった。
「獅堂さん、外」
「え、今?」
「外」
獅堂が一度、内側へ入りかけた足を、無理やり外へ戻す。
レオンの足が、内側の空間を消す。
そこには、もう誰もいない。
水谷が受け直す。
黒須が一度下がる。
欧州の守備は、黒須と獅堂の間でほんの少しだけ割れた。
悠はそこへ、もう一枚を入れる。
水谷ではない。
黒須でもない。
獅堂が外へ引いたことで生まれた、その内側の空白。
日本の中盤が走り込む。
レオンが振り向く。
遅れた。
今度は、ほんの少し。
「黒須さん、触るだけ」
「命令多いな」
「お願いします」
黒須が触る。
ボールは止まらない。
方向だけ変わる。
その先に、水谷がいた。
水谷が足を振る。
強いシュートではない。
低く、ゴールの隅へ流す。
キーパーが飛ぶ。
ボールが指先を抜ける。
ネットが揺れた。
1対1。
後半三十六分。
スタジオの中で誰かが机を叩いた音が聞こえた。
獅堂が叫ぶ。
水谷が短く息を吐く。
黒須が「よし」と言う。
悠は、少しだけ遅れて手を離しそうになった。
まだ終わっていない。
レオンは、失点しても表情を変えなかった。
画面の中で、白と濃紺のユニフォームがすぐに並び直す。
同点になったはずなのに、ピッチの狭さは消えない。
勝ちに行けば、逆に食われる。
守り切るだけでも、たぶん持たない。
後半アディショナルタイム。
欧州代表の最後の攻撃。
白と濃紺が、また静かに広がる。
芝の緑が狭くなる。
レオンは黒須を見る。
次に、悠の操作する中盤を見る。
見られている。
画面越しに、それが分かる気がした。
レオンがパスを出す。
今度は右。
悠は遅れて反応する。
黒須が中央へ戻る。
水谷がコースを消す。
獅堂がスライディング気味に外へ体を投げる。
ボールは跳ねる。
ペナルティエリアの外。
欧州の選手が拾う。
ミドル。
日本のディフェンダーに当たる。
軌道が変わる。
キーパーが逆を取られる。
ボールはゴール左へ飛んだ。
入る。
一瞬、そう見えた。
だが、ポストの外側を叩き、跳ね返った。
笛。
試合終了。
1対1。
日本は負けなかった。
欧州王者候補にも、レオンにも。
けれど、勝てなかった。
通信の中で、すぐに歓声は上がらなかった。
水谷が大きく息を吐く。
獅堂が「マジで嫌だ、あいつ」と言う。
黒須は、しばらく黙っていた。
「次だな」
短い声。
それだけだった。
画面に、勝ち点が表示される。
日本代表のグループ突破は、まだ決まっていない。
ただ、大きく前進した。
そういう説明が、配信画面の下に流れている。
勝ち点。
得失点。
次戦。
数字は並ぶ。
でも、レオンの最後のミドルだけが、まだ目の前に残っていた。
試合後インタビューの翻訳表示が流れる。
レオンのコメント。
《日本は面白いチームだった》
少し間が空く。
《次は決勝で》
コメント欄が一気に跳ねた。
『決勝で!?』
『レオン、言った』
『再戦フラグ』
『日本、そこまで行けってことか』
黒須がそれを見て、少しだけ笑った。
「言うじゃん」
獅堂が言う。
「決勝まで行けってことっすね」
水谷が返す。
「簡単に言うね」
悠は何も言わなかった。
決勝。
まだ遠い。
遠すぎる。
次のグループ最終戦に勝つか、最低でも突破条件を満たさなければ、そこへは行けない。
この試合だって、引き分けるだけで精一杯だった。
レオンには、勝てていない。
黒須を囮にしても、読まれた。
獅堂をずらしても、ギリギリだった。
水谷が決めてくれたから、何とか追いついた。
最後の一本がポストの外に逃げてくれたから、終わらなかった。
一人では何も届いていない。
でも。
悠は机の上のボトルを手に取った。
中身は少しだけ残っていた。
ぬるい水を飲む。
飲み込むまでに、少し時間がかかった。
画面にはまだ、レオンの言葉が残っている。
《次は決勝で》
遠い。
本当に遠い。
それでも、悠は初めて、その遠い場所へ行きたいと思った。




