第24話 世界大会、開幕
世界大会の配信ページを開いた瞬間、音が違った。
いつものWORLD ELEVENではなかった。
重い低音。
観客のざわめき。
各国の旗が画面の上を流れ、選手紹介の映像が短く差し込まれる。
青い日本代表のユニフォーム。
緑と黄色を基調にした南米代表。
実況は日本語だけではない。
海外の声が少し遅れて重なり、コメント欄には読めない言葉も流れていた。
『JAPAN?』
『KUROSU is here』
『who is KAZAMI』
『YU_KAZEきた』
『世界大会、本当に始まった』
悠はヘッドセットを直した。
耳の位置が合わない。
一度外して、つけ直す。
まだ少しずれている気がする。
「風見」
通信に黒須の声。
「聞こえてます」
「ヘッドセットいじりすぎ」
「見えてるんですか」
「音で分かる」
「すみません」
「謝るな。始まるぞ」
画面中央にカウントダウンが出る。
三。
二。
一。
世界大会グループステージ初戦。
日本代表対南米代表。
ホイッスルが鳴った。
南米代表のボールが動く。
最初のパスから、音が違う気がした。
気のせいかもしれない。
だが、ボールの持ち方がこれまでの相手と違った。
速いだけではない。
止まる。
跳ねる。
急に沈む。
リズムが一定ではない。
ドリブルが一度ゆっくりになったと思ったら、次の一歩でこちらの守備の間をすり抜ける。
画面の中で、緑のユニフォームが踊るように揺れた。
「来るぞ」
水谷の声。
黒須が寄せる。
相手は黒須を見て、少しだけボールを止めた。
止まったのに、奪えない。
次のタッチで、黒須の横を抜ける。
観客の音が大きくなる。
スタジアム演出のはずなのに、部屋の壁が少し遠くなった。
悠はボランチを動かす。
間に合う。
と思ったところで、相手はボールを足裏で転がした。
方向が変わる。
日本の守備が一歩ずれる。
中央へ。
さらに外へ。
低いクロス。
ペナルティエリアの中に、緑の選手が飛び込む。
シュート。
ゴール。
前半八分。
0対1。
あまりにも早かった。
通信が一瞬だけ詰まる。
誰も怒鳴らない。
その沈黙の方がきつい。
コメント欄が流れる。
『世界のリズムえぐい』
『今の止められん』
『黒須抜かれた?』
『南米うま』
悠は水に手を伸ばした。
ボトルを掴み損ね、机の上で倒れかける。
慌てて立て直す。
中身はこぼれなかった。
「風見」
黒須の声。
「はい」
「見えてないなら言え」
「……見えてます」
「なら早く言え」
悠は画面を見る。
緑のユニフォームが、また短いパスをつなぐ。
違う。
見えていないわけではない。
ただ、見えている形が言葉になる前に変わっていく。
「まだ、見えてる途中です」
言ってから、自分でも変な返事だと思った。
黒須が少しだけ笑った。
「途中で言えるようになれ」
怒られたのか、許されたのか分からない。
でも、通信の空気が少し戻った。
前半二十分。
日本は押し返せない。
黒須に入れば、南米の選手が二人で囲む。
水谷が間に入っても、相手の一人が背中から影のように寄る。
獅堂が外へ走る。
だが、南米代表はそこへも平気でついてくる。
走り合いを怖がらない。
獅堂が笑う声が通信に入った。
「速いな、あいつら」
「楽しそうに言うな」
水谷が返す。
「楽しくはないっす。でも、すげえ」
悠は、獅堂の走りを見る。
外へ張る。
一度止まる。
また走る。
相手のリズムに飲まれているようで、わずかにずらしている。
まだ、誰もそこを使えていない。
凛からメッセージが来た。
試合中なので、画面端に通知だけが出る。
『世界でも、最初の一手は同じ。見すぎない』
悠は、通知を一瞬だけ見て、すぐ画面に戻る。
見すぎない。
全部を拾おうとすると遅れる。
相手の全てを読むのではなく、自分たちが一番生きる場所を見る。
前半三十四分。
南米代表がまた中央でボールを持つ。
黒須が寄せる。
相手は逃げる。
その逃げ道は、さっきまでと違って少し大きかった。
水谷が低い位置で待つ。
悠は声を出した。
「水谷さん、そこ」
水谷が動く。
相手のパスが少しだけ弱くなる。
奪いきれない。
でも、ボールの勢いが死んだ。
黒須がそこへ足を入れる。
こぼれたボールを、悠が拾う。
日本の前に、初めて広い芝が見えた。
「黒須さん」
「分かってる」
黒須はもう走っていた。
南米の守備は戻りが速い。
普通なら間に合わない。
だが、黒須はまっすぐ行かなかった。
一度、相手の視線を中央に集める。
獅堂が外に広がる。
水谷が遅れて中央に入る。
悠は黒須の走り出しを見た。
さっきまでなら、黒須が一番速く生きる道を探した。
今は違う。
黒須がどこへ走れば、獅堂が外で勝てるか。
水谷がどこにいれば、もう一度つながるか。
そこまで見ないと足りない。
「逆です」
黒須が一拍だけ遅れて、進路を変えた。
信じた、というより、賭けた。
南米のセンターバックが黒須の最初の走りへ引っ張られる。
空いた外側へ、獅堂が飛び出す。
「来い!」
獅堂の声。
ボールが芝の上を走る。
獅堂が受ける。
南米のサイドバックが追う。
獅堂は抜き切らない。
外で一度止め、相手を止める。
そこへ、水谷が遅れて入った。
低いパス。
水谷が触る。
さらに中央。
黒須。
シュート。
キーパーが飛ぶ。
指先が触れる。
ボールは少し浮き、ゴール前へ落ちた。
黒須がもう一歩詰める。
相手のディフェンダーも滑り込む。
画面の中で、青と緑が絡まる。
ボールが先にネットを揺らした。
1対1。
実況が一気に高くなる。
日本語の叫び。
海外の声。
コメント欄の文字。
全部が画面の下で爆ぜた。
『決まったあああ』
『黒須!』
『獅堂の外やばい』
『風見、今の見えてた?』
『日本、追いついた!』
悠は何も言えなかった。
手が少しだけ震えている。
通信の向こうで、黒須が短く言った。
「遅い」
「すみません」
「でも通った」
その一言だけで、次を見られた。
前半は1対1で終わる。
ハーフタイム。
誰も長く喋らない。
高城コーチの声が入る。
「相手のリズムに付き合いすぎるな。風見、全部を読むな」
「はい」
「獅堂、外で勝て。中に入りたくなるな」
「はい」
「黒須」
「はい」
「風見の声を一回だけ待て」
黒須が少し黙る。
「一回だけですね」
「一回でいい」
悠はそのやり取りを聞きながら、ボトルのふたを開けた。
今度は手が滑らなかった。
◇ ◇ ◇
後半、南米代表はさらに速くなった。
リズムのズレに、力が加わる。
中央で揺らし、外で加速し、戻ったと思えば逆へ切る。
日本の守備は何度も裂かれた。
水谷が戻る。
黒須が前から追う。
獅堂が外の守備まで下がる。
外で勝つために走っていた獅堂が、自陣深くまで戻り、息を詰めるようにサイドを閉じている。
「俺、守備で目立つタイプじゃないんだけど」
「今は目立ってる」
水谷が返す。
「嬉しくないっす」
それでも、獅堂は戻った。
黒須も後ろ向きに走る場面が増える。
前へ刺すための選手が、自分のゴールへ向かって走る。
その重さが、画面越しにも見えた。
後半二十六分。
南米の決定機。
エリア内で三人が絡む。
シュート。
日本のキーパーが弾く。
こぼれ球を水谷が拾った。
もう蹴り出すだけでいい場面。
だが、水谷は蹴り出さなかった。
ボールを抱えるように一度止め、すぐ悠へ預ける。
「行ける?」
通信越しに水谷の声。
悠は画面を見る。
黒須は中央で二人を背負っている。
獅堂は外にいる。
でも、獅堂の外側は閉じられていた。
南米はもうそこを警戒している。
その警戒の分だけ、獅堂の後ろに遅れて入れる空間がある。
元々KIRAが練習で見せたような、遅れた入り方。
今日は獅堂がそこにいる。
派手に外を裂く選手が、誰よりも遅れて中へ入ってくる。
「獅堂さん、待って」
「待つの苦手なんだけど」
「今だけ」
「今だけな」
黒須が中央で受ける。
南米の二人が寄る。
黒須は前を向かない。
向いたら潰される。
悠は黒須を使って、相手の目を止める。
水谷が下で支える。
獅堂はまだ走らない。
外の相手が、一瞬だけ黒須を見る。
そこだった。
「獅堂さん」
「はいよ!」
獅堂が外から中へ切り込む。
赤いクラブのロゴを背負っていた選手が、今は青い代表ユニフォームで、南米の守備の背中を裂いた。
パスが出る。
獅堂が受ける。
キーパーが前に出る。
黒須が中央へ走る。
水谷も遅れて入る。
誰に出すか。
獅堂は笑った。
たぶん、画面の向こうで。
クロスではなく、低いシュート。
キーパーが反応する。
弾く。
こぼれたところへ、黒須が詰める。
だが、南米のディフェンダーが体を投げ出す。
ボールは横へ転がる。
水谷。
一歩遅れて入った水谷が、体勢を崩しながら押し込んだ。
ネットが揺れる。
2対1。
日本逆転。
「っしゃ!」
獅堂の声が通信を割る。
水谷は笑わない。
「今の、俺でいいの?」
「入り方は良かったです」
悠が言うと、水谷が少しだけ笑った。
「そこだけ?」
黒須の声が入る。
「集中しろ。まだ終わってない」
後半残り十五分。
南米代表は前へ来た。
リズムがさらに荒くなる。
歌うようだったボールが、今度は刃物みたいに鋭くなる。
日本は押し込まれる。
スタジオの照明が熱い。
指先が汗で滑る。
悠は何度も画面全体を見る。
全体を見ようとして遅れそうになり、そのたびに凛のメッセージを思い出す。
見すぎない。
一つ、見る。
今、一番消えそうな場所。
後半四十二分。
南米のサイドアタッカーが獅堂の外を取った。
獅堂は一度置き去りにされる。
「悪い!」
「戻れ!」
黒須の声が飛ぶ。
獅堂が戻る。
だが、足がそろわない。
青い守備が一瞬だけ乱れる。
外から低いボール。
中央で南米の選手が触る。
日本のキーパーが反応する。
弾く。
ボールはゴール前で止まる。
止まったように見えた。
そこへ緑のユニフォームがもう一枚入ってくる。
悠はカーソルを合わせる。
遅い。
水谷が先に体を入れた。
シュートは足に当たり、上へ跳ねる。
黒須が後ろ向きのまま、体を投げる。
ボールが外へ逃げた。
コーナー。
通信の中で、誰かが大きく息を吐いた。
誰かは分からなかった。
後半アディショナルタイム。
南米の最後の攻撃。
中央の選手がボールを持つ。
ドリブルで二人を引きつける。
外へ出す。
クロス。
ゴール前に緑の選手が三人。
日本の青が重なる。
ボールは高く上がり、長く落ちてこない。
やけに長く見えた。
ヘディング。
キーパーが触る。
バーに当たる。
跳ね返り。
獅堂が体を投げ出す。
水谷が蹴り出す。
笛。
試合終了。
2対1。
日本、世界大会初戦勝利。
通信の中で、いくつもの声が重なった。
獅堂が叫ぶ。
水谷が大きく息を吐く。
黒須は短く「よし」とだけ言った。
悠は、コントローラーを握ったまま、画面の中の青い選手たちを見ていた。
日本のコメント欄が速すぎて読めない。
海外の言葉も混ざる。
教室のグループチャットが鳴る。
SNSの通知が止まらない。
家の下から、父親の「入ったのか?」という声が聞こえた。
悠は返事をしようとして、声が出なかった。
代わりに、スマホが震えた。
凛から。
『初勝利』
短い。
それだけ。
悠は少し遅れて、返信した。
『勝った』
送ってから、同じことを言っているだけだと気づいた。
すぐ既読がつく。
『見てた』
悠は、そこでやっと水を飲んだ。
ボトルの中身は、ほとんどなくなっていた。
◇ ◇ ◇
試合後のインタビューやチームミーティングが終わった頃、次戦の相手映像が流れた。
欧州王者候補。
中心選手、レオン・ヴァイス。
白と濃紺のユニフォーム。
画面の中の彼は、笑わない。
ボールを受けても、体の動きに無駄がない。
相手が寄せる。
レオンは先にそこを見ている。
パスが出る前から、守備の穴が閉じられていく。
黒須が珍しく何も言わなかった。
獅堂も、さっきまでの軽口を止めている。
水谷が小さく言う。
「これ、嫌だね」
悠は画面を見ていた。
南米代表のリズムとは違う。
南米には熱があった。
飲まれても、まだこちらの体温が残っていた。
レオンの映像には、それがなかった。
温度のない手で、ピッチの端から少しずつ折りたたまれていく。
自分が見ようとする前に、見たい場所が消えていく。
レオンが画面の中でパスを出す。
そのパスで、相手の守備が動く。
次の瞬間には、もうゴール前だった。
高城コーチが映像を止めた。
「次は第2戦。相手は欧州王者候補」
誰も返事をしない。
黒須がやっと口を開いた。
「見れば分かります」
高城コーチはうなずいた。
「分かっているなら、準備しろ」
映像が消える。
画面は暗くなる。
さっきまで勝ったばかりなのに、部屋の中はもう次の試合に向かっていた。
悠は、暗くなったモニターに映る自分の顔を見た。
少しだけ笑っているようにも見えた。
自分では、そんなつもりはなかった。




