第20話 日本代表戦の朝、俺たちの選考戦
朝のテレビは、いつもより音が小さかった。
日本代表のグループステージ三戦目。
キックオフは八時。
学校へ行く前に、全部は見られない。
それでも、悠はリビングに座っていた。
制服のズボンだけ穿いて、上はまだシャツのまま。
ネクタイは結んでいない。
母親が台所で言う。
「遅れるよ」
「分かってる」
「本当に分かってる?」
「あと少し」
テーブルには、食パンの皿と、飲みかけの牛乳。
スマホには凛からのメッセージ。
『今日は全部見られないから、見すぎない』
そのすぐ後に、
『でも、見るなら声を聞いて』
悠はテレビを見る。
ピッチ上の日本代表は、昨日までよりも声が多いように見えた。
実際の音は中継では拾いきれない。
でも、手の動き、顔の向き、ボールを出す前の指差し。
それらが、妙に目に入る。
右サイドの選手が、戻す前に手を上げた。
センターバックが受ける。
相手の前線が出る。
すぐに逆へ振る。
ただの戻しではない。
戻す前に、味方がもう準備している。
悠は牛乳のコップを持ったまま、少しだけ止まった。
戻す声。
昨日の失点。
戻すと言って、変えた。
味方を置き去りにした。
「悠」
母親に呼ばれて、悠は顔を上げる。
「本当に行く時間」
「うん」
テレビでは、まだ試合が続いている。
結果は見られない。
でも、十分だった。
声を出す。
出したら、変えない。
変えるなら、その前に言う。
当たり前のことみたいなのに、昨日はできなかった。
学校へ向かう道で、スマホが震える。
凛からだった。
『見た?』
『少し』
『何見た?』
『戻す前に味方が準備してた』
少し間が空く。
『今日はそれ』
それだけだった。
◇ ◇ ◇
学校は、代表戦の話で少し浮いていた。
教室の後ろで、誰かがスマホの速報を見ている。
「今どうなってる?」
「先生来るぞ」
「いや、気になるだろ」
悠も気にならないわけではなかった。
でも、今はそれ以上に夜が重い。
選考戦。
候補リストに入るかどうか。
世界大会につながるかどうか。
昼休み、屋上前の踊り場に行くと、凛は珍しくまだ来ていなかった。
悠は階段に座り、弁当箱を開ける。
今日はおにぎりだった。
母親が急いで作ったのか、海苔が少しずれている。
一つ目を食べ終わる頃、凛が来た。
少し息が上がっている。
「遅い」
「先生に捕まった」
「悪いことしたのか」
「してない。たぶん」
凛は隣に座り、ノートを開く。
いつもより、ページの余白が多かった。
「今日は書くこと少ない」
「珍しい」
「言うことも少ない」
凛はペンで短く書いた。
出した声を、裏切らない。
悠はその文字を見る。
「重いな」
「うん」
「怖いんだけど」
「怖くないと、たぶん雑になる」
「そういうこと言うなよ」
凛は少しだけ黙った。
それから、いつもよりゆっくり言う。
「昨日の失点、私は見てない。でも話だけで分かる。風見くんは見えたものを優先して、言ったことを後回しにした」
悠は返事をしなかった。
「見えるのは強い。でも、チームで見えすぎると、たぶん味方が消える」
「味方が消える?」
「味方が、風見くんの頭の中の駒になる」
その言葉は、少し痛かった。
悠はおにぎりの包装を畳む。
指先に海苔が少しつく。
「俺、そんなつもりない」
「分かってる」
「でも、そう見える?」
「見える時があると思う」
凛はそこで、ノートを閉じた。
「今日は、見えたものより、言ったことを先にして」
「それで負けたら?」
「その時は、たぶんチームの負け」
「俺のせいじゃなくなるってこと?」
「違う」
凛は首を横に振る。
「一人のせいにしない試合をするってこと」
悠はすぐには返せなかった。
一人で勝ってきたつもりはない。
凛がいた。
コメント欄があった。
でも、操作していたのは自分だった。
勝っても負けても、自分の手に残った。
これからは、そうではなくなる。
それが、少し怖い。
予鈴が鳴る前、凛が言った。
「風見くん」
「何」
「今日、もし選ばれそうになったら、ちゃんと喜んで」
「まだ早い」
「早くても」
「何で」
凛は少しだけ目を逸らした。
「私が、たぶん変な顔するから」
意味が分からなかった。
でも聞く前に、予鈴が鳴った。
◇ ◇ ◇
夜。
BLUE LYNXの非公開ロビーには、昨日よりも人が多かった。
担当者。
選手。
候補生。
水谷。
そして、選考担当と表示されたアカウントが二つ。
悠はヘッドセットをつける。
手が少し冷えている。
机の上には水。
メモ。
出した声を、裏切らない。
その下に、自分で書き足した。
変えるなら、先に言う。
担当者が説明する。
「今日は代表選考候補の最終確認です。三本行います。一試合目はチーム戦。二試合目は短時間の状況戦。三試合目は結果次第で個別確認になります」
三本。
最後まで行けるかどうかも分からない。
「風見さんは、まず青チームの中盤で入ってください」
「はい」
水谷は同じ青チームだった。
KIRAもいる。
昨日と同じではない。
でも、少しだけ知っている名前がある。
それだけで助かった。
一試合目。
相手は赤チーム。
候補生が多い。
全員、速い。
前から来る。
戻す先を切る。
外へ出させて、そこで奪う。
悠は最初の五分、ほとんど前を向けなかった。
水谷が言う。
「焦らなくていい」
「はい」
「あと、声」
「はい」
前半九分。
悠は中央で受ける。
相手が寄る。
戻せる。
前も少し空いている。
昨日なら、見えた前を使ったかもしれない。
悠は言う。
「戻します」
センターバックへ。
相手が前へ出る。
「右」
短く続ける。
右サイドバックへ。
KIRAが受ける。
相手が寄る。
「もう一回、中」
KIRAから悠へ戻る。
相手のボランチが前へ出る。
悠は水谷を見る。
水谷が降りる。
相手も見る。
出したい。
でも、今は違う。
「水谷さん、流して」
悠の声が少し震えた。
水谷は受ける直前、触らずに流す。
その先に、右ウイング。
前を向く。
クロス。
ファー。
青の選手が合わせる。
外れる。
得点にはならない。
でも、通話の向こうで水谷が言った。
「今の声、助かる」
それだけで、指が少し温かくなる。
前半二十一分。
赤チームに先制された。
中央で短く回され、悠の背中を使われる。
0対1。
選考担当は何も言わない。
担当者も何も言わない。
試合はすぐに再開する。
前半三十四分。
悠は同点の形を作る。
一度戻す。
右へ振る。
中央へ入れる。
水谷が落とす。
悠が受ける。
打てる。
でも、足が出る。
悠はボールを左へ置く。
シュートではない。
左ウイングへ。
低いクロス。
KIRAが入る。
相手の足が先。
クリア。
惜しい。
でも、まだ届かない。
前半終了。
0対1。
ハーフタイム、選考担当の一人が初めて口を開いた。
「風見さん、声は出ています。ただ、まだ味方を見てから言っています」
悠は返事をする。
「はい」
「見えてからでは遅い場面があります。先に決めて、声を出す場面も必要です」
見えてからでは遅い。
操作でも、声でも、同じことを言われている。
後半。
悠は少しだけ変えた。
全部を見てから言わない。
戻す形を決める。
走らせる場所を決める。
外れたら、自分も責任を持って戻る。
後半十五分。
青の攻撃。
悠は中央で受ける前に、言った。
「右、準備」
KIRAが少し早く右へ開く。
悠が受ける。
相手が寄る。
戻す。
センターバック。
相手が出る。
すぐ右。
KIRA。
相手が寄る。
KIRAは止まらない。
中へ返す。
悠。
水谷が降りる。
「水谷さん、背中」
悠が言う。
水谷が受けるふりをして、背中へ流す。
右ウイングが走る。
通る。
クロス。
ニア。
水谷。
触る。
ボールはキーパーの手に当たる。
こぼれる。
悠が詰める。
打てる。
相手のボランチが戻る。
足が出る。
悠は打たない。
一度、後ろへ落とした。
KIRA。
シュート。
低い球。
相手の足の間を抜ける。
ネット。
1対1。
通話の中で、声が重なった。
「ナイス」
「今の良い」
「追いついた」
悠は声を出せなかった。
自分のゴールではない。
でも、今の一点には、自分の声が入っていた。
戻す。
右。
背中。
落とす。
全部がつながった。
試合は1対1で終わった。
勝ってはいない。
でも、負けてもいない。
評価がどうなのかは分からない。
担当者が言う。
「二本目に入ります」
悠は水を飲んだ。
ぬるい。
でも、喉の乾きは消えなかった。
◇ ◇ ◇
二本目は、状況戦だった。
残り十分。
0対1で負けている状態。
青チームは一点が必要。
赤チームは引いて守る。
一番、悠が焦りやすい状況だった。
開始直後から、赤は中央を閉めた。
外へ出させる。
クロスは跳ね返す。
戻せば、少しずつ時間が減る。
時計の数字が、画面の左上で進む。
四十一分。
四十二分。
四十三分。
ただのゲーム内時間なのに、やけに速い。
後半四十三分。
残り七分。
悠は右で受ける。
半歩。
相手は動かない。
抜けない。
戻す。
中央。
トップ下。
相手が寄る。
打てない。
戻す。
時間が減る。
通話の中で、誰かの息が荒くなる。
悠も焦っている。
勝ちたい。
ここで点を取らなければ終わる。
世界大会。
候補リスト。
凛の顔。
母親の「何が残るの」。
全部が指に乗る。
後半四十五分。
残り五分。
右から入れる。
跳ね返される。
左へ振る。
相手はずれない。
中央へ入れる。
足が出る。
戻す。
また時間が減る。
水谷が言う。
「まだある」
ある。
あるけど、減っている。
画面の時計だけが、冷たく進む。
後半四十六分。
悠は中央が空いたのを見た。
今度こそ入れられる。
でも、声を出していない。
味方は走っていない。
昨日なら、そこへ差していたかもしれない。
今日は違う。
「待って」
悠は言った。
自分にも、味方にも。
一度戻す。
センターバック。
相手の前線は出てこない。
なら、さらに戻す。
キーパー。
ロビーが一瞬だけ黙る。
時間は減る。
でも、相手の二列目が少しだけ前へ動いた。
「右、遅れて」
悠が言う。
KIRAはすぐに出ない。
半拍遅れて右へ開く。
キーパーからセンターバック。
センターバックから悠。
相手が寄る。
悠はKIRAへ。
半拍遅れた分、相手のサイドが少しズレている。
KIRAが受ける。
縦へ行かない。
中へ戻す。
悠。
水谷が降りる。
相手のセンターバックが迷う。
悠は叫ぶほどではない声で言った。
「水谷さん、使わない」
水谷が止まる。
相手も止まる。
その後ろを、左ウイングが斜めに走った。
悠はそこへ出す。
通る。
左ウイング。
角度はない。
クロス。
低い。
ニアに誰もいない。
ファーにKIRA。
相手も戻る。
KIRAが足を伸ばす。
届くか。
届かないか。
当たった。
ボールが浮く。
キーパーが戻る。
手を伸ばす。
ボールは、その手の上を越えた。
バーに当たる。
落ちる。
ライン上。
一拍、止まったように見えた。
水谷が詰める。
相手の足も出る。
どちらが先か分からない。
ボールが押し込まれる。
ネットが揺れた。
1対1。
残り二分。
悠は、今度は声が出た。
「あ」
それだけだった。
通話の向こうで、水谷が笑った。
「今の声、点のあとかよ」
誰かも笑った。
少しだけ空気が緩む。
でも、まだ終わっていない。
残り二分。
赤が前に出てくる。
青は守る。
悠はボールへ行きたい。
でも、中央を消す。
行かない。
右へ出される。
KIRAが詰める。
クロス。
クリア。
笛。
状況戦、1対1。
負け状態から追いついた。
担当者が言う。
「三本目、行きます」
悠は椅子の上で、少しだけ背筋を伸ばした。
三本目まで残った。
それが良い意味なのか、単にまだ判断できないからなのかは分からない。
でも、次がある。




