第19話 選考前夜
代表選考の候補リスト、という言葉は、翌朝になってもまだ机の上に残っていた。
紙に書いたわけではない。
でも、何度も見たせいで、文字の形だけが頭の中に貼りついている。
候補として検討します。
リストには入ります。
ただ、ここからです。
最後の一文が、一番重かった。
悠は制服の袖に腕を通しながら、スマホを見る。
BLUE LYNXからの追加連絡は、まだ来ていない。
昨日の紅白戦のあと、凛からは夜遅くまでメッセージが来た。
『行かない判断』
『戻す=逃げではない』
『でも説明しないと、味方には伝わらない時がある』
最後の一文だけ、少し引っかかっている。
説明しないと伝わらない。
配信では、伝わらなくてもよかった。
画面の中で通れば、コメント欄が勝手に意味をつけてくれた。
でも、チーム戦ではそうはいかない。
昨日も、味方の候補生が「戻しすぎ」と言いかけた。
そのあと得点につながったから、何となく収まった。
もし、つながらなかったら。
ただの消極的なプレーになっていた。
朝食のテーブルで、母親が言った。
「今日も夜、練習?」
「うん」
「毎日?」
「今週は多いかも」
母親は皿の端に落ちたパンくずを、指で集めている。
「体調、崩さないようにね」
「分かってる」
「分かってることが増えると、忘れることも増えるから」
悠は目玉焼きに箸を入れかけて、止めた。
母親はそれ以上言わなかった。
父親は新聞を畳みながら、こちらを見る。
「お前のやつ、今日も選考か」
「練習。たぶん確認」
「そうか」
それだけだった。
でも、悠にはその「そうか」も少し重かった。
◇ ◇ ◇
学校では、いつもより多く声をかけられた。
「風見、代表候補ってマジ?」
「まだ候補じゃないんだろ?」
「世界大会行くの?」
「行ったらサインくれよ」
半分は冗談。
半分は本気。
悠は鞄を机に置きながら、曖昧に返す。
「まだ何も決まってない」
「でも名前は上がってるんだろ?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
悠にも分からない。
リストに入る。
検討される。
候補になるかもしれない。
似たような言葉が、少しずつ違う意味で並んでいる。
その違いを、いちいち説明するのも変だった。
昼休み。
屋上前の踊り場へ行くと、凛はもういた。
今日はノートではなく、スマホを見ている。
「学校、うるさかった?」
「少し」
「だよね」
「白瀬の方にも来た?」
「少し」
「何て?」
「風見くんって日本代表になるの、って」
「やめてほしい」
「うん」
凛はスマホを伏せた。
今日は弁当を開けていない。
「食べないのか」
「あとで」
「また眠い?」
「眠い」
「寝ろよ」
「昨日、紅白戦の話聞いてたから」
「俺のせいか」
「七割くらい」
「増えたな」
凛は少しだけ笑ったが、すぐに表情を戻した。
「昨日の話、もう一回聞いていい?」
「どこ」
「戻しすぎって言われかけたところ」
悠は弁当箱を開ける。
白米の上にふりかけがかかっている。
小さな海苔が、ふたの裏に少し貼りついていた。
「俺がキーパーまで戻した。相手の前線を出したくて」
「それは伝えた?」
「伝えてない」
「水谷さんには?」
「たぶん分かってた」
「でも他の人には分からなかった」
「そう」
凛は短くメモを取った。
「次、そこ来ると思う」
「何が」
「風見くんのプレーが通るかじゃなくて、味方に使わせられるか」
「味方に使わせる?」
「風見くんが見えてても、味方が走らなかったら終わる。風見くんが戻しても、味方が逃げだと思ったら止まる」
悠は箸を止めた。
今まで、相手の逃げ道ばかり見ていた。
でもこれからは、味方の迷いも見ないといけない。
「声出すの苦手なんだけど」
「知ってる」
「即答するな」
「でも、全部喋らなくていいんじゃない」
凛はペンで短く書く。
戻す前に一言。
使う前に一言。
「たとえば?」
「『戻す』とか『待って』とか」
「普通すぎないか」
「試合中に長い説明されたら困る」
「まあ」
「あと」
凛は少しだけ言いにくそうにした。
「風見くん、たぶん配信よりチームの方が声小さくなる」
「分かってる」
「分かってるだけだと、たぶん変わらない」
悠は返事をしなかった。
勝ち方を覚えた。
半歩を覚えた。
戻す意味を覚えた。
行かない判断も覚えた。
その分、自分が何も言えないまま始まる怖さが残っている。
「白瀬」
「何」
「俺、声出せなかったらどうなる」
凛は少しだけ考えた。
「たぶん、誰かに取られる」
「何を」
「場所」
その答えは、妙に分かりやすかった。
◇ ◇ ◇
夜のBLUE LYNXロビーには、昨日より人が少なかった。
今日は練習生と候補生だけ。
水谷はいない。
担当者の声が入る。
「今日は明日の選考戦に向けた確認です。風見さんには、組み立て役と守備側の両方を見ます」
「はい」
「あと、コミュニケーションも確認します」
やっぱり来た。
悠はヘッドセットの位置を直す。
耳が少し熱い。
組み分けが出る。
青チーム。
知らない候補生が二人。
昨日「戻しすぎ」と言いかけた相手も、同じチームにいた。
アカウント名はKIRA。
声は少し硬い。
「よろしくお願いします」
「お願いします」
悠も返す。
試合開始。
前半六分。
悠は中央で受ける。
相手が前から来る。
いつものように戻したくなる。
でも、戻す前に、口を開いた。
「戻します」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
それでも通話には入ったらしい。
KIRAが少し遅れて反応する。
センターバックへ下げる。
相手の前線が出る。
右へ逃がす。
KIRAが右で受ける。
縦へ行こうとして、相手に詰められる。
戻す。
悠へ。
そこから中央へ入れる。
通った。
トップ下が前を向く。
シュートまでは行けない。
でも、形にはなった。
KIRAが言った。
「今の、声あると分かりやすいです」
悠は返事に詰まった。
「はい」
敬語が変だった。
でも、言えた。
前半十八分。
同じ形。
今度は相手が戻す先を狙っている。
悠は戻しかけて、やめる。
「待って」
声が出た。
KIRAが走り出しかけて、止まる。
相手の中盤が前へ出る。
その背中にスペースができる。
悠はそこへ縦を入れた。
トップ下が反応。
前を向く。
フォワードへ。
シュート。
キーパーが弾く。
こぼれ球。
クリア。
得点にはならない。
でも、担当者が短く言った。
「今の声は良かったです」
悠は水を飲みたくなった。
まだ前半なのに、喉が乾いている。
前半二十九分。
ミスが出た。
悠が「戻す」と言った。
KIRAは戻る準備をした。
でも悠は途中で、前が空いたように見えてパスを変えた。
KIRAは止まっていた。
相手に読まれて奪われる。
カウンター。
失点。
0対1。
通話が一瞬だけ止まる。
KIRAが言う。
「今の、戻すって言いましたよね」
「……言いました」
「だったら戻してほしいです」
声は強くなかった。
でも、はっきりしていた。
悠はコントローラーを握る手に力を入れた。
逃げたい。
言い訳なら、いくつか浮かんだ。
前が空いた。
相手が釣れた。
見えた。
でも、KIRAは悠の声で止まった。
その止まった場所を、悠が裏切った。
「すみません」
悠は画面を見たまま言った。
「今のは、俺が変えました」
通話の向こうで、KIRAが黙る。
担当者も何も言わない。
悠は続けた。
「次から、言ったら変えません。変える時は、先に言います」
自分の声が硬い。
でも、最後まで言えた。
KIRAが短く返す。
「お願いします」
それだけだった。
許されたわけではない。
でも、次のプレーは来る。
そのことだけが、少し救いだった。
前半は0対1で終わった。
◇ ◇ ◇
後半。
悠は迷った。
声を出すのが怖くなる。
言えば、味方が動く。
言ったあとで変えれば、また壊れる。
だったら黙っていた方がいい。
そう思いかけた。
でも、黙ればたぶん、場所を取られる。
昼の凛の言葉が戻る。
後半十二分。
悠は自陣でボールを受ける。
相手が前から来る。
戻せる。
縦もある。
悠は一瞬だけ黙った。
それから言った。
「戻します」
今度は変えない。
センターバックへ戻す。
相手が前へ出る。
右へ逃がす。
KIRAが右で受ける。
悠が中央へ顔を出す。
KIRAから戻る。
相手のボランチが前へ出る。
悠は縦を見た。
見えた。
でも言っていない。
言っていないから、味方はまだ走っていない。
悠は一度、外へ出した。
「次、中」
短く言う。
トップ下が少し下がる。
相手のセンターバックが迷う。
外から戻す。
中央。
トップ下。
通る。
前を向く。
相手が出る。
悠は走る。
トップ下から、リターン。
悠が受ける。
打てる。
でも、打たない。
左へ流す。
左ウイング。
低いクロス。
フォワードが合わせる。
キーパーが触る。
こぼれ球。
KIRAが詰める。
シュート。
ネット。
1対1。
通話の向こうで、KIRAが小さく言った。
「ナイスです」
悠は、今度はすぐ返した。
「今の、ありがとう」
言い慣れていない言葉だった。
でも、出た。
試合はそのまま1対1で終わった。
勝っていない。
でも、前半とは違う。
練習後、担当者が言った。
「風見さん、前半の失点は覚えておいてください」
「はい」
「後半は良かったです。声を出したあと、変えない判断ができていました」
変えない判断。
また一つ増えた。
メモに書くには少し重い。
練習が終わると、凛からメッセージが来ていた。
『どうだった?』
悠は、少しだけ考えてから返した。
『声でミスった』
すぐ既読。
『それは良い』
『失点した』
『でも良い』
悠は画面を見た。
意味が分からない。
そう打とうとして、やめる。
凛から次が来た。
『今ミスれて良かった』
悠は椅子にもたれた。
確かに、明日の選考戦で同じことをしたら終わっていた。
『明日、声出す』
送信。
既読。
少しして返ってくる。
『うん。逃げないで』
悠はスマホを伏せた。
逃げないで。
その言葉はもう、前ほど遠くなかった。




