第2話 十万再生の翌朝
寝た気がしなかった。
目を閉じると、画面の文字が流れてくる。
ゴースティング。
代行。
AI戦術。
配信ログ出せ。
それから、昨日の切り抜きのタイトル。
《同接3人の無名、全国12位を後半ATで破壊》
朝六時半。
スマホは枕元で震えていた。
風見悠は布団から片手だけ出し、画面を見る。
九万八千再生。
昨日、寝る前は二万くらいだった。途中から怖くなって、正確には見ていない。
通知欄には知らない名前が並んでいる。
『この人何者?』
『相手が自滅しただけ』
『いや誘導されてる』
『未経験者ってマジ?』
『AIに戦術組ませてるやつだろ』
『配信ログ消す前に保存しとけ』
悠はスマホを伏せた。
部屋の隅には、昨日脱いだ制服のズボンが椅子にかかったままになっている。
机の上の麦茶は空になり、コップの跡だけが白く残っていた。
一晩経っても、部屋は昨日の試合のあとみたいだった。
「悠、起きてる?」
ドアの向こうから母親の声がした。
「起きてる」
「朝ごはん、冷めるよ」
「うん」
起き上がる時、床に落ちていたコントローラーを踏みかけた。
慌てて避け、拾う。
手に持つと、昨日の最後のシュートだけが指に戻った。
弱く、左隅へ転がしたボール。
勝った。
その感触はある。
でも、勝ったことだけをうまく取り出せなかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席で、テレビはワールドカップ特集を流していた。
元選手が、ボードに磁石を並べて守備のズレを説明している。
左サイドに寄せる。
中央を消す。
逆サイドを空けるふりをして、ボランチで取る。
昨日、自分がやったことと少し似ていた。
でもテレビの中の元選手が言うと、ちゃんとサッカーに聞こえる。自分が言うと、ゲームの言い訳みたいになる。
父親が新聞を畳んだ。
「昨日も遅くまでゲームしてたのか」
「そんなに」
「受験もあるんだからな」
「分かってる」
「分かってるならいいけど」
それ以上は言われなかった。
ポケットのスマホが震える。
見ない。
また震える。
三回目で、母親がこちらを見た。
「鳴ってるよ」
「あとで見る」
少しきつい声になった。
母親は何か言いかけて、やめた。
悠はご飯を半分残して、席を立った。
◇ ◇ ◇
電車の中で、悠は結局スマホを開いた。
十万四千再生。
知らないアカウントが、昨日の試合の一部を切り抜いていた。
冒頭七秒。
相手がボールを持つ。
悠の選手が一歩下がる。
パスが出る。
そこに、もう一人がいる。
字幕が付いていた。
《逃げ道を作って、そこに先回りする無名配信者》
コメントも伸びている。
『これ普通にすごい』
『相手が見てる配信を確認して動いた可能性ある』
『未経験がこれ語ってるのきつい』
『黒須なら一瞬で潰しそう』
悠は画面を閉じた。
窓に映った自分の顔は、寝不足で目の下が少し暗い。
昨日と同じ制服。同じ鞄。
なのに、自分の名前だけが画面の向こうで少しずつ剥がされていくようだった。
学校の最寄り駅で降りる。
改札を抜けると、前を歩いていた男子たちの声が耳に入った。
「見た? 昨日のWEのやつ」
「全国十二位の?」
「そうそう。同接三人のやつ」
「チートじゃねえの、あれ」
「AIに戦術読ませてるとか」
「知らん。でも変じゃね? 全部先回りしてたし」
悠は歩く速度を少し落とした。
知らない顔だった。
自分の話ではない。
そう思えばいい。
でも、片方が笑いながら言った。
「名前、YU_KAZEだっけ。風なんとかって本名だったりして」
足が止まりかけた。
すぐに歩き直す。
ただの雑談だ。
それでも背中に汗がにじんだ。
校門前で、スマホがまた震える。
クラスのグループだった。
『昨日のこれ、風見っぽくない?』
『名前がYU_KAZEだから?』
『声ちょっと似てる気がする』
『風見ってゲームやるん?』
『でもあいつ運動苦手じゃね?』
『体育のサッカーで、ボール来たら固まってたやつ?』
『リアルで蹴れないのに、戦術だけ語るタイプ?』
最後の三つだけ、やけに目についた。
運動苦手。
リアルで蹴れない。
間違ってはいない。
だから余計に、指先が動かなくなった。
悠は返信欄を開きかけた。
違う。
それだけ打とうとして、消した。
打てば、反応したことになる。
違うと打つためには、まず自分の名前をそこに置かなくてはいけなかった。
たぶん。
スマホを鞄にしまう。
その時、背後から声がした。
「風見くん」
悠は振り返った。
白瀬凛が立っていた。
同じクラス。
肩の少し下で切り揃えた髪。鞄の外ポケットには、小さなホイッスルのキーホルダーが付いている。
サッカー部にいたことがある。
それくらいは知っていた。
でも、まともに話したことはほとんどない。
「おはよう」
「……おはよう」
凛は悠の顔を少し見た。
「寝てない?」
「寝た」
「少し?」
「普通に」
「普通に寝た人の顔ではないと思う」
返す言葉が見つからない。
凛はそれ以上突っ込まず、校舎へ歩き出した。
なぜか、並んで歩く形になる。
「十万いったって」
「相手の配信も荒れてるらしい」
「本当に風見だったら笑う」
周りの声が近い。
悠は、何も聞こえないふりをした。
凛は横で、少しだけ眉を動かした。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、空気がいつもより少し浮いていた。
誰かのスマホから、小さくゲーム実況の音が漏れている。
悠は自分の席へ行き、鞄を机の横に掛ける。
見ない。
聞かない。
教科書を出す。
筆箱を置く。
消しゴムが転がって、床に落ちた。
拾おうとして椅子を引いたところで、隣の席の男子が声をかけてきた。
「風見、お前WORLD ELEVENやってる?」
手が止まる。
「……少し」
「昨日の動画知ってる? 同接三人のやつ」
「知らない」
自分でも下手な嘘だと思った。
男子は気づいたのか、気づかないふりをしたのか、スマホを見せてくる。
「これ。名前さ、YU_KAZEっていうんだけど」
画面に、昨日の試合が映っている。
自分の操作。
自分のミス。
自分のゴール。
音量は小さいのに、シュートの音だけがやけに大きく聞こえた。
悠は視線を外した。
「へえ」
「お前、サッカー詳しいじゃん。こういうの分かんの?」
「分からない」
「いや絶対分かるだろ」
「ゲームのことは、あんまり」
言った瞬間、自分でも変な返しだと思った。
WORLD ELEVENをやっていると言ったばかりなのに。
その時、凛が横から入ってきた。
「それ、朝から音出して見るやつ?」
男子が振り返る。
「白瀬も知ってんの?」
「見た」
「やっぱすごい?」
「すごいかどうかは知らない。でも、面白かった」
「何が?」
「相手が嫌がるところに、ずっとボールを置いてた」
男子はよく分からない顔をした。
「それってうまいってこと?」
「うまいとは違うと思う」
悠は凛の横顔を見た。
彼女は画面を見たまま、淡々と言う。
「たぶん、ずっと見てたんだよ。相手がどこで楽をしたがるか」
男子は笑った。
「白瀬、解説者みたい。ゲームも分かんの?」
「操作は分からない」
「じゃあなんで」
「サッカーだから」
そこで予鈴が鳴った。
男子は慌ててスマホをしまう。
悠は消しゴムを拾うのを忘れていた。
凛がそれを拾って、机の端に置く。
「落ちてた」
「あ、ありがとう」
「うん」
それだけ言って、凛は自分の席へ戻った。
悠は消しゴムを見た。
角が少し削れている。
昨日のコメント欄より、凛の一言の方が頭に残った。
サッカーだから。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
悠は弁当を持って、教室を出た。
いつもなら席で食べる。でも今日は無理だった。
クラスの中で動画の話題が何度も出る。
誰かが「風見じゃね?」と言う。
屋上へ続く階段の踊り場。
鍵がかかった屋上扉の前なら、人はあまり来ない。
悠はそこに座り、膝の上に弁当を置いた。
卵焼き。
冷えた唐揚げ。
少し潰れたブロッコリー。
箸を動かしているだけで、何を食べているのかあまり分からなかった。
スマホを開く。
十四万七千再生。
もう見なければいい。
そう思いながら、指はコメント欄を開いていた。
『これ本当に本人の操作?』
『配信アーカイブないの?』
『声も出さないし怪しい』
『未経験者の戦術オタクがこういうの語るの嫌い』
『同接3人だったなら証人少ないしな』
悠は、自分のチャンネルを開いた。
昨日の配信は残っている。
消していない。
でも、公開したままにしていいのか分からない。
コメント欄には、すでに人が来ていた。
『ログ確認しに来ました』
『相手配信見てないっぽい?』
『この配置変更、試合前からやってるのか』
『地味にずっと伏線あるな』
『AIか本人かどっち』
本人。
そう書きそうになって、やめた。
証明できない。
配信を消したら怪しい。
残しても怪しい。
黙っても怪しい。
話しても、たぶん怪しい。
悠は弁当のふたを閉めた。
半分以上残っている。
階段の下から足音がした。
悠は反射的にスマホを伏せた。
「ここにいた」
白瀬凛だった。
手には購買のパンと、紙パックの紅茶を持っている。
「探したの?」
「少し」
「何で」
「教室、居づらそうだったから」
凛は隣へ座った。
距離は近すぎない。
でも、逃げるには少し近い。
「食べないの?」
「食べた」
「残ってる」
「見ないで」
「見えた」
凛はパンを一口かじった。
しばらく何も言わない。
悠は、その沈黙が少し苦手だった。
「昨日の動画」
凛が言った。
「勝ったところより、その前が気になった」
悠はスマホを握った。
「俺じゃない」
言ってから、遅かったと思った。
凛はパンを持ったまま、少しだけ首を傾げる。
「まだ何も聞いてない」
「……」
「今の、ほぼ答えだと思う」
悠は口を閉じた。
階段の窓から、グラウンドが少しだけ見える。
サッカー部が昼休みにボールを蹴っていた。
その全部が、ここからは遠い。
凛はスマホを出して、画面を見せた。
昨日の切り抜きではない。
動画分析の画面だった。
「何これ」
「昨日の切り抜き。勝手に伸びてたから、見た」
「普通、再生数だけ見るだろ」
「普通はね」
凛は画面を指でなぞる。
「最初に伸びたのは、逆転ゴールのところ。でも、コメントが増えたのは、その前の奪い方。相手の逃げ道を潰したところ」
「……そんなの、よく分かるな」
「コメントの種類が違うから。ゴールは『すごい』で、奪ったところは『なんで』になる」
悠は返事ができなかった。
「疑惑コメントも増えてる。ゴースティング、代行、AI戦術。あと、未経験がどうとか」
「見た」
「うん」
「なら分かるだろ。もう放っておけばいい」
「放っておくと、たぶん勝手に決められる」
「何を」
「風見くんが何をした人なのか」
その言い方が、少し嫌だった。
でも、嫌なのは凛のせいじゃない。
「俺、何もしてない」
「試合した」
「画面の中でだけど、自分で動かした」
「ゲームだろ」
「ゲームだね」
「だったら」
「でも、サッカーだった」
悠は凛を見る。
凛は、変に力を込めた顔をしていなかった。
「相手のミス待ちじゃなかった。偶然でもなかった。最初から終盤にあそこが空くようにしてた」
「……違うかもしれない」
「違うの?」
答えられない。
凛は紙パックのストローを差した。
刺し損ねて、少し箱がへこんだ。
「ごめん、ちょっと失敗した」
「何が」
「今、いいこと言う流れだったのに」
悠は思わず小さく息を漏らした。
凛も少しだけ口元を緩める。
でも、すぐに真面目な顔に戻った。
「逃げてもいいと思う」
「え?」
「怖いなら。動画消して、アカウントも変えて、知らないふりしてもいい」
意外だった。
もっと前に出ろとか、反論しろとか言われると思っていた。
「でも、それをやったら、昨日の試合まで変なものにされる」
悠の指が、スマホの端を押す。
「別に、俺の試合なんて」
「大事じゃない?」
「……分からない」
正直に言うと、凛はうなずいた。
「分からないなら、今すぐ捨てなくてもいいと思う」
階段の下から、誰かの足音が近づいて、また遠ざかった。
凛はスマホをしまう。
「風見くん」
「何」
「昨日の配信ログ、消さない方がいい」
「残しても疑われる」
「残ってるだけで、全部が嘘じゃないって言える材料にはなる」
「それでも言われるだろ」
「言われると思う」
あっさり認めた。
「じゃあ意味ない」
「意味がないかは、次の試合で変わる」
悠は眉を寄せた。
「次?」
「次も見せるしかない。昨日だけじゃないって」
「簡単に言うなよ」
少し強くなった。
凛は黙った。
悠はすぐに、言いすぎたと思った。
でも謝る言葉が出ない。
凛はパンの袋を小さく畳んだ。
きれいに四角く畳もうとして、途中でくしゃっと曲がる。
「簡単じゃないのは分かってる」
「分かるわけないだろ」
言ってしまった。
凛の手が止まる。
悠は目を伏せた。
「……悪い」
「うん」
「今のは、違う」
「うん」
凛は怒らなかった。
「あの試合、ゲームが上手かったんじゃない」
少し間が空いた。
遠くで、昼休み終了前のチャイムが鳴る準備みたいな電子音が鳴った。
凛は、そこで言った。
「ちゃんとサッカーだったよ」
悠は何も言えなかった。
違う。
そんな大げさなものじゃない。
自分はサッカーなんてできない。
ただ、見ていただけだ。
そのどれも、口に出すと違うものになりそうだった。
チャイムが鳴る。
凛が立ち上がる。
「戻ろう。遅れる」
「……白瀬」
「何」
「なんで、そこまで言うの」
凛は少しだけ考えた。
「もったいないから」
「何が」
「昨日の試合が、疑惑だけで終わるの」
凛はそこで一度、言葉を探すように視線を落とした。
「勝ち方だけなら、たぶん私もここまで気にしなかった。負けてる時に、まだ相手の嫌がる場所を見てたでしょ。
普通なら焦って縦に急ぐ場面で、風見くんだけ別の時間を見てた」
「……そんなふうに見えたのか」
「見えた。だから、消すのはもったいない」
そう言って、階段を下りていく。
悠は少し遅れて立ち上がった。
弁当はまだ重い。
スマホを見る。
通知は止まらない。
でも、配信ログを消す指だけは、もう動かなかった。
画面には、また新しいコメントが増えていた。
『これ、次の配信ある?』
悠はその文字をしばらく見た。
返事はまだ書けない。
それでも、ほんの少しだけ、次も見せたいと思ってしまった。
その気持ちごと、消すことはできなかった。




