第1話 同接3人の逆転劇
後半アディショナルタイム。
スコアは、0対1。
画面右上の時計は、九十二分を越えていた。
コメント欄は、ほとんど動いていない。
同時接続、三人。
いつもの数字だ。
机の端には、開いたままの英語の教科書と、半分だけ飲んだ麦茶が置いてある。
氷はもう溶けていて、コップの外側についた水滴が、ゆっくり机に広がっていた。
『さすがに終わり?』
『相手12位だしな』
『ここまで耐えたのは普通にすごい』
普通にすごい。
その言葉を見て、風見悠は少しだけ口を曲げた。
負ける側に向けられる、優しい言葉だった。
中学の昼休み、校庭の端で同じような顔を向けられたことがある。
無理しなくていい。
見てるだけでも好きならいいじゃん。
そう言われた時、悠は笑った。
笑えた自分が、一番嫌だった。
画面の中では、サッカーゲーム『WORLD ELEVEN』の選手たちが、疲れた足でボールを追っている。
自分のチームは、もう交代枠を使い切っていた。
前線の足は止まりかけている。
中盤も間延びしている。
相手は全国ランク十二位。
プロフィール欄には、プロチーム練習生の表記がある。
こっちは、同接三人の無名配信者。
配信者名は、YU_KAZE。
たぶん、覚えられにくい名前だ。
声もあまり出さない。
勝っても伸びない。
負けたら、そのまま流れて終わる。
そんな配信だった。
相手が右センターバックまでボールを戻す。
九十二分三十四秒。
逃げる。
悠は、コントローラーを握る指に少し力を入れた。
相手はリードしてから、ずっと同じだった。
中央で詰まると、右に逃げる。
右サイドで一度足元に入れて、縦に見せる。
こちらが食いつくと、内側のボランチへ戻す。
そこから左へ大きく展開する。
試合開始から何度も見た。
見せられた、というより、見てしまった。
相手はうまい。
操作も速い。
ボールを失わない。
でも、最後の逃げ道だけは、少し早く選びすぎる。
自分ならここで嫌だと思う場所。
相手が助かるために触りたくなる場所。
そこだけが、画面の上で一秒だけ先に浮いて見える。
逃げ道が、影みたいに先に動く。
現実のサッカーはできない。
ボールは足につかない。
走ってもすぐ置いていかれる。
対人になれば、身体が先に逃げる。
でも、画面の中の二十二人なら。
誰が苦しくて、誰が逃げたがっていて、どのパスコースを見せれば相手がそっちを選ぶかは分かる。
悠は左のウイングを一歩だけ外へ出した。
追わない。
取れそうな距離で、あえて待つ。
相手の右サイドバックが縦へ出す。
視聴者の一人がコメントを打つ。
『そこ行かれるぞ』
行かせる。
縦を見せるために、三分前からそこを空けていた。
相手が縦へ運ぶ。
悠はボランチを半歩だけ内側へ寄せる。
取りに行かない。
切るのは前じゃない。
戻しだ。
相手の選手がライン際で一度止まる。
画面越しでも、迷いが見えた。
抜ける。
でも抜けば、タッチラインに追い込まれる。
戻す。
でもいつものボランチは、少しだけふさがっている。
だったら次。
相手は中央を飛ばして、斜め後ろへ落とした。
そのパスが出る前に、悠はもう選手を動かしていた。
「そこじゃない」
小さく声が漏れた。
マイクに入ったかもしれない。
でも止められなかった。
相手のパスコースに、こちらのインサイドハーフが入る。
ボールを奪う。
コメントが一つ止まる。
『え』
九十二分五十八秒。
奪った場所は、右サイドの少し内側。
相手の守備はまだ整っていない。
けれど、ただ前に出しても追いつかれる。
悠は一度、後ろへ戻した。
『え、戻すの?』
『時間ないぞ』
時間はない。
だから戻した。
前へ行きたい場面で戻されると、相手は一瞬だけ前へ出る。
奪い返せると思うからだ。
その一歩がほしかった。
相手のボランチが食いつく。
センターバックも少し前に出る。
左サイドバックだけが遅れた。
さっきからずっと、そこだけ戻りが半歩遅い。
前半から何度か揺らした。
後半に入って、わざと右から攻めた。
六十八分、七十四分、八十一分。
全部、点にはならなかった。
たぶん、見ていた人には無駄な攻撃に見えたと思う。
でも、相手の左サイドバックは、そのたびに内側を見る癖が強くなった。
自分の背中を気にしすぎて、前に出る判断が遅くなった。
悠はセンターバックからボランチへ入れる。
ワンタッチで右へ。
そこから縦ではなく、斜めに中央へ。
相手のカーソルが一瞬遅れる。
「なんでそこにいるんだよ」
相手の配信音声が、遅れてこちらのスピーカーから聞こえた。
マッチングした時、相手側も配信中だと分かった。
向こうの同接は、たぶん千を越えている。
こちらとは別の世界だ。
『相手なんか言った?』
『今の読んでた?』
『いや偶然じゃね』
偶然。
悠はその言葉を横目で見た。
偶然でいい。
そう思った方が、楽だった。
ボールは中央へ入る。
こちらのトップ下が受ける。
相手のセンターバックが一枚出てくる。
ここで前を向けば潰される。
だから悠は、トラップの前にもう次の入力をしていた。
ヒールで後ろ。
走り込んだボランチへ落とす。
そこから、相手の左サイドバックの背中へ浮き球。
三手前から、そこに穴を作っていた。
ボールが高く上がる。
画面の中の影が、先に動く。
右ウイングが走る。
相手の左サイドバックは、内側を見ていた。
一歩遅れる。
二歩目で気づく。
もう間に合わない。
『通った』
『え、まじ?』
『なんでそこ空いてんの』
右ウイングがペナルティエリアの角でボールを受ける。
クロスではない。
切り返しでもない。
悠はニアに走り込む選手を見せた。
相手のキーパーが、ほんの少し前へ寄る。
センターバックもニアへ引っ張られる。
本命は後ろ。
マイナスの低いパス。
そこへ、後半から入れた選手が走っていた。
シュート。
ゴールネットが揺れた。
九十三分二十六秒。
1対1。
コメント欄が動く。
『うお』
『追いついた』
『今の組み立て何?』
『地味だけどやばくない?』
悠は返事をしなかった。
水を飲もうとして、コップを少し倒しかけた。
机に広がった水を袖で拭く。
画面の中では、相手がキックオフの準備をしている。
まだ終わっていない。
アディショナルタイムは四分。
残りは、ほとんどない。
でも相手の方が焦っていた。
全国十二位。
勝って当然の相手。
同接三人の無名に追いつかれる試合ではない。
たぶん、向こうのコメント欄は荒れている。
悠の画面にも、相手のカーソルの動きが少しだけ荒くなったのが見えた。
キックオフ。
相手はすぐに縦へ入れた。
さっきまでなら、そこで一度落ち着かせていた。
でも今は違う。
早く取り返したい。
早く終わらせたい。
その気持ちが、選手の向きに出る。
悠は前線から追った。
本気で奪いには行かない。
コースを限定するだけ。
右へ。
右へ。
また右へ。
相手が嫌がって中央へ戻す。
そこを奪いに行く。
相手は慌てて左へ逃げた。
左は、もう空いていない。
さっき同点ゴールの前に空けた場所を、今度は閉じていた。
相手が苦し紛れにロングパスを出す。
悠はセンターバックで競らない。
一歩下がる。
こぼれる場所へ、ボランチを置く。
ボールが落ちる。
回収。
九十三分五十秒。
コメント欄の速度が、少しだけ上がった。
『相手ミスった』
『いや今ミスらせた?』
『なんか変な位置にいるな毎回』
『この人、操作は普通なのに位置が嫌すぎる』
普通。
その通りだと思う。
悠の操作は、うまい人たちみたいに派手ではない。
スキルムーブで三人抜くこともできない。
反応速度も、トップ層には負ける。
ただ、必要な入力だけは遅れないように、同じ形を何度も練習してきた。
派手な技ではなく、逃げ道を閉じる一歩。
そこだけは、指が覚えている。
だから、そこで勝負しない。
相手が選べる未来を、一つずつ減らす。
逃げたい方向を作って、そこに罠を置く。
最後の一点だけは、九十分前から少しずつ置いてきたものを拾う。
悠はボールを中央で持った。
相手が寄せる。
ここでシュートは打てない。
パスも少ない。
画面の上では、詰まっているように見える。
けれど一人だけ、左の大外で止まっている選手がいた。
前半からずっと、ほとんど使っていない選手。
相手はそこを捨てている。
捨てさせた。
悠は、逆サイドへ大きく展開した。
ボールが飛ぶ。
相手のカーソルが切り替わる。
遅い。
左の選手が受ける。
中を見せる。
相手が寄せる。
縦へ抜くふりをする。
さらに寄る。
そこで、中央へ戻した。
トップ下。
ワンタッチでスルーパス。
さっき同点を決めた選手が、今度はおとりになって走る。
相手のセンターバックがついていく。
空いた場所に、ボランチが入る。
ペナルティエリアの少し外。
シュートコースは細い。
でも、相手のキーパーは一歩だけ右へ寄っていた。
同点ゴールの残像を、まだ見ている。
悠はシュートボタンを押した。
強くない。
巻きすぎてもいない。
ただ、空いたところへ流す。
ボールが芝の上を滑っていく。
キーパーが飛ぶ。
指先が届かない。
ゴール左隅。
ネットが揺れた。
九十四分十一秒。
2対1。
逆転。
画面が少し明るくなり、選手たちが走り出す。
悠はコントローラーを持ったまま、何も言えなかった。
コメント欄が止まった。
一秒。
二秒。
それから、知らない名前が流れ込んできた。
『は?』
『勝った?』
『今の読んでた?』
『全国12位だぞ相手』
『同接3人って聞いて来たんだけど何これ』
『地味なのに相手なんもできてなくて草』
『これ切り抜く』
『なんでそこに選手いるんだよ』
『相手完全に誘導されてる』
悠は瞬きをした。
同時接続が、三から二十七になっていた。
次に見た時には、八十を越えていた。
数字の増え方が気持ち悪かった。
勝ったはずなのに、手のひらが冷たい。
画面の向こうで、相手の配信音声が荒れている。
「いや、待て。今のは……いや、なんでだよ。なんで全部そこにいるんだよ」
負けた相手の声だった。
怒っているというより、納得できない声。
悠は音量を下げた。
これ以上聞くと、少し変になりそうだった。
コメント欄はまだ流れている。
称賛だけではなかった。
『ゴースティングだろ』
『相手の配信見てた?』
『代行じゃね?』
『AI戦術使ってるやついるって聞いたけど』
『操作下手なのに勝つの見てて気持ち悪い』
『配信ログ出せ。逃げたら黒』
悠の指が止まる。
さっきまで机を拭いていた袖口が、まだ少し濡れていた。
同接は二百を越えた。
通知が鳴る。
誰かがクリップを作成しました。
続けて、もう一つ。
誰かがクリップを作成しました。
タイトルが表示される。
《【神読み】同接3人の無名、全国12位を後半ATで破壊》
悠は、その文字をしばらく見ていた。
神読み。
そんなものじゃない。
ただ、見ていただけだ。
ずっと。
現実のピッチで何もできなかった分まで。
できなかった、で終わらせたくなかった分まで。
誰にも言えなかったサッカーの話を、画面の中に置いていただけだ。
教室では話さない。
経験者に混ざれば、すぐに「やってたの?」と聞かれる。
そこで少し黙る。
少し笑われる。
その繰り返しが面倒で、いつの間にか黙るようになった。
このアカウントだけだった。
試合を見て、考えて、間違えて、また考える場所。
三人しか見ていなくても、ここだけは自分のピッチだった。
通知がまた鳴る。
今度はゲームではない。
スマホの画面が光っていた。
クラスのグループチャット。
誰かが、さっきの切り抜きのリンクを貼っている。
『これやばくね?』
『相手ランク12位らしい』
『YU_KAZEって名前、風見っぽくね?』
指先が、スマホの上で止まった。
部屋の外から、テレビの歓声が聞こえてくる。
ワールドカップのニュースか、代表戦の特集か。
下の階では、父親が何か言っている。
いつもと同じ家の音だった。
でも、画面の中だけがもう戻らない。
コメント欄はまだ流れていた。
『プロとやってほしい』
『黒須と当たれ』
『未経験でこれ読めるの怖い』
『未経験ってマジ?』
『リアルで蹴れない奴がサッカー分かった顔するな』
悠は配信終了ボタンにカーソルを合わせた。
押せば終われる。
今なら、まだ。
けれど通知は止まらない。
誰かの知らない手で、自分の試合が切り取られ、名前をつけられ、知らない場所へ運ばれていく。
勝った。
たぶん、勝った。
でも、勝ったことで何かが始まってしまった。
悠はコントローラーを机に置いた。
濡れた袖口が、少しだけ冷たかった。




