第16話 練習生という名前
BLUE LYNXからのメールは、思っていたより普通だった。
件名は固い。
本文も固い。
予選突破のお祝い。
これまでの配信と公式戦でのプレーを確認していたこと。
今後のオンライン面談の希望。
練習参加の打診。
そして、未成年の場合は保護者同席が必要だという一文。
悠はそこで画面から目を離した。
保護者同席。
その五文字が、一番現実だった。
プロチーム。
練習生。
代表選考。
どれも遠い言葉なのに、保護者同席だけは、いきなり家の中に入ってくる。
リビングでは、母親が洗い物をしている音がした。
皿と皿が当たる。
水が流れる。
テレビでは、ニュース番組が小さな音で流れている。
悠はスマホを握ったまま、部屋のドアの前で止まった。
言うしかない。
昨日、予選を突破した。
BLUE LYNXから連絡が来た。
オンライン面談に親が必要。
言葉にすれば、それだけだ。
それだけなのに、喉が詰まる。
階段を降りると、父親が先に気づいた。
「どうした」
悠はスマホを見せる。
「これ」
父親は画面を覗き込んだ。
読む速度は遅い。
一行ずつ、ちゃんと確認している。
母親も手を拭きながら近づいてきた。
「なに?」
「ゲームのチームから、連絡が来た」
悠が言うと、母親は少しだけ眉を上げた。
「チーム?」
「プロチーム」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が少し変わった。
父親はもう一度画面を見る。
「これ、本物なのか」
「本物。公式アカウントからも来てる」
「詐欺とかじゃないんだな」
「違う」
今回は、はっきり言った。
それでも、声は少し固かった。
「明日、オンライン面談したいって」
「明日?」
「うん」
「急だな」
父親が画面をスクロールする。
「未成年は保護者同席」
「だから、言った」
言ってから、少し変な言い方になったと思った。
父親はスマホを返した。
「時間は」
「夜。二十時」
母親が少し考える。
「勉強は?」
来ると思っていた。
でも、実際に言われると少しだけ刺さる。
「やる」
「今もやってる?」
「……前よりは」
「それはどういう意味」
「やってる」
母親はそこで終わらせなかった。
「大学はどうするの」
悠はすぐに返せなかった。
父親も黙った。
テレビの中で、天気予報のBGMだけが流れている。
「まだ、決めてない」
「ゲームの方がうまくいかなかったら?」
母親の声は責めていなかった。
でも、その分、逃げにくかった。
「その時に、何が残るの」
悠はスマホを握る手に力を入れた。
何が残る。
配信のアーカイブ。
予選突破。
コメント。
切り抜き。
半歩。
戻す。
凛のノート。
どれも答えになるようで、ならない。
「分からない」
正直に言った。
母親の眉が少し動く。
悠は続ける。
「でも、今やめたら、たぶん何も残らない」
自分で言ってから、少し驚いた。
そんなことを言うつもりはなかった。
でも、言ってしまうと、思っていたより本当だった。
「うまくいかなかったら怖い。でも、ここで話も聞かないで終わったら、ずっと残る気がする」
母親は返事をしなかった。
父親が小さく息を吐く。
「話だけなら聞いてみればいい」
悠は顔を上げる。
「いいの?」
「聞くだけだろ。そこで全部決めるわけじゃない」
「うん」
「ただ、契約とか金が絡むなら、ちゃんと確認する」
「分かってる」
「本当に分かってるかは知らん」
それは少しだけ、いつもの父親だった。
母親はまだ不安そうだったが、最後にはうなずいた。
「明日、私も聞く」
「ありがとう」
その言葉は、少し小さく出た。
母親は何か言いかけて、やめた。
代わりに、洗い物へ戻った。
水の音がまた始まる。
悠はスマホを握り直した。
家の中に、BLUE LYNXという名前が入ってきた。
それだけで、昨日までと床の硬さが少し違う気がした。
◇ ◇ ◇
翌日の昼休み。
屋上前の踊り場で、凛はメール文面を読むなり、少しだけ目を細めた。
「ちゃんとしてる」
「どこが」
「文面。未成年の扱い。練習参加の表現。いきなり契約とは言ってない」
「白瀬、何者だよ」
「普通の高校生」
「普通の高校生はそこ見ない」
「見る人もいる」
凛はノートに、面談で聞くことを書き出していく。
配信可否。
学校との両立。
代表選考との関係。
主にその三つだった。
前なら、もっと項目を増やしていた気がする。
でも今日の凛は、なぜかそこだけを強く囲んだ。
「少なくない?」
悠が聞く。
「多すぎると、風見くんが途中で固まる」
「固まらない」
「固まる」
即答だった。
悠は弁当のふたを開ける。
今日はハンバーグだった。
箸で切ると、少し硬い。
「代表選考との関係って、まだ早くないか」
「聞くだけ」
「俺が代表とか、まだ」
「まだ、でしょ」
凛はペンを止めずに言った。
「完全に無いなら、向こうもそう言う。可能性があるなら、濁す」
「濁したら?」
「その時考える」
「全部その時考えるじゃん」
「全部先に分かったら苦労しない」
悠は黙った。
正しい。
でも、凛の正しさは時々少し雑だ。
「昨日、親に言った」
「どうだった」
「母親に、うまくいかなかったら何が残るのって聞かれた」
凛のペンが止まった。
「何て答えたの」
「分からないって」
「うん」
「でも、今やめたら何も残らない気がするって」
凛は少しだけ目を伏せた。
それから、ノートの隅に小さく何かを書いた。
「何それ」
「あとで」
「また隠すのか」
「今言うと変になる」
そう言われると、余計に気になる。
でも、凛が本当に見せたくない時の顔をしていたので、悠は追わなかった。
予鈴が鳴る。
凛はノートを閉じる前に、最後に一つだけ言った。
「今日は、向こうに全部決めてもらう日じゃないから」
「え?」
「風見くんが、続けたいって言う日」
悠は返事ができなかった。
続けたい。
その言葉は、勝ちたいより少し重かった。
◇ ◇ ◇
二十時。
リビングのテーブルに、ノートパソコンを置いた。
父親は斜め後ろ。
母親は少し離れたソファ。
悠は画面の前に座る。
凛はいない。
当たり前だ。
でも、机の横には、凛の作った質問メモがある。
それだけで少し助かった。
ビデオ通話がつながる。
画面の向こうに映ったのは、BLUE LYNXの担当者だった。
年齢は三十代くらい。
スーツではなく、チームロゴの入った黒いシャツを着ている。
「風見悠さんですね。今日はお時間ありがとうございます」
「はい」
声が少し固い。
担当者は両親にも頭を下げた。
説明は丁寧だった。
BLUE LYNXがWORLD ELEVEN部門を強化していること。
公式オンライン予選で悠のプレーを確認していたこと。
特に、黒須戦以降の修正速度を評価していること。
「正直に言うと、操作精度だけなら、現時点で上にはまだ多くいます」
担当者はそう言った。
母親が少しだけ悠を見る。
悠は画面を見たまま動かなかった。
「ただ、風見さんは試合中の修正が速い。相手の守備の置き方、逃げ道の潰し方、選択肢の消え方をかなり早く見ています」
「……はい」
「配信映えするスキルではなく、試合の流れを読むタイプです。そこは、チームとしても面白いと見ています」
面白い。
黒須にも言われた言葉だ。
でも、今は少し違う重さがあった。
担当者は続ける。
「まずは練習生として、オンライン練習へ参加していただきたいです。正式所属ではありません。報酬も発生しません。練習参加、評価、必要であれば今後の面談、という段階です」
父親が聞く。
「学校生活に支障が出るような時間ですか」
「平日夜の一部と、週末の練習が中心です。ただし、ご家庭と学校を優先して調整します」
母親が聞く。
「配信は続けるんですか」
「大会規定とチーム練習の内容によります。非公開の練習は配信不可です。個人配信については、問題のない範囲で継続可能です」
悠はメモを見る。
凛の字。
配信可否。
学校との両立。
代表選考との関係。
その時、担当者が悠を見た。
「風見さんに一つ、確認してもいいですか」
「はい」
「チーム練習と個人配信の方針がぶつかった場合、どちらを優先しますか」
リビングの空気が止まった。
父親も母親も黙っている。
悠はすぐに答えられなかった。
配信。
同接三人から始まった場所。
黒須と戦った場所。
予選を抜けた場所。
凛が裏で支えてくれた場所。
コメント欄に傷つけられて、助けられて、勝ちたいと言えた場所。
そこを簡単に下げるとは言えなかった。
でも、チーム練習は、今まさに自分が進もうとしている場所だ。
「……ぶつかり方によります」
悠はそう答えた。
担当者は待っている。
逃げの答えに聞こえたかもしれない。
悠は喉を鳴らして、続けた。
「チームの練習内容を守る必要があるなら、配信はしません。でも、自分がどういうふうに見つけられたかは、配信があったからなので」
一度言葉が止まる。
母親が少しだけこちらを見る。
「配信を捨てる、みたいには言いたくないです」
言ってから、少し怖くなった。
生意気に聞こえたかもしれない。
でも、担当者は表情を変えなかった。
「分かりました。今の答えでいいです」
いい。
その一言で、少しだけ息が戻った。
担当者は続ける。
「それから、これはまだ確定ではありませんが」
画面の中の声が少しだけ慎重になる。
「今後、若手・アマチュア枠を含めた代表選考の動きがあります。練習参加の内容次第では、推薦候補に入る可能性があります」
代表。
その言葉は、家の中では大きすぎた。
悠はすぐに返事できなかった。
母親も父親も何も言わない。
担当者は続ける。
「もちろん、保証ではありません。現時点では可能性です」
「……分かりました」
悠はそれだけ言った。
声が、自分でも少し遠く聞こえた。
面談は三十分ほどで終わった。
画面が消える。
リビングに、さっきまでの生活音が戻ってくる。
冷蔵庫の低い音。
時計の針。
遠くの車。
父親が最初に言った。
「すごい話だな」
悠は答えられなかった。
母親は少し不安そうな顔のまま言う。
「無理はしないで」
「うん」
「でも」
母親はそこで言葉を止めた。
少し考えてから、続ける。
「ちゃんとやるなら、ちゃんと話して」
それは、許可なのか、条件なのか、心配なのか。
たぶん全部だった。
「うん」
悠はもう一度うなずいた。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、凛からメッセージが来ていた。
『どうだった?』
悠はしばらく画面を見た。
どうだった。
何から言えばいいのか分からない。
『練習生参加』
送信。
すぐ既読。
『やっぱり』
『あと代表選考の候補の可能性』
既読がついたまま、少し止まった。
凛にしては珍しく、返事が遅い。
悠はベッドに座る。
スマホを握ったまま、手のひらが少し汗ばむ。
ようやく返事が来た。
『すごい』
その次。
『怖いね』
悠は、その二通を見た。
すごい。
怖い。
どちらも、今の自分には合っていた。
『怖い』
そう返した。
凛からすぐに返る。
『明日、ノート見せる』
『昼に隠したやつ?』
『うん』
『何書いたんだよ』
しばらく既読だけがつく。
少しして、短く返ってきた。
『風見くんが選ばれそうになった時に、風見くんが逃げないようにすること』
悠は画面を見たまま、少しだけ固まった。
逃げる。
その言葉は、まだ早い。
でも、否定しきれなかった。
机の上には、予選で使ったメモがある。
半歩。
戻す。
勝ちたいと思ったところで、一回戻す。
その横に、今日の面談メモを置く。
練習生。
代表選考。
保護者同席。
配信を捨てる、みたいには言いたくないです。
並んだ言葉の重さが、全部違う。
悠は電気を消さずに、しばらく机の前に座っていた。
明日から何かが始まる。
そう思った。
でも、始まるというより、もう戻れない場所まで来てしまっただけなのかもしれなかった。




