私の間、あなたの呼吸
第7話
「私の間、あなたの呼吸」
舞台は、いつもと同じ劇場。
でも珠江の中身は、少しだけ違っていた。
ネタは「猫の恋愛会議」。
白黒猫、茶トラ、三毛猫。
それぞれに声を与えた。
「俺は白黒や。人生の陰と陽を知ってる男や」
客席からクスッと笑いが起きる。
珠江は一瞬止まる。
前なら、そのまま次に行っていた。
でも今日は違う。
(今、ちょっと笑った)
一拍、置く。
「……せやけど、恋愛だけは白黒つかんねん」
ドッと笑いが広がる。
珠江の中で、何かがつながる。
(あ、一郎とのあの感じや)
あの夜、家でやった掛け合い。
テンポじゃない。
“相手の反応を待つ”あの感じ。
珠江は客席を見た。
前列の人。
中ほどのグループ。
そして、奥の――君原涼子。
涼子は、まだ笑っていない。
でも、目は前より少しだけ動いていた。
珠江は呼吸を合わせるように話す。
「茶トラは言うねん。“俺は安心感や。だいたいのもんに似てる色やからな”」
笑い。
少し大きい。
珠江は、もう一度だけ間を取る。
「……カレーにも似てるしな」
さらに笑いが広がる。
(速くしゃべるんやない。届くのを待つ)
珠江は初めて、“客席と同じ空気で話している”感覚を掴みかけていた。
舞台が終わる。
拍手。
爆発ではない。
でも、確かに“つながった”手応えがあった。
珠江は深く頭を下げた。
⸻
帰り道。
南海電車に乗り込む。
座席に座った瞬間、珠江の体から力が抜けた。
「……あかん、ちょっと寝る」
次に目を開けたとき。
車内の表示は――
関西空港
「……は?」
珠江は固まった。
周りの乗客が次々と降りていく。
「いやいやいやいや、うち今どこおるん」
慌ててスマホを見る。
時刻は、すでに深夜。
難波方面への最終は、とっくに終わっていた。
「終わった……人生の終電も逃した気分や」
珠江はしばらく立ち尽くしたあと、ため息をついた。
「しゃあない。今日は関空で一泊や」
空港のラウンジに入り、ソファに腰を下ろす。
スーツケースを枕にして寝ている人。
スマホを見続ける人。
ぼんやり天井を見ている人。
ここにも、いろんな人生が転がっていた。
珠江は思わずネタ帳を開く。
《寝過ごして関空》
《終電逃して空港泊》
《移動したはずが、旅になった》
そこへ、家に電話をかける。
数コールで、父・勝一が出る。
「おう、珠江。今どこや」
「関空」
「……は?」
「寝過ごして、気づいたら関西空港や」
少しの沈黙。
そして、爆発。
「お前は芸人やなくて旅行者か!」
珠江は笑いながら答える。
「帰りの電車もないし、ラウンジで寝て、明日の一番で帰るわ」
「自由すぎるやろ。しかも明日、全員休みやから誰も迎えに行かんぞ」
「知ってる」
電話を切ったあと、珠江はソファに横になった。
天井を見上げる。
今日の舞台。
客席の呼吸。
一郎との掛け合い。
そして、関空。
全部が頭の中でつながる。
「……あの掛け合い、めっちゃおもろかったな」
小さくつぶやく。
「あんな感じなんかな」
誰かとやるから面白い。
でも、それを一人でやる。
そのヒントを、今日つかみかけた気がした。
珠江は目を閉じる。
空港のざわめきが、遠くでゆっくり揺れていた。
⸻
翌朝。
一番電車で帰宅。
玄関を開けた瞬間。
家族全員の視線が突き刺さる。
勝一が腕を組む。
「おかえり、関西空港代表」
美沙子が笑いをこらえながら言う。
「飛行機は乗ったん?」
一郎はスマホを構える。
「姉ちゃん、素材として完璧すぎる」
珠江はカバンを置いて、ため息をついた。
「うるさい。全部ネタにしたるからな」
勝一が即座に返す。
「ほな出演料もらうで」
一郎も続く。
「関空泊の再現、俺も出るわ」
珠江は吹き出した。
(やっぱり、これや)
ネタは拾うもの。
でも、笑いは一人で完成しない。
珠江はネタ帳を開き、新しいタイトルを書いた。
《寝過ごして関空》
そして、その横に小さく書いた。
《呼吸を合わせる》
⸻
次回予告
第8話「滑った夜の帰り道」
手応えを感じ始めた珠江の笑い。
しかし次の舞台で――
まさかの大滑り。
「なんでや……昨日はあんなに届いたのに」
同じネタでも、同じ笑いにはならない現実。
一方、君原涼子の表情にも、わずかな変化が現れ始める。
次回、第8話
「滑った夜の帰り道」
笑いは、一度つかんでも、簡単に逃げる。




