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笠木珠江物語〜へこたれてたまるか〜  作者: リンダ


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不完全なネタ

第45話


「不完全なネタ」


珠江は、ネタ帳の前で止まっていた。


泣きながら笑った女性の顔が、ずっと胸に残っている。


笑いは、涙を消すものではない。

涙のそばに座るもの。


そう言ったのは自分だった。


けれど、その言葉を言ったあとから、珠江は急に怖くなっていた。


心に悲しみや痛みを抱えた人に寄り添う笑いとは、何なのか。


軽すぎたら傷つける。

重すぎたら笑えない。

優しすぎても、嘘くさくなる。

踏み込みすぎたら、痛みを乱暴に扱ってしまう。


「……難しすぎるやろ」


珠江はペンを置いた。


レンが隣で、そっとコーヒーを置く。


「珠江さん、また止まってますね」


「うん。完璧に届けたいと思うほど、何も書けへん」


レンは少し考えたあと、言った。


「完璧な寄り添い方って、ないのかもしれません」


珠江は顔を上げる。


レンは続けた。


「でも、不完全でも、ちゃんと向き合ってることは伝わる気がします」


珠江は黙った。


その時、スマホにメッセージが届いた。


あの女性からだった。


《突然すみません。お願いがあります》


珠江は背筋を伸ばした。


メッセージは続く。


《小児がんを患い、長期入院している子どもたちに、笑顔を届けていただけませんか》


珠江は、息を止めた。


病院。

子どもたち。

長期入院。


想像しただけで、胸が締めつけられる。


レンも画面を見て、表情を引き締めた。


「珠江さん」


「……これは、ちゃんと考えなあかん」


その夜、二人はいつもより真剣にネタを考えた。


子どもたちに向ける笑い。


病気を笑わない。

治療を茶化さない。

怖さを軽く扱わない。


でも、病院の中にいる子どもたちが、少しだけ普通の子どもとして笑える時間にしたい。


珠江はふと、自分の幼い頃を思い出した。


「私、小さい頃、注射が大嫌いやってん」


レンが顔を上げる。


「注射ですか」


「うん。予防接種のたびにギャン泣き。病院の待合室で、まだ呼ばれてもないのに泣いてた」


レンが少し笑う。


「早いですね」


「早泣き日本代表やった」


「それ、いけるかもしれませんね」


珠江はネタ帳に書く。


《注射が怖すぎた子どもの頃》

《呼ばれる前から泣く》

《泣き声で順番がバレる》

《お医者さんより先に、自分の想像力に負ける》


レンが言う。


「夫婦漫才にしましょう。僕が冷静な人で、珠江さんが注射嫌いの子ども役もやる」


珠江は眉を上げる。


「二十五歳超えて子ども役やるんか」


「今さらです。関空で一泊した人ですよ」


「関係あるか」


二人は笑った。


でも、笑いながらも慎重だった。


子どもたちが怖がっているものを、笑い飛ばすのではない。


怖がってもいい。

泣いてもいい。

それでも、その怖さを一人で抱えなくていい。


そう伝わるように。


数日後。


病院にアポイントを取り、珠江とレンは小児病棟の一角に設けられた小さなスペースに立った。


客席には、子どもたちがいた。


点滴スタンドのそばに座る子。

帽子をかぶった子。

車椅子の子。

親の隣に座る子。

看護師に寄りかかっている子。


珠江は、胸がいっぱいになった。


けれど、顔にはやわらかい笑顔を浮かべた。


「こんにちは。笠木珠江です」


レンが続く。


「北川レンです」


珠江は言った。


「今日は、無理に笑わんでええです。疲れたら途中で寝ても大丈夫です。寝た子は、うちらのネタが子守唄レベルやったということで、反省します」


子どもたちの何人かが笑った。


珠江は少しほっとした。


そして、注射ネタを始めた。


「私、小さい頃、注射が大嫌いやったんです」


レンが言う。


「普通、好きな子は少ないですよね」


「いや、私の嫌い方はプロやった」


「注射嫌いのプロ?」


「待合室に入った瞬間、泣いてた」


子どもたちが少し笑う。


「まだ名前も呼ばれてへんのに、泣いてるんです。看護師さんが“笠木さーん”って言う前に、私が“いやああああ”って言うから、順番が分かる」


レンが突っ込む。


「呼び出しシステムより早いですね」


「病院側も助かってたと思う。“あ、次は泣き声の子や”って」


子どもたちから笑いが起きる。


珠江は続けた。


「お医者さんが優しく言うんです。“ちょっとチクッとするだけやで”って。でも子どもの私は思ってました。“そのチクッの範囲、誰が決めたん?”って」


レンが頷く。


「たしかに個人差ありますよね」


「大人のチクッと、子どものチクッは違います。大人の“ちょっと歩く”も信用できへん。だいたい遠い」


子どもたちが声を出して笑った。


珠江は、その笑いを見て、胸の奥が熱くなる。


「でもね」


珠江は少し声をやわらかくした。


「泣いても、怖がっても、ちゃんと終わるんです。終わったあと、私は毎回こう言ってました。“もう二度と来えへん”って」


レンが聞く。


「それで?」


「次の予防接種で、ちゃんと来てました」


レンが突っ込む。


「来てるんかい」


笑いが広がる。


珠江は笑いながら言った。


「怖くても、泣いても、来たんです。えらいんです。注射が平気な子もえらい。泣く子もえらい。逃げたいけど座ってる子も、めちゃくちゃえらい」


その言葉に、子どもたちの表情が少し変わった。


笑いの中に、安心が混ざる。


次に珠江は、写真を見せながら電車ネタに入った。


画面に映るのは、九州のカラフルな電車。


「見てください。九州の電車、めっちゃ派手です」


子どもたちが画面を見る。


「これ見たあとに南海電車見ると、南海電車が急におとなしく見えるんです。“すんません、今日は地味な服で来ました”みたいな顔してる」


レンが言う。


「南海電車に顔あります?」


珠江は即答する。


「あります。電車はだいたい顔でしゃべってます」


子どもたちが笑う。


「ラピートなんか、顔めっちゃ強いです。見た目は“空港まで連れていくぞ”って感じ。でも内心は、“たまには和歌山に行きたいわ”って思ってます」


画面がラピートの写真に変わる。


「サザンは言います。“俺は和歌山まで行く。でも新大阪にも行ってみたいし、海の上の橋も渡ってみたい”」


レンが入る。


「欲張りですね」


「電車にも夢があります」


次に、くろしおの写真。


珠江は低めの声を作る。


「どうも、くろしおです。君ら、新宮まで来たい言うてるけどな、紀伊半島は甘ないで」


子どもたちの中から笑い声が上がる。


「くろしお先輩は言います。“白浜越えたら、人生の湿度が変わる”」


看護師も笑っていた。


珠江は、少しずつ会場全体が緩んでいくのを感じた。


最後に、関空寝過ごしネタ。


「私、南海電車で寝過ごして、気づいたら関西空港やったことがあります」


子どもたちがざわつく。


「ほんま?」


「ほんまです。夜です。帰りの電車、ありません。飛行機も乗りません。パスポートもありません。なのに空港にいます」


レンが言う。


「完全に目的地を間違えた旅人ですね」


「家に電話したら、お父ちゃんに“お前は芸人やなくて旅行者か”って言われました」


笑いが起きる。


「お母ちゃんには“飛行機乗ったん?”って聞かれました。乗ってへんわ。寝過ごしただけで海外行ってたまるか」


さらに笑い。


「でもね、失敗しても、帰ってこられたらネタになります。関空で一晩過ごしても、翌朝の電車で帰れます」


珠江は、子どもたちを見た。


「だから、今日しんどい人も、怖い人も、無理に元気にならんでいいです。でも、いつか“あの時めっちゃ大変やったな”って言える日が来たら、その時は一緒に笑いましょう」


会場が静かになった。


でも、重い静けさではなかった。


子どもたちの中に、微笑んでいる子がいた。


声を出して笑っている子がいた。


親が涙を拭きながら笑っていた。


看護師が、静かに拍手を始めた。


その拍手が、ゆっくり広がった。


珠江とレンは深く頭を下げた。


終演後。


一人の男の子が、珠江に言った。


「注射、泣いてもええん?」


珠江はしゃがんで、目線を合わせた。


「ええよ。泣いても、座ってたらめちゃくちゃえらい」


男の子は少し考えて、頷いた。


「じゃあ、今度泣くけど、座っとく」


珠江は笑った。


「それ、最強や」


別の女の子は、レンに言った。


「くろしお先輩、また聞きたい」


レンは珠江を見た。


珠江はにやっと笑う。


「くろしお先輩、病院出張決定やな」


病院を出たあと、珠江はしばらく歩道で立ち止まった。


レンが隣に立つ。


「珠江さん」


「うん」


「今日のネタ、不完全でしたね」


珠江は少し笑う。


「せやな。途中、ラピートのくだり一個飛ばしたわ」


「でも、届いてました」


珠江は頷いた。


「うん。届いてた」


完璧ではなかった。


でも、子どもたちは笑った。


泣いてもいいと伝えられた。


怖さを笑い飛ばすのではなく、怖がる自分ごと肯定できた。


珠江はネタ帳を開いた。


《小児病棟》

《注射嫌いのプロ》

《泣いても座ってたらえらい》

《九州の電車と南海電車》

《くろしお先輩、病院出張》

《関空で一晩、帰ってこられたらネタになる》

《怖さを消すんじゃなくて、怖がる自分を笑えるようにする》


最後に、こう書いた。


《不完全なネタでも、ちゃんと向き合えば届く》


珠江はペンを止めた。


そして、もう一行足した。


《笑顔が戻った。少しだけ。でも、それで十分》



次回予告


第46話「その場で生まれるもの」


小児病棟でのライブを通して、不完全でも届く笑いを知った珠江とレン。


しかし、子どもたちから飛び出す予想外の質問やツッコミに、用意したネタは次々と崩れていく。


台本どおりにいかない。


けれど、その瞬間にしか生まれない笑いがある。


次回、第46話

「その場で生まれるもの」


笑いは、準備した言葉と、目の前の声が出会った時に生まれる。

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